Myojo

10000字ロングインタビュー

「26才でデビューできなかったら辞めよう」
退路を断ってたどり着いた、武者震いするほどの激しい戦い。

10000字ロングインタビュー

『僕がJr.だったころ』

SixTONES・Snow Man編

第7回

宮舘涼太

〔Snow Man〕

みやだて・りょうた
1993年3月25日生まれ。東京都出身。A型。身長174cm。
2005年10月1日、ジャニーズ事務所入所。
2020年1月22日、Snow ManとしてCDデビュー。

※このインタビューは、MYOJO2021年1月号に掲載されたものです。

「YOUはなんでもできるね」の言葉が自信をくれた。
しかし、デビューだけはできなかった。
自分で決めたリミットがせまる中、やっとここにたどり着いた。
Snow Manのためならなんでもできる。俺ならできる。
言葉じゃなく、自らの姿勢で証明するために、これからも戦っていく。

俺んち来たヤツは、だいたいデビューする

──ずっと昔、亀梨(和也)くんが「江戸川区出身の後輩ができたんです」ってうれしそうに話してたのを思い出すよ。その後輩が10000字インタビューに登場する日が来るなんて。
「そんなこと言ってくれてたんですね。俺、ずっと10000字インタビュー出たかったんですよ。いつも読ませてもらってたし、この企画ってデビューしたから出られるんですよね?」
──そうだね。
「誘っていただいて家に行くと、亀梨くんに“俺んち来たヤツはだいたいデビューすんだよね”ってよく言われたんです。そこにいるの、横尾(渉)くんや河合(郁人)くんなんですよ。俺以外、全員デビュー済み。そう言われたら、俺もいくしかないじゃないですか。“いつか絶対デビューするんだ”って思ったあの日を思い出します。時間はかかったけど、本当にデビューできたんだなって。今、インタビューされながら改めて実感しますね」
──さっそく生い立ちから聞いていくと、お母さんは昔ちょっとヤンチャだったんでしょ?
「はい。母の“負けんな! やり返せ!!”が宮舘家の家訓みたいなものですね。ただ、その言葉って勘ちがいから始まったんです。小学校の下校中、友だちとジャンケンで負けたらみんなのランドセルを持つって遊びをしてて。たまたま母が、ベランダから僕がみんなの荷物を渡されるとこを目撃したんです。すごい大声で“涼太、負けんじゃねえ! やり返せ!!”って。恥ずかしくて走って家に帰り、“あれはね”って状況を説明して(笑)」
──ハハハハハ。お父さんにも“負けんな!”って言われて育てられた?
「父はわりと怒んなかったですね。自分の好きなことを一生懸命やればいいってスタンスで。ただ、まわりに迷惑かけんなよって」
──小2でサーフィンとダンスを始めてるよね。
「はい。そこだけ聞くと、なんかアクティブなコに聞こえますけど、すごい内気というか、自分の感情や考えを表現するのが苦手で。人前で自分の名前すら恥ずかしくて言えないコだったんです。サーフィンは両親の影響で始めたんですけど、ダンスはマイケル・ジャクソンなどのダンス映像を家で見る機会が多くて、初めて自分から“やってみたい”って意思表示して始めたんです」
──ダンスを始めてどうだった?
「楽しかったです。いつかは踊って歌えるアーティストになりたい。この道しか自分にはないってボンヤリですけど思ってましたね」

先頭まで這い上がって、マイクを持ってやる

──11才のとき、お母さんが内緒でジャニーズに履歴書を送ったんだよね?
「はい。ある日、“買い物行くから”って原宿に連れてかれて。“やったー!!”って浮かれてたら、想像とちがう場所にクルマが止まり、“あの建物に行ってきて”って言われ、入っていったらオーディション会場でした。そこで幼なじみに運命的な再会をするわけです。“うわ!”みたいな」
──渡辺(翔太)くんは、ひと足先に入所してたんだよね。
「俺、懐かしくて近づいて話しかけたんですね。“久しぶり!”って。そしたら、目を合わさずコソッと“今、そういうんじゃないから”って言われて。それはそうですよね。オーディションの選ぶ側と選ばれる側が親しくしてんのはよくないよなって。そしたら手首を触りながら、またコソッと“それ取れ”って教えてくれて。当時、ラバーバンドが流行ってて、俺は何本もしてたんです。アクセサリーをたくさんつけてるのは印象がよくないらしくて、俺、あわてて取って。そのアドバイスがなかったら、今ここにいないかもしれない。幼なじみとの再会が運命の分かれ道でしたね」
──渡辺くんとは、幼稚園やダンススクールが一緒だったんだよね?
「はい。小中学校は別でしたけど、親同士が仲よくて。小学生のときもふた家族で海に行ったりしてたんです。ただ、オーディションの日は何年かぶりの再会で」
──オーディションはどうだった?
「100人以上いたと思うんですけど、踊っているうちに“キミ、前へ”って言われて一番前のセンターで踊ったんです。歌のオーディションでは『世界に一つだけの花』を歌って。その間、ずっと超至近距離で俺を観察する人がいて。オーディションが終わって、その人に“ネームプレート、どこに返したらいいですか?”って話しかけたら、もしやとは思ったんですけど、その人がジャニーさんで。“知らないよ!”って怒られたけど、“YOU、ラーメン食べに行く?”って誘われ、ふたりきりでラーメンを食べたんです。そのとき、“YOUは歌もダンスもなんでもできるよね”って言われて。その言葉が、今の宮舘涼太を生んだんだと思います」
──どういうこと?
「例えばアクロバットにしろ、舞台にしろ“これやって”って言われて、初めてのことで、できるかわからず不安な気持ちになりそうな瞬間、その言葉が頭をよぎって不安をかき消してくれるんです。“俺ならきっとできる”って」
──結局、オーディションはどうなったの?
「正直、受かるも受かんないも、変な話どっちでもよかったんですね。でも、翌日のレッスンに呼ばれたんで行ったら、今思えば当然なんですけど、オーディションでは最前列のセンターで踊らせてもらってたのに、レッスンでは最後列の端で。遥か彼方、最前列の人だけマイクを持ってた。そこでスイッチが入ったんです。“ここから先頭まで這い上がって、マイクを持ってやるよ”って。思い出しますね、『少年倶楽部』の収録。J.J.Expressがマイクを持って歌って、俺はそのバックの5列目の端、観覧者の目の前で。ライトで眩しく輝いてるJ.J.Expressのメンバーに、ふっか(深澤辰哉)がいた。“1年早く入ってたら、あそこにいたかもしれない世界なのか”って思いながら踊ってましたね」

Mis Snow ManのYOUはMだよ

──入所直後はトンガってたよね。
「はい(笑)。もう常にケンカ腰。1歩歩くごとに“は?”“は?”って戦闘モードで。もう目に映るものすべて敵みたいな感じ。最後列から這い上がってやる、負けねえぞって気持ちが強すぎたんでしょうね。当時、目つきも悪かったですし、襟足を伸ばして赤く染めたりしてましたね」
──Jr.を続けたのは負けん気の強さからだったんだね。
「あとは憧れです。いちばん覚えてるのが、入所直後のバレーボールの仕事で。会場に着いたら、なぜか廊下でバニラの香りがしたんです。楽屋に入ったら、楽屋もバニラの香りに包まれてて。Jr.をかき分け香りをたどったら、長い髪でファーの衣装を着て足を組みながらジャニーさんとしゃべってる亀梨くんがいた。その姿を見た瞬間、“この人みたいになりたい!”って」
──じゃあ入所2年目、Hey! Say! JUMPのデビューはどう映った?
「僕には関係なかったというか。まだマイクすら持ててない。だからデビューどころの話じゃない。悔しいなって気持ちはずっとありましたけどね」
──初めてマイクを持った日のこと覚えてる?
「覚えてます。Jr.BOYSのときです。『少クラ』の収録でしたね。ただマイクってチョロチョロってコードがついているタイプと、ワイヤレスのタイプがあるんです。僕が最初に持ったのはチョロチョロのほうで。ワイヤレスのほうが格上なんですね。“次はあのマイクだ”って、新しい目標ができて」
──Mis Snow Manが結成されたのは高2のときだったね。
「代々木第一体育館でやったKis-My-Ft2とA.B.C-Zの合同コンサートの日ですね。着替え場にめずらしくジャニーさんが来て、いきなり“YOUはMis Snow ManのMだよ。じゃあね!”って言い残して行っちゃったんです。何を言ってるかわからなくて。その日のステージで“Mis Snow Man!”って紹介されカメラに抜かれて、“ん!? これってグループってことだよな”って気づいて。Jr.BOYSはグループというより事務所内だけの呼び方だったんで、Mis Snow Manが初めてのグループ。うれしかったですね」
──この年、舞台『DREAM BOYS』に出てるよね。
「忘れられない舞台ですね。本番5分前に、ピエロの格好をして客席を練り歩いて、ケータイ電話の注意や誘導灯について説明する伝統の係をMis Snow Manが任されたんです。メンバーが日替わりでピエロになったんですけど、僕が任された公演で機材トラブルがあって30分くらい開演が遅れてしまうことになって。僕はすでにお客さんの前に出ているから、30分間、僕が場をつながなくちゃいけない。先輩たちが“がんばれ!”って袖から言ってくれて。でも、どうすることもできなくて。どうにか10分くらい時間を使って舞台からはけて。何もできなかったことが申しわけなくて、座長の亀梨くんに謝りに行ったんです。もう顔面蒼白で。俺の顔を見た亀梨くんに言われたんです。 “幕が開いたら一切気にすんな。お前を見に来てくれた人がいる。自信を持ってやれ。お前、プロだろ”って。その言葉で、仕事に対する考え方が変わりましたね」

勝手にひとりで、あきらめんじゃねえよ!

──Jr.時代最大のピンチっていつだった?
「やっぱり、Mis Snow Manがなくなったときですね」
──2011年、メンバーの離脱や阿部(亮平)くんが大学受験のために活動休止したときだね。阿部くんの活動休止、いちばん反対したのが宮舘くんだったんでしょ?
「はい。阿部の真意がわからず、“どうしたんだよ。今までがんばってきたのにふざけんなよ!”って思ったんですよね。入所してから同期や仲のよかったJr.が大勢辞めていった。みんな、それなりの理由を口にして。だから阿部も、このままフェイドアウトしていくんだろうな。“あきらめちゃったんだな”って思ったんですよね。“絶対に一緒にデビューしようって決めてグループ組んでたんじゃん。ふざけんじゃねえ、勝手にひとりであきらめんじゃねえよ!”って」
──それでも活動休止を認めた。
「最後に決めるのは本人だから。ふっかに説得されたのもあった。だから“わかったよ”って言った気がします。“必ず帰ってくる”って阿部の言葉を信じるよ。ポジション開けとくからなって」
──それでも、Mis Snow Manというグループ名はなくなり、残ったメンバーは“岩本たち”と呼ばれた。
「俺、ジャニーさんに直談判に行ったんです。怒られてもいい。嫌われてもいい。でも、Mis Snow Manを応援してくれたファンがいる。“その人たちをどうすんの?”って聞かずにいられなくて。そしたら冷静に言われたんですよ。“YOUに何ができるの?”って。悔しかったですね、図星だったんで。せめてもの反抗じゃないですけど、“ジャニーさんとこうやって話し合うことはできる!”って捨てゼリフを吐き捨てて部屋を出て。それから、もう言葉では説得できないと思い、とにかくガムシャラにパフォーマンスでジャニーさんにアピールして」
──この時期、Kis-My-Ft2、Sexy Zone、A.B.C-Zが続々とデビューしてる。
「どのグループのデビューもうれしかったです。Kis-My-Ft2、A.B.C-Zは、ずっと教えてもらってきた先輩で、いつか必ずデビューしてくれるって信じてたので。……ただSexy Zoneのデビューは悔しさが強かったな。(菊池)風磨と(中島)健人が入ってきたオーディション、俺はダンスの先生役をやってるんです。入所してからもいろいろ教えて。健人も風磨もマジメなんで、“宮舘くん、どうやったら僕たちステージに立てますか?”って聞いてきたんです。“今は悩むより練習しよう。一歩ずつ見せていくしかないから、”って俺は答えて。それが気づけばデビュー。何が一歩ずつだよ。何を偉そうに言ってたんだ俺はって」
──そのころのほかのメンバーの様子はどうだった?
「もうグチャグチャというか、雰囲気最悪で。1度目の直談判から3カ月後かな、もう1度ひとりでジャニーさんに会いに行ったんです。今、思えばメンバーみんなと相談して、みんなで行けばよかった。ただ、当時の俺はみんなで行って大ごとになったら、それこそグループをもう組ませてもらえなくなるんじゃないかって思ったんです。だったら、ひとりで行こうって。あのころの俺の精いっぱいの判断で。俺はあんまり思ってること言葉にしないから、勘ちがいされることも多かったし、“ひとりでいいカッコして”って思われてたかもしれないんですけどね」
──そう思われたとしても直談判せずにはいられなかった?
「メンバーが、“岩本たちって呼ばれ方ヤだよね”って話してるんですね。もちろん、(岩本)照を否定してるわけじゃないし、悪気だってない。でも、それを照の前でメンバーが話すのが俺はどうしてもイヤで。照も“俺もその呼ばれ方ヤだよ”って言いながら、少し悲しそうな顔するんです。あの空気が俺はどうしても我慢できなくて。何でこんなバラバラになっちゃうんだよ。あんな仲よくやってたのに。みんなで同じ方向を向いてデビュー目指してたんじゃなかったのかよって」
──だから2度目の直談判に行った。
「はい。思いの丈をぶつけて。あまりの俺のテンションにジャニーさん“わかったよ。話してみる”って。俺は“誰と話すの? 社長がOK出せばいいんじゃないの?”って思ったけど、そこは引き下がるしかなくて。でも、それから少しずつ“岩本たち”って呼ばれなくなっていったんです。その後、『滝沢歌舞伎』でSnow Manが生まれた。あとからわかるんですけど、ジャニーさんが“話してみる”って言った相手が滝沢(秀明)くんだったんですよね」
──その『滝沢歌舞伎』の稽古中に阿部くんが復帰。最初は多少の溝があったんじゃない?
「少なくとも俺にはなかったです。戻ってきたときの阿部の表情、今でも思い出せるんですけど、戦ってきたって顔してたから。本当にやりたいことに全力を尽くした人の顔をしてた。受験の結果どうこうじゃなくて、“やるじゃん!”って思ったな」
──阿部くんが大学院の修了式で遅れてきたジャニーズJr.祭りのハイタッチ、いいエピソードだよね。
「あいつ、遅れて来ましたよね。覚えてます。『Vanishing Over』のとき、阿部がBステから、俺が本ステから走っていって。“おめでとう。お疲れ!”って思いを込めてハイタッチして」
──阿部くん、学業のせいでメンバーに負担をかけるのが心苦しかったって。
「もし同じ立場だったら、俺だって罪悪感あったでしょうね。ただ、ナメんなって話なんですよ。言い方は悪いですけど、いてもいなくても、そのときのSnow Manでベストなパフォーマンスを披露するってことは変わらない。そのためにやるべきことを負担だなんて思ったこと一度もない。そんなことより、俺たちが留守は預かるから、大学院だろうがクイズ番組だろうが、どこにひとりで行ってもSnow Manの阿部亮平でいろよって、俺は思ってましたね」

なんでデビューできないんですかねえ

──Snow Manが結成され、多くの先輩たちのバックや舞台を任されるようになるけど、グループの知名度がなかなか上がらない時期もあったよね。
「舞台は大好きです。ただ毎年毎年、同じようなスケジュールで1年が進む。だいたいSnow Manは帝劇にいるんです。1年の半分くらい。もう有楽町に住んでやろうかって思った(笑)。“舞台で忙しいだろうから”って『ザ少年倶楽部』に出られない時期もあったり。ここからもう一段上がるには、どうしたらいいんだってもがいてましたね」
──いつかデビューはできるって信じることはできた?
「正直、わからなかったです。だからリミットを決めました。僕の勝手なイメージですけど、25才って別の道を選んでもどうにかなりそうな年令だと思ったんです。だから“デビューできなかったら何者にもなれないぞ”って退路を断つ意味を込めて26才でデビューできなかったら辞めようってリミットを設定して」
──そんなとき、舞台『少年たち』の主演に抜擢される。
「このときは全員でジャニーさんに会いに行って、“Snow Manで舞台やりたい”ってお願いしたんです。“YOUたちは、目の前のことをやってからだよ!”って叱られたんですけど、翌日にはポスターのサンプルみたいなのができあがっていて『少年たち』の主演が決まった。あの舞台、楽しかったな。SixTONESとバチバチにやり合ったんで。作品内だけじゃない、リアルでもライバル同士のグループが稽古から本気だった。胸ぐらを掴むシーンとか全力で掴んでましたからね。本番前に稽古場でジャニーさんに見せたら、“YOUたち最高だよ”って涙してくれて」
──SixTONESは、宮舘くんにとってどんな存在?
「かわいい後輩です。ただ『少年たち』を経て、その意識はなくなって、ライバルであり戦友になった気がします。苦楽をともにして、乗り越えたものも一緒なんで。特にジェシーとはわかり合えてた部分があるかな。泣きながら抱きしめ合ったことがありますからね」
──それっていつのこと?
「King & Princeがデビューした直後ですね。もちろんデビューするだろうなって空気はあったんです。ただデビューは4年おきみたいな暗黙のルールがあったんで、King & Princeに対して、おめでとうって気持ちと同時に、目の前に濃いモヤがかかったのも事実で。そんなタイミングで北山(宏光)くんが、俺とジェシーをメシに誘ってくれたんです。その会でジェシーと“なんでデビューできないんですかねえ”って話してたら、お互いこらえきれず涙があふれちゃって」

これから、ずっとずっと一緒にいるんです

──そして2019年1月、向井康二、目黒蓮、ラウールの3人が加入してSnow Manは9人に。
「もちろん3人の加入を打診されたときは驚きました。最初はメンバー内でいろんな意見も出ましたね。“大勢のファンが応援してくれてる。6人のままがんばるべきじゃないか”って意見も正直ありました。ただ9人になることはプラス面もたくさんある。最終的に全員一致で増員を決めましたね」
──最初は新加入の3人に気をつかったんじゃない?
「俺は、あえて気をつかわなかったです。だって、これからずっとずっと一緒にいるんです。不自然に距離を縮めても意味がない。それぞれの歩幅で、自然に歩み寄っていくことで、本当の仲のよさって生まれるから」
──でも、『滝沢歌舞伎』のとき、向井くんとサシメシに行って“入ってきてくれてありがとう”って伝えてるよね。その言葉で向井くん、「不安も迷いも全部消えた」って。
「そんなこと言いましたっけ!? まぁ、メシには行ったかもしれないですけど、あー、そこ勘ちがいしちゃったかあ。あれはリップサービスですね、うん」
──そういうことにしておこうか。じゃあ、6月末にジャニーさんの病室でデビューを伝えられたときは、どんなことを思った?
「もちろんうれしさもあったんですけど、戦闘態勢になったというか。“よし、戦いに行くぞ”って感じかな。それまで“がんばるのは当たり前”って言い続けてた滝沢くんに、初めて“がんばってね”って声をかけられたんです。武者震いじゃないですけど、“今まで以上が求められてる”って引き締まりました」
──そして、『ジャニーズJr.8・8祭り』でデビュー発表をした。
「夢にまで見たデビュー発表のはずなのに、いざ自分たちの番になったら“おめでとう”って言葉も、“ありがとう”って返した言葉も、あんなに苦しかったことはないですね。もちろんうれしいんです。でも、うまく喜べなかったってのが素直な感想です」
──亀梨くんには、どのタイミングでデビューを伝えたの?
「事前に、“話したいことがあります。お時間ありますか?”って聞いたら、“え、お前、辞めんの?”って言われて(笑)。そこは濁して食事の席で“デビューさせていただきます”って伝えました。そしたら、“おめでとう。でも、こっからだから。厳しさが待ってるぞ”って」
──両親も喜んでくれたでしょ?
「はい。最近、親に教えてもらったんですけど、俺、オーディション受けて帰ってきた日、“これで楽させてやれるな”って軽口たたいたらしいんですよ。世間知らずの11才の小僧が、それからデビューまでどんだけかかってんだっていうね。ようやくですけど、これから少しずつ親孝行したいです」

染まらず、思うがままに歩んでください

──じゃあメンバーそれぞれにメッセージを。まずは深澤くん。
「俺が最初に憧れ目標にしていたJ.J.Expressにいた人。今は誰よりもSnow Manのことを思ってる人。“どうしよう、どうしよう”って常にオロオロしながらグループのため、メンバーのために汗を流してる。時には休んでいいんじゃない。俺はふっかが二枚目を目指してほとんどしゃべらず気取ってた時代から知ってる。でも素のふっか、メンバー思いでどこまでも優しい、今のふっかのほうがカッコいいよ」
──岩本くん。
「照がオーディションで入ってきたのを見てるけど、最初は全然ちがったよね。ヒョロヒョロで髪が長くて。今は心も体も男らしい。そして熱い。常に熱い。とにかく熱い。きっと端から見てたらブレない迷わない人に見えるかもしれないけど、俺に“今の大丈夫だったかな?”って聞いてくる回数が誰よりも多いのが照。その飽くなき向上心が、今の照を作ったんだと思うよ」
──渡辺くん。
「つき合い長いですからね。幼なじみどころか、生まれた病院まで一緒。運命ってすごいなって思います。今となっては言葉にしなくてもわかり合えちゃうとこまできちゃったんで、あえて言いませんでしたけど、オーディションのとき、こっそりラバーバンド外せって教えてくれなかったら、きっと俺はここにいない。改めて言っておきます。アドバイス、ありがとね」
──佐久間(大介)くん。
「いちばん仕事の話をします。仕事に関して考え方が似てるのかな。Jr.BOYS時代からのシンメですからね」
──でも、仲が悪かった時期もあったんでしょ?
「ありましたね。ずっとしゃべんなかった時期が。お互いトンガってましたから。2015年の『滝沢歌舞伎』の稽古中“いつまでもそれじゃダメだよ。ふたりでごはんに行って話してきなよ”って滝沢くんに言われてサシメシに行って。お互い大人になってるもんですね。話してるうちにわかり合えて。あ、ケータイにまだそのときのサシメシの写真残ってます。ふたりとも笑顔がちょっとぎこちないんですけどね(笑)」
──阿部くん。
「彼は、いまだに何を考えているかわかりません(笑)。また新たな資格を取るために休んでしまうんじゃないかと心配です。それは冗談だけど、人とちがう道を追求するのが好きで、新たなジャニーズ像を作り始めてる。尊敬です。反対した俺が言うのは申しわけないけど、受験のための活動休止の判断は正しかったし、あの時間は本当に価値ある時間だったね」
──目黒くん。
「加入前からメシに行ったりしてたよね。“僕、干支が言えないんです!”って自信満々に言ってきたとき、“ヤベーヤツだな”って思ったよ(笑)。でも言ってたよね。前のグループで“目黒はバックダンサーにしか見えない”って言われたことが悔しくて、絶対メインになってやるって努力してセンターに立てるようになったって。少し俺と似てるなって思ったよ」
──ラウール。
「俺が17才だったときって、いろんなことに挑戦したり、迷ったり、失敗したり試行錯誤を繰り返してたころ。回り道した分、いろんな経験を積むことができた。でもラウールは17才にしてセンターとしてSnow Manを背負わなきゃいけない。きっとこれから何度も壁にぶつかると思う。でも、壁を器用に避ける方法なんて覚えないでほしい。何度だってぶつかればいい。何度倒れたって俺たちが立ち上がるために手を差し伸べるから。矢面には俺たちが立つよ。だから、何にも染まらず思うがままに歩んでください」
──最後に向井くん。
「あ、向井はいいです。コメントはないです(笑)。どうしてもと言われるならメッセージを送りますけど。さっきはリップサービスどうこう言ったけど、正直、康二たちが加入して、俺は“笑顔になる回数が増えたよね”って言われることがすごい増えた。この誌面を康二が読むかわからないけど、一度だけ言っておきます。感謝です」

僕のメンバーカラーは、赤なんです

──初のドラマ出演となった『ぬけまいる』では短時間で三味線、関西弁、江戸時代の所作も身につけなければいけなかった。ドラマ『夢食堂の料理人』では、料理とフランス語を同時に学んだ。しかもコンサート開催中に。これをやりきる人って、そんなにいないと思うよ。
「やれない人にその仕事は来ないと思ってるんで。それに、ジャニーさんの“YOUはなんでもできるね”って言葉が、今でもよぎりますしね」
──“困ったときのダテ様”と言われる理由がよくわかるよ。でも、多くの人が勘ちがいしてるけど天才なんかじゃない。完全に努力の人だよね?
「そこはどう思われてもいいです。以前なら反論したくもなったけど、今は“なんでもできるよね”って期待に応え続けたいって思います」
──じゃあ今後、個人としてかなえたいことは?
「大河ドラマに出たいです。そして、いつか『Endless SHOCK』、『DREAM BOYS』、それこそ『滝沢歌舞伎』のようなミュージカル作品を手掛けるのが密かな野望です」
──グループとしての夢は?
「夢の前に、まずは配信ではなくファンの前に実際に立って“ありがとう。デビューできたよ”って、直接お礼を言える時間を作りたいですね」
──そうだね。じゃあ、その日を待ち望むファンにメッセージを。
「“俺がいるから大丈夫だよ”って伝えたいです。9人になって全員が同じ方向を向けているのか不安なファンもまだいると思います。でも、デビューしたことで浮き足立つようなメンバーがいたら、俺が誰よりも先に気づいて、手綱をグッと引き、グループの足並みを揃えます。僕のメンバーカラーは赤です。ほかのグループみたいに、ステージ上でレッドがなぜ真ん中にいないのって思う人もいると思うんです。ただ、レッドの使命がグループをまとめることだとしたら、先頭に立って引っ張るだけがまとめ役じゃないはず。僕は普段は口数も多くないし、いまだに言葉で何かを伝えるのもヘタです。だから姿勢で見せます。どうか俺を、メンバーを信じてついてきてください。どうぞ末永く、SnowManをよろしくお願いします」

取材・文/水野光博