Myojo

10000字ロングインタビュー

“ムリだよ、一生Jr.だよ”って声に、
言い返すヒマがあったら武器を磨こう。
そうやってつかんだのが今なんだ。

10000字ロングインタビュー

『僕がJr.だったころ』

SixTONES・Snow Man編

第15回

岩本 照

〔Snow Man〕

いわもと・ひかる
1993年5月17日生まれ。埼玉県出身。A型。身長182cm。
2006年10月1日、ジャニーズ事務所入所。
2020年1月22日、Snow ManとしてCDデビュー。

※このインタビューは、MYOJO2021年9月号に掲載されたものです。

目の前の壁が高ければ高いほど乗り越えたくなる。
絶対ムリと言われたら挑みたくなる。
俺たちは一生デビューできない。
みんながそう言うなら、最高のパフォーマンスでチャンスをつかんでやる。
そのための鍛錬は惜しまない。そうやってずっと闘ってきた。
これからは、最強の9人でいつか世界の舞台へ…ムリな挑戦を続けていきたい。

ダンスを武器にどこまでいけるか

──Snow Man編のラストはリーダーの岩本くんに飾ってもらおうと思います。
「よろしくお願いします」
──まずはリーダーになった経緯から教えて。
「デビューが決まった後の、9人の食事会かな。深澤(辰哉)が“人数も多いし、リーダーを決めたほうがいいと思うんだ。俺は照がいいと思うけど、みんなどう?”って。俺は“リーダーって何するんだ?”って思いながら聞いてたんですけど、メンバーが深澤の意見に賛成してくれて俺に決まって。いまだにリーダーって何する人だろうって思ってます(笑)。そもそも自分がふさわしいかわからない。いろんなリーダーがいると思うんで、これが正解ってリーダー像もないと思うし。ただグループに何かあったとき、メンバーに“頼むぜ!”って言われる存在になれたら、それがリーダーなのかなって。だから、そういう存在になりたいと思ってます」
──じゃあ、いろいろ聞いていくけど小さいころ、どんなコだった?
「とにかく親譲りの負けず嫌いでしたね。小1のとき、持久走大会の練習があって学年で11位だったんです。それを親に話したら“そこは1位を取らなきゃ”って言われて火がついて特訓を始めて。雨の日も、どんな日も毎日必ず走り込みしたんです。親に自転車でついてきてもらって俺はずっと走る。おかげで6年間ずっと1位でした。俺、成長が遅くて小6で152㎝くらいしかなくて。小学生って成長の早いコのほうが体育は得意じゃないですか。だから短距離は何をどうがんばってもビリなんです。長距離も成長が早いコはどんどん速くなるんですけど、特訓と気合で6年間1位を守り続けたくらいの負けず嫌いでした(笑)」
──習い事もたくさんしてたよね?
「ダンス、ボーイスカウト、ピアノ、いろいろやってましたね。ピアノは3才からやってました。小学校、中学校の卒業式で伴奏もしてます」
──ダンスを始めたのは何才だった?
「6才です。母にすすめられて始めて。ただめっちゃイヤでした。先生がチョー厳しかったんです。毎週月曜日がレッスンだったんですけど、いつも月曜がくるのが憂鬱で。親の前で弱音を吐けなかったんで、どうにかして休めないか考えて、わざとケガをしたこともありましたね。結局、ばんそうこうを貼ってレッスンに連れて行かれたんですけど(笑)」
──最初はダンスが苦手だったの?
「全然ダメでした。体は硬いし、練習しても全然うまくならないし。先生や周囲から“センスないから辞めたほうがいい”って言われてたくらいで。でも親に辞めたいって言い出せず、自分でもなんでやってんのかわかんないまま続けて。で、毎週月曜になるとおなかが痛くなるという」
──ダンスが苦手だったこと、今のパフォーマンスからは想像できないね。
「小3が転機かな。ジャズダンスの日本一を決める大会があって、所属するカンパニーのメンバーが出場するんで応援に行ったんです。日本のトップレベルの踊りを目の当たりにして“カッコいい!”って強烈に思ったんですよね。その日から、“あいつが足をここまで上げるなら、俺はここまで上げてやる”とか、負けず嫌いが爆発して。本気になって練習してると少しずつうまくなって。ふと“あれ!? 俺は何でみんなの後ろで踊ってんだ? いちばん前で踊りたい”って思う瞬間が来たんです。そんなタイミングでダンスの先生に“人のケツ見て満足すんな”ってアドバイスされて。やるんだったら最前列、トップを目指せって意味で。そこからもうガムシャラに練習して。その先生が経験した芸能界の話もたくさん聞かせてもらった。“がんばればがんばった分、いろんなものを勝ち取れる世界だ”って。夢があるなと思って、ダンスで生きていきたいって思ったんですよね」
──芸能の世界を目指そうと思った?
「思ったというか決めました。ダンスで生きてくって。じゃあ、どういう選択肢があるだろうって調べて、“ジャニーズってすごいとこだよな”ってなったんです。だから、ダンスを武器にジャニーズで生きていこうって」
──幼くして大きな夢を抱いたね。
「なんか小さいころから普通が嫌いだったんですよね。安全とか安定が大嫌いで。人が“ムリムリ、それはいくらなんでも”って言うことに興味があるっていうか。ムリって思われてることだから、達成したときの喜びや衝撃が大きいって思うタイプで。今は何者でもない俺が、ダンスって武器だけ握りしめてどこまでいけるのか。どうせなら、みんなが絶対ムリって思うような最高峰の舞台、ジャニーズでって思ったんですよね。それからすぐジャニーズに履歴書を送って」

戻りたい気持ちは少しもないのか?

──ただ、応募後すぐにはジャニーズから返信は来なかった。
「来ませんでしたね。だから何度か送ってるんです。初めて返信が来たのが中1で。5月にオーディションがあるんで来てくださいって。それが横浜アリーナのKAT-TUNのデビューコンサートでした。俺、オーディションが終わって、ほかのオーディション生が全員帰った後に、ジャニーさんと振りつけ師さんに残ってもらって2時間ひたすら自分の踊りを見てもらったんです。やっと思い焦がれた場所に来れたって感情が爆発しちゃったんですよね。急きょ、次の日のコンサートに出させてもらえることになって。ステージに一緒に上がることになったのが、(京本)大我でした」
──Jr.の活動はどうだった?
「俺、ジャニーズのオーディションの通知が来る前にミュージカルが決まってたんです。その舞台が終わるまでは、そっちに集中しようと思って。ミュージカルが終わってジャニーさんに連絡したら、“明日、『you達の音楽大運動会』ってJr.のコンサートがあるからおいで”って言われて。そのコンサートで、いろいろ教えてくれたのが阿部(亮平)と(渡辺)翔太で。初めてステージに立って『Real Face』を歌ったんですけど、右も左もわかんないってなったときのシンメが舘さん(宮舘涼太)。当時、ダンスバトルが流行ってて対決したのが佐久間(大介)でした。今思えば、オーディションのときに前で踊ってくれた先輩が6人時代のSnow Manの俺以外の5人だったんですよね」
──その後、すぐにタッキー&翼のツアーに帯同、並行してKAT-TUNのコンサートにも参加。Jr.の中でかなり目立つポジションにいたよね。
「入っていきなりKis-My-Ft2やA.B.C.と絡ませてもらったり、かなり異質な存在だったと思います。振りつけ師さんに、“今日からこいつらとやっていくんだよ”って言われたJr. Boysでも最初からずっとセンターで。先輩たちからしたら、あんまり可愛げのない存在だっただろうなって」
──2009年にはMis Snow Manのメンバーに選ばれてるね。
「Jr. Boysは変動的なユニットだったんで、Mis Snow Manでは衣装を作ってもらったりして初めてのグループって感じでしたね。雑誌にも頻繁に呼んでもらえるようになって。メンバーの年令も近いし、みんな仲もよくて」
──そのころ、デビューについてはどう思ってた?
「デビューしたかったです。でも、ボンヤリとジャニーズにずっとはいないかもしれないって思ってました」
──どうして?
「ちょうどK-POPが日本で大人気になるタイミングで。僕自身、衝撃を受けたんです。歌も踊りもラップもカッコいい。Mis Snow Manがどうとか、メンバーがどうこうじゃなくて、韓国でレッスンを受けてデビューを目指す道もあるのかなって高校時代は思ってたんですよね」
──そのこと誰かに相談した?
「誰にもしてないです。自分の中だけで思い描いていた野望というか、韓国でデビューして逆輸入じゃないですけど、日本の音楽番組に出て、デビューしたMis Snow Manと共演できたらおもしろいなって。当時はけっこう本気で考えてましたね」
──でも2011年にメンバーの離脱や阿部くんの活動休止で、Mis Snow Manは空中分解してしまう。
「グループ、どうなっちゃうのかなって不安でしたね。メンバーの気持ちもバラバラになりそうだった時期で。あんな仲のよかったメンバーが、将来が見えない苛立ちもあったんだろうけど、よくぶつかってました。俺、阿部不在の『DREAM BOYS』で初めて振りつけをしたんですけど、“ここ踊りづらい”、“カウント取りづらい”、“だったらおまえが振りつけろよ!”ってしょっちゅうケンカして」
──密かに抱いていた計画、韓国に行くチャンスだとは思わなかった?
「確かにグループ名もなければ、みんなが同じ方向も向けてない。ちがう道をって思いもよぎったけど、ここまでジャニーズをやってきた意地もあったというか。出会ったメンバーがいる。応援してくれるファンや家族がいる。辞めるのはいつでもできる、もうちょっと、もうちょっとやってみようって。阿部不在の時期、スタジオ借りてとにかくずっと踊ったり、アクロバットをめちゃくちゃ練習したりしましたね。俺、不器用なんでバック転もメンバーの中でできるまでいちばん時間がかかったんです。だから阿部が戻ってくるまでに、アクロバットをマスターしてやろうって。あのころ、よく一日中スタジオや体育館にいました」
──阿部くん、活動休止中に岩本くんが会いに来てくれたから乗り越えられたって話してくれたよ。つまり、会いに行かなかったら…ってこと?
「まあ、そうだね。電話で話してたら、自分のいない『DREAM BOYS』を観劇して以来、“みんなのレベルの高さに、もう戻れないかもって思ってる”って。きっともうみんなのレベルにはついていけない。俺は受験に専念したほうがいいかもしれないって、半ば諦め気味な感じで言うんです。だから“ふざけんなよ!”って電話を切ってすぐ会いに行って」
──引き止めるために会いに行ったんだ。
「はい。電話じゃダメだ、直接会って伝えなきゃって。“レベルについていけない? ちがうだろ! 俺たち5人はバラバラになりそうになりながらも、おまえが帰ってくるって信じて踏んばってんだ!”って。やっぱり、それまで諦めて辞めていくJr.を何人も見てきたから。俺が説得しても気持ちが変わらないかもしれない。でも同じグループの仲間を引き止めるチャンスがあるのに引き止めないのはちがうなって。“本気なのか? 戻りたい気持ちは少しもないのか?”ってちゃんと目を見て確認したかった。そしたら、“もちろん戻りたい気持ちはあるけど…”って話だったんで、“信じて待ってる。俺だけじゃない。5人が待ってる”って伝えて」

俺だって金髪だし! 俺だって出たいよ!

──翌春、阿部くんが復帰してSnow Manが結成される。ただデビューまではまだまだ遠かったね。
「そうですね。ずっと闘い続けたというか。“そんな年令でJr.なの?”とか、“Snow Man、デビューはムリでしょ。一生Jr.だよ”って何度言われたことか。そのたびに、言わせておけばいい、言い返すヒマがあるなら武器を磨こうって。いつかデビューして、絶対ムリだって言ってたヤツらをパフォーマンスで見返してやるって、きっと6人全員が思ってたと思う」
──いつかデビューできるって信じてたんだね。
「もちろん、メンバーそれぞれが、いろんなタイミングで不安になったり揺れたと思いますよ」
──岩本くんでいったら、それはいつだった?
「何度もありました。でも不安になるたびに、原点に立ち返らせてくれる出来事や出会いがあったんです。たとえば2015年にシンガポールで『滝沢歌舞伎』ができたのは大きかった。何をがんばってもデビューできない。自分たちのパフォーマンスに問題があるんじゃないかって自信が揺らいでたんです。国内でやる舞台やコンサートで拍手してもらえても、それは純粋に自分たちのパフォーマンスの力じゃなくて、ジャニーズだから拍手してもらえるんじゃないかって。でもちがった。シンガポール公演で、僕らのことをあまり知らない現地の多くの人も拍手してくれた。最後の演者紹介で僕が紹介されるときに涙を流してくれた人もいたんです。パフォーマンスで心をつかめるんだ。自分たちが投げたものがちゃんとキャッチしてもらえてるんだって改めて実感したというか。俺、それがうれしくて、シンガポールから帰ってきた次の年の初詣で、絵馬に“デビューして海外でパフォーマンスしたい”って書いたんですよね」
──そんなことがあったんだ。
「入所から10年過ぎた2017年ごろも悩んでましたね。そろそろリミットを決めなければって思ったし、そもそもやれること全部やりきったんじゃないかって。それでもデビューできない。そんなときに『SASUKE』の出演オファーをいただいたんです。『SASUKE』に出られたから辞めずにいた部分は正直ありますね。ずっと出たかったんで。“金髪筋肉塚ちゃんです!”って塚田(僚一)くんが自己紹介してるのを見て、“俺だってトレーニングしてるし、金髪だし! 俺だって出たいよ!”ってずっと思ってたんで」
──でも初出場のときって、わずか5秒で失格した回だよね?
「そうです。失敗したのがチョー楽しかったんですよ。池の水の中でニヤケましたもん。あ、ゼロからスタートできるものに出会えた。俺、楽しいことに出会っちゃいましたって感覚というか。もちろん『SASUKE』の完全制覇ができたからってデビューできるわけじゃない。でも、そんな話じゃないんです。やれることを全部やった? ふざけんな。まだまだやれること、成長できることなんていくらでもあったんだってことに衝撃を受けたというか。だから、あの5秒は俺にとってファーストステージをクリアしたときと同じくらい印象に残ってて。ジャニーズでも『SASUKE』でがんばれるって道を切り開いてくれた塚田くんに感謝ですね」
──ファーストステージをクリアしたのは6度目の挑戦だったね。
「不思議な感覚でした。それまでのチャレンジは、いつも絶対に落ちたくないって思ってたのに、“落ちてもいい”みたいな感覚だったんです。今までほぼ全部のエリアで落ちてきた。全部経験させてもらった。もう落ちる要素はないって思ったし、落ちたっていい。それすら糧にして、また次、挑むよって」
──もはや『SASUKE』はライフワークになりそうだね。
「そうですね。必ず完全制覇したいですし、いつかSnow Manの看板を背負ってアメリカ大会にも出たいです」

俺たちが進んできた道は、まちがってなかったよね

──ラウールくん、目黒(蓮)くん、向井(康二)くんの加入は何を思った?
「もちろん、すぐに“じゃあ9人で!”とは思えなかったんです。やっぱり6人の歴史があるんで。ただ3人は、それぞれ自分のいた場所を手放してSnow Manの一員になろうとしてる。そして増員は3人にとっても、6人にとっても人生を賭けた大きな決断になる。“俺はここに、すべてを賭ける”って決意を持った9人が集まったら強いだろうなって思ったんです。だから俺にとって増員はデビューするためじゃない。グループとして強くなるための決断だった」
──ただ岩本くんは新加入の3人に対して厳しめに接してたよね?
「ですね。少なくとも俺に関しては手放しで甘えさせるみたいな接し方はしないほうがいいって思ったんで。ちょうどSnow Manが『滝沢歌舞伎』の主演になるタイミングで、さらに俺はSnow Manとしてのコメントを求められたときに発言することも増えた。周囲に俺が3人を甘やかしている感じに映るのは、いざってときに説得力を持たないなって。だから俺は嫌われ役でいい。そこはバランスというか。その分、深澤をはじめ無条件で優しく接してくれるメンバーがいるんで」
──でも『滝沢歌舞伎』の楽屋で泣きじゃくるラウールくんを励ましたりしてるよね?
「あのときはラウールがどん底にいるのがわかったからね。家族みたいに大切なメンバーが挫けそうなとき、たとえ1%でも顔を上げる力になれるならなんだってします」
──じゃあ、ジャニーさんの病室でデビューを告げられたときは何を思った?
「鍵をもらった感じかな。ずーっとそこに扉があるのはわかってた。でも、それを開ける鍵がどこにあるかわからなくて探し続けてた。“2グループ一緒にデビューします”って滝沢(秀明)くんに言われ鍵を手渡された感じ。やっとこの扉が開くんだって。この扉を開けるために本当に長い時間がかかった。ただ、その時間のすべてが財産だし、愛おしいというか」
──デビューを告げられた直後、京本くんに握手しに行ったこと覚えてる?
「はい。大我のインタビュー読んだよ、俺。あのとき、握手をしたのは大我とだけ。同期ってこともあるし、本当にいろんな仲間が辞めていったからね。俺たちが進んできた道はまちがってなかったよねって気持ちを込めた握手だった。言葉は交わさないけど、お互いを称え合いたかった」
──家族もデビューを喜んでくれたんじゃない?
「デビュー発表の会場に両親がいたんですけど泣いてたらしいですね。後日改めて、ちょっと涙ぐむ父親に、“おめでとう。照を信じ続けてよかった”って言われたときは俺も泣きそうになって。あんまり俺をほめる父親じゃないし、何やっても敵わないと思ってた父親だったんで、少しだけギャフンと言わせられたというか。いろんな迷惑も心配もかけて、やっと少しだけ恩返しできたというか」
──その後、デビューしていちばん変わったことってなんだと思う?
「よりファンの人たちのありがたみや、感謝の気持ちを感じるようになったことかもしれない。俺ずっと誰かを笑顔にしたり元気にしたり、何かスイッチを押せるのがアイドルだと思ってた。だから、ファンレターに“イヤなことがあったけど、Snow Manを見て元気が出ました”とか“Snow Manを見て踊りを始めてみようと思います”って書いてあるとすごくうれしくて。でもファンとアイドルって一方通行じゃない。自分が沈んでいるときはファンの人たちの声に励まされる。双方向で支え合ってる。俺たちがステージに立っても、みんながそこにいなければ何も始まらないしね。会場に来てくれるファンがいるからコンサートが始まる。“Snow Man、がんばってるね”って多くの人に今言ってもらえるのも、自分のことのように盛り上げてくれるファンのみんながいるから。そういう人たちがSnow Manを応援していてよかったって思えるパフォーマンスを続けるのは当然だし、もはや“応援してくれるみんなと俺たちでSnow Manです”って思ってます」

世界中が敵になっても、絶対おまえの味方でいる

──今、メンバーに伝えたいメッセージを。まずは深澤くん。
「いちばんいろんな話をしましたね。それこそ相棒というかいなくちゃいけない存在。でも性格は正反対というか。なんか偶数と奇数って感じかな。10までたどり着きたい。まず俺ががんばって1まで進めて、次に深澤が2までがんばって進んでって感じでやってきたというか。とはいえ、とにかく俺は迷惑かけっぱなしで。そのたびに俺はふっかに救われてる。何かあるたびに言われるんですよ。“俺はどんなことがあっても、たとえ世界中が敵になっても絶対おまえの味方でいる。俺はおまえとずっと一緒にいるから”って。もうグループを辞めたほうがいいんじゃないかって悩んだときも、その言葉にすごい救われました」
──宮舘くん。
「自分で言うのはあれなんですけど、性格がいちばん似てると思うんです。熱くてマジメなとこが。だからこそわかり合えることがあるというか。俺がどん底だった博多座のときとか、休演日に何も聞かず、ずっと一緒に過ごしてくれたのが舘さん。『滝沢歌舞伎』の刀投げじゃないけど、言葉にしなくてもわかり合える部分が舘さんとはずっとあるかな」
──宮舘くん、メンバーが「岩本たちって呼ばれ方ヤだよ」って言うのを聞いた岩本くんが悲しそうな顔をするのがイヤでジャニーさんに直談判に行ったんだって。
「やっぱり俺はなんだかんだ言って年下だし、後輩だったから“岩本たち”って呼ばれること自体キツかったよ。ジャニーさんに直談判したのは知らなかったけど、性格が似てるから、ちょっとわかるというか。もし立場が逆なら同じことをしてたかも。何より、ありがとね、舘さん」
──佐久間くん。
「今ほど明るいキャラじゃなかった、昔はね。でも昔から価値観が合ったというか。踊りのこと話してたら“Snow Manのダンスをプロのダンサーにもすごいと思ってもらえるものにしよう”って同じこと考えてて驚いた。佐久間とはダンスにしろアクロバットにしろ、とにかく人を楽しませることをずっと話してて、そんな佐久間に俺は世界でいちばん笑わせてもらってる。世界でいちばん佐久間がおもしろいと俺は思ってるよ。あと忘れられないのがデビュー前日、2020年1月21日を佐久間とふたりで過ごしたこと。街に貼られた自分たちのポスターを見に行って写真を撮ったりしたよね。Jr.最後の日がふたりきりでごはんを食べる初めての日になったのは、なんか不思議な感覚だったよ」
──阿部くん。
「同い年だけど、年下のような感覚もあって。いろんな相談されることもあるし相談することも多い。まあ俺が相談するのは、ほぼ『SASUKE』のことなんだけどね(笑)。“このエリアは1分間にこういう動きを何回しなくちゃいけないんだけど、どのくらいのGに耐えられる筋力が必要?”とか、ムチャなお願いしてもパッと計算してくれる。絶対の信頼があるから、阿部が計算してくれたんだってこと自体が安心材料になるんだよね」
──阿部くんのこと、引き止めてよかったね。
「デビュー後も改めて“あのとき、引き止めてくれてありがとう”って言われたことはあるけど、“感謝しろよ!”なんて一切思わない。だって、引き止めたのは俺が後悔したくなかっただけっすから」
──渡辺くん。
「初対面の印象最悪。オーディションの日、鏡越しにガンつけられたんですよね。だから、Jr. Boysで同じユニットになったとき、“うわっ、あいついる!”って思ったのを覚えてる(笑)。でも翔太はそのときからムードメーカーで、みんなの中心にいた。オシャレでJr.のみんなで服を買いに行こうってなると、翔太の知ってる店にみんなで行くのが定番で。すぐいいヤツなこともわかったから、すぐに仲よくなって。俺らがまだ何かを振り返るには早すぎるけど、ふと翔太を見たときに“昔、うわっ!て思ったけど、今も一緒にいるんだな”って、勝手にあの日のことを懐かしく思うことがあるよ」
──ラウールくん。
「年令は離れてますけど、いちばん感性が合う気がします。表現者としての感性というか。好きなもののベクトルが似てるというか、“海外のあのアーティストの、あのときのパフォーマンスがさぁ”って話をすると、“俺、知ってるよ”ってなることが多いんですよね。気になるもの、おもしろいと感じるものが似てる。メンバーで誰より『SASUKE』に興味があるのは好きなものが似てるというより優しさなんだろうけど。サスケメンバーがやっていた練習方法の動画とかを目ざとく見つけて、送ってきてくれたりするんですよね。ホント、リア友みたいな感じかな」
──目黒くん。
「とにかく熱いヤツですね、芯がある。俺と目黒は普通に話してても表情が怖いっていうか、なんか真剣な話をしてるように見えるらしくて。でもじつはすげーくだらない話をしてることがほとんど(笑)。“今日、晴れてるね”“あっちの雲がなかったら最高なのにね”みたいな。なぜか気象予報士の阿部よりも、ふたりで空の話をよくしてる。この前も、“虹がかかったよ。誕生日おめでとう”ってメッセージを虹の写真と一緒に送ってくれた」
──最後に向井くん。
「岩本兄弟って言われるけど、康二は本当に弟っすね。とにかくボディータッチが多い。『D.D.』の曲が始まるときにこっそり手を握ってきたり(笑)。本人にも伝えてるけど、俺は振りつけ考えたり、何かに集中してるとき、反応がちょっと悪くなるんです。“照兄、何々だよね!”“あ、そうなんだ”みたいな。そんなとき、シュンとした康二を見ると抱きしめたくなる。ほんと兄弟みたいな関係性。何やるにしてもかわいいなって思うとこが多いけど、実力もしっかりしてるのがすごいよ」
──この9人になってよかったって思ったのはいつごろ?
「9人になった時点で思ったよ。深澤の言葉を借りるけど、“世界中の誰が敵になっても、この9人だけは絶対に一緒にいる”って決めたから9人になったわけで。その覚悟がなければ9人になってないからね」

握っていたのは武器じゃなかった

──じゃあ、これからの夢を教えて。
「ドームでやりたい、どこでやりたいって具体的な夢もあるけど、もっと大きな夢もあって。Snow Manのコンサートや舞台を初めて見た人に衝撃を与えるパフォーマンスをしたい。その衝撃を一生誰にも超えさせないようなパフォーマンスを。“あのときのSnow Manのパフォーマンス忘れらんないんだよね”っていうのを世界中に広げていきたい。雪を見たことない国や地域の人も“Snow Manは知ってる!”ってくらいまで。いつか世界中の検索エンジンでSnow Manを検索したら、雪だるまよりも先に俺らが出てくる、そんな存在になりたい。俺たちをまだ知らない人に“なんなの、このグループ?”って聞かれたら胸を張って“日本のアイドルです!”って答えようって決めてます」
──人がムリムリって言いそうなことに挑むのが岩本くん、そしてSnow Manらしいね。
「きっとかなえますよ。俺、デビューして変わったってメンバーに言われることが多くて。今までずっと“これも、これも、これも全部自分でやらなきゃ”って抱えてた。振りつけをやって、グループのコメントも考えて、あれもこれも、『SASUKE』の練習もやって。でも全部は難しいって感じたときに、メンバーが“これは俺がやるよ”“ここは俺が”って言ってくれたんです。あ、頼っていいんだって今更気づけたというか。俺が前へ進めるのは。“照が振りつけた曲を踊るのうれしい!”“この振りつけ絶対ヤバイじゃん!”って言ってくれるメンバーがいるからで。俺のことだけじゃない、自分が生み出したものまでをすげー愛してくれる仲間がいるから。俺はジャニーズに入るって決めたときから、ずっとこの世界を切り開くために必要なのは武器だと思ってた。この手に握ったダンスという武器で未来を切り開くんだって。でも、デビューした今ふと気づけば、この手で握ってたのは武器なんかじゃない。たくさんの手だった。メンバーの手だけじゃない。大勢のファンとも手をつないでる。ひとりが持つ武器より、みんなで手をつないで進んだほうが絶対に強いよ。小さな雪がたくさん集まって大きな雪だるまができるように、みんなと握ったこの手を離さず、握る手をもっともっと増やしていけば、かなえられない夢はないって思ってる」

取材・文/水野光博