Myojo

10000字ロングインタビュー

あの円陣を組んだときが
“6人でずっと一緒にいよう”って
約束をした瞬間だった。

10000字ロングインタビュー

『僕がJr.だったころ』

SixTONES・Snow Man編

第1回

松村北斗

〔SixTONES〕

まつむら・ほくと
1995年6月18日生まれ。静岡県出身。B型。身長177cm。
2009年2月15日、ジャニーズ事務所入所。
2020年1月22日、SixTONESとしてCDデビュー。

※このインタビューは、MYOJO2020年5月号に掲載されたものに、加筆・訂正したものです。

10000字ロングインタビュー、新シーズンが開始。
1月22日ジャニーズ史上初の同時デビューをしたSixTONES、Snow Manの15人、
それぞれの今だからこそ語らなければならない熱い思い。
もがき苦しんだあのころ、だけど、あきらめきれない夢のため…
都合のいいストーリーなんて必要ない。
新たな約束を胸に、またここから、スタートしていく。

この6人ならもっとすごいことになる

──改めてデビューおめでとう。
「ありがとうございます。でも、まだこっから行くよ。俺、今すごい燃えてて。毎日でも働きたいんですよ。毎日何かやってたい。もっと何ができるだろうって、これからのこと、グループのこと、メンバーのこといっぱい考えるんです。そうすると、この6人なら、もっとすごいことになるっていつも思う。だから、まだまだです」
──現状には満足できない?
「満足!? 正直今、ダメですよ。全然ダメ。だから、今のSixTONESを“すごい!”と言ってくれるならうれしいですけど、まだまだだよって伝えたい。これからの6人を見逃さないでって。こっからだからマジで。そうは言っても、具体的なビジョンがあるわけじゃないんですけどね(笑)。俺たち、Jr.時代からいっつもそうなんです。コンサートをやると全部出しきっちゃうから、次のアイデアはゼロ。次のビジョンも見えない。だから今、アイデアはないけど、6人の熱量だけが渦巻いてる状態で。次、何をしたらどうなるかなんてわからない。でも、6人のポテンシャル考えたら、こんなもんじゃないから」

主人公の人がカッコいいなと思って

──じゃあ、デビューまでの軌跡を追いたいんだけど、幼いころのことで覚えてることってある?
「視覚の記憶じゃなくてもいいですか? 俺、妙に好きで、フレンチトーストが。理由を探っていったら、離乳食でフレンチトーストをよく食べてたらしいんです。大人になってハヤりのカフェなんかでフレンチトーストを食べ歩いたりもしたんですけど、確かにおいしいんです。でも、スーパーで食パンを買ってきて、耳を落として、卵と牛乳と砂糖だけでシンプルに作ったフレンチトーストにメープルシロップをかけたのがいちばん好きで。これが母さんの味なんだなって」
──北斗くん自身も料理するのが好きだよね?
「昔から好きでしたね。母が料理してるのをずっと見てたんで、その影響かな。俺、小さかったころの夢、カレー屋さんとラーメン屋さんになることだったんですね。幼稚園のころ、うまく発音できなくて、“カーレンさんとラーメンさんになる!”って言ってたらしいです(笑)。あとは人並みにヒーローになりたがってましたね。困った人を助けたいって」
──小1で空手を始めたのは、ヒーローになりたかったから?
「きっかけ、覚えてないんですよね。ただ、誰かにすすめられたんじゃなくて、自分で“空手をやりたい!”って言い出したらしいです」
──稽古、厳しかったんじゃない?
「厳しかったけど、すぐに夢中になりました。ただ、小3くらいかな、上達が止まったんですよね、ピタッと。勝てなくなって、辞めたいって思ったことが何度かありました。悩んでる俺を見て両親は、“ここまで一生懸命やってきたんだから続けたほうがいいと思う。ただ、最終的にはあなたの判断だから”って。結局、辞めませんでした。負けず嫌いみたいなカッコいい話じゃないんですけど、辞めてしまうことで自分の中から何かがなくなることや、親の期待に応えられないことへの恐怖みたいなものが強かったんですよね」
──芸能界に興味はあったの?
「まったくなくて。小5でドラマ『クロサギ』をたまたま見たんです。普段、ドラマは見なかったのに。主人公の人がやたらカッコいいなと思って。マネしたい、自分もああなりたいって。でも名前すらわからない。クラスで話したら、“アレは山P(山下智久)だよ”って、みんな知ってました。俺が急速に熱中し出したんで、親がファンクラブに入ってくれて、NEWSのコンサートにも行ったんです。コンサートでもカッコよかったですね」
──そして、ジャニーズに履歴書を送ることになるんだ。
「1度目を送ったのが小5。1年後に2度目を送りました。でも、どっちも返事はなくて」
──それでもあきらめきれなかった?
「はい。だから中1のときに3度目を送ったんです。ただ、そのときは親と話し合って。親は焦ってる俺を見て、どこかで区切りをつけないと苦しみ続けるだろうなと思ったんでしょうね。空手のときと同じで、意見を押しつけるわけではなく、“ダメだった場合のことも考えておいたほうがいい”って。だから俺、決めたんです。中2の4月1日までに返信がなかったらキッパリあきらめるって。中2からは高校のことも考えなくてはいけない。だから、もしも4月1日以降にオーディンションの連絡が来ても、行かないって自分で決めて」
──事務所から連絡が来たのは?
「中1の2月。リミット、ギリギリでした。動画が残ってるんですよ。定期試験を終えて家に帰ったら、なぜか母がハンディーカムを回してるんです。で、“はい、これ”って1枚のファックスを渡してきて。でも、ジャニーズのオーディションって書いてあったわけじゃなく、“『ザ少年倶楽部』バックダンサーオーディション”みたいに書いてあって。ジャニーズしか出てない番組なんだから、つまりはジャニーズのオーディションってことなんですけど、俺は一瞬、どういうことか理解できなくて。母には本当に申し訳ないんですけど、期待したようなリアクションはまったく取れなくて(笑)」

七五三掛と俺が、シンメの状況でした

──オーディションはどうだった?
「静岡からクルマで行ったんです。父が運転して、母が助手席、俺が後部座席で。東京が近づくにつれ、緊張と喜びと不安みたいなのが入り混じって。小5から3年間、思い焦がれた夢がかなうかどうか、今日決まる。たった3年じゃないんです。当時13才。13年のうちの3年間ですから。でもダンスなんかやったこともないし、オーディションを何人受けるかもわからない。わかっているのは、何か些細な俺のミスひとつで、“帰っていいよ”って言われた瞬間、夢が終わるってこと。思わず涙があふれちゃったんですね。隠してたんですけど、母は気づいてパッと振り返って。もらい泣きしちゃうんじゃって思った瞬間、俺を怒鳴りつけたんです。“泣くんじゃない!!”って。あまりの剣幕に、ピタッと涙が止まって。最近、“あのとき、よく怒ったよね”って聞いたら“オーディションはカッコいい人しかいないのに、泣いて目なんか腫らしてたら受かるわけないでしょ”って笑ってました」
──会場に着いてからはどうだった?
「名札をつけて、最初はテキトーに並ばされて振りつけを教わり、ひたすら踊って。徐々にポジションを指示されるんです。“君、前に行って。君は下がって”って。すごい記憶に残ってるのは七五三掛(龍也)で。となりで踊ってたんですね。かわいい顔したコだな、でもダンスめっちゃ踊れるなあって。そしたら、ジャニーさんが、俺のとなりに来て、履歴書に英検の何級かを持ってるって書いたからだと思うんですけど、英語で突然話しかけてきたんです。発音がネイティブな感じだったんで全然聞き取れなくて。“え、え!?”ってなって。ああ、ヤバイと思ったら、休憩時間にジャニーさんと振りつけ師さんに呼ばれ、“おまえは休まず練習を続けろ”って言われて。俺、相当ダメなんだって落ち込んで。でも練習しようにもダンス経験がなくて、振りを覚えてないんですよ。そのときに頼ったのが七五三掛で。“ごめん、振り全然わかんないから教えて”って。練習が再開され、七五三掛と俺が少しずつ前に呼ばれ、気づけば最前列のセンターで踊らされて、いわゆるシンメみたいな状況でした」
──結果はどうなった?
「翌日が『ザ少年倶楽部』の収録で、ジャニーさんに“来れる?”って聞かれて。俺は“来ます!”って。ただ、オーディションの夜、ジャニーさんから電話があったんです、“YOU、明日来なくていい”って。理由を聞いたら、“YOUは静岡で遠いからいい。もっとすごいことさせるから”って。じゃあ、その“すごいことってなんですか?”って思うじゃないですか。俺を傷つけず断るためのウソだとしか思えなくて。俺にはそんなシンデレラストーリーが起こるわけないと思ってましたから。そんなうまくいくならとっくにうまくいってる。都合のいいストーリーは、待っていない人間だって知ってたから。だから、“絶対、行きます”って言い続けて、最後はジャニーさんが折れる形になって」
──押しきって収録に行ったんだ。
「はい。そしたらジャニーさんがみんなの前で“YOU、なんで来たの!”って大きい声で言うんで、俺めっちゃ恥ずかしくて。そしたら笑って、“すごいやる気があるんだね”って、急きょ『Jr.にQ』ってコーナーに出してもらえることになったんです。待機部屋に連れられて行くと五関(晃一)くんがいて、“五関、このコ連れてっちゃいなよ”って。五関くん“ああ、わかった”ってすっごい軽く返事して。すぐに順番が来て手を引っ張られステージに出ていったら、俺が大好きだったNEWSの小山(慶一郎)くんとKAT-TUNの中丸(雄一)くんがいて。『ザ少年倶楽部』、ずっと見てたから、自分がそこに立っていることが信じられなかったですね」

YOUがあれだから。そういうことだから

──入所直後、B.I.Shadowへの加入も決まり、ジャニーさんが言っていた本当に「すごいこと」が始まったよね。
「入所して2週目の『少クラ』のリハーサル中かな、“すごいスターがいるから、そのコとずっと一緒にいなさい。このコのグループにずっとついて行きなさい”って紹介されたのが中島健人だったんです。“あれがB.I.Shadowで、YOUがあれだから。3人だけど、4人だからね。そういうことだから”って言われて。俺はもうパニックで。“そういうことってどういうこと? グループ入ったってこと? 俺がB.I.Shadowなわけないよな”って」
──本人すら半信半疑だったんだ。
「はい。次の週のリハーサルで、振りつけ師さんに“B.I.!!”って呼ばれたんで俺もついて行くと、周りは“え!?”ってザワつきましたね。でも健人と(菊池)風磨は、ホントによくしてくれたんです。当時、俺が振りつけを聞いても“ちょっと待って”って教えてくれないときがあって、“頼りになんねえな”って思ったこともあったけど(笑)。ただ、今になって考えると、当時ふたりも入所して1年。よく、あそこまで俺の面倒を見てくれたなって。空いてる時間、ほとんど俺の振りつけ見てくれてたんだもん」
──その後、中山優馬 w/B.I.Shadowや山田涼介、知念侑李が加わったNYC boysとしても活動。CDリリースや紅白出場も果たしてる。
「全部、入所1年目のことですからね。ホント激動の1年でした」
──当時、山田くんや知念くんとはどんなことを話したか覚えてる?
「それが、まったくといっていいほど話せなくて。全力で人見知りだったんですよね」
──でも、入所直後の雑誌のインタビューでは、「長所は人見知りしないこと」って答えてたよ。
「きっと強がったんでしょうね。新しく入ってきたんで、気さくで無邪気な弟キャラというか、誰からもかわいがられなきゃって。だけど実際はムリで。俺、根は明るいんですよ。おしゃべりだし。でも人見知りっていう、めんどくさい感じで」
──その後、徐々に仕事量が減った時期があったよね。
「ありましたね。最初はかすかな違和感で、それが少しずつ大きくなっていったというか。“あれ!? 今月B.I.Shadowで取材がなかったけど、健人と風磨、ふたりだけで取材受けてるな”とか」
──なるほど。
「中学生でしたけど、NYC boysにしても、大文字と小文字、そこに込められた意図には気づくんですよ。3人が赤い衣装で、俺らが後ろでちがう衣装を着てる。仕事が徐々に減っていったけど、俺はもうただただ必死で、すがりつくしかなくて。健人と風磨、ふたりだけで歌う予定の曲を、振りつけをひとりで覚えて、“俺も踊れます!”って一緒に出してもらったりして。でも当然、マイクを渡されることはなくて。もうダメなのかもしれないとも思ったけど、どこかにこの世界で生き残る活路はないかって、あがいてました。地元の友だちや親を失望させたくないって気持ちもあったし、何より自分が憧れて入った世界だから、簡単にあきらめられないんで」
──入所後、すぐにグループにも入り、周囲にはエリートに映ったかもしれないけど、本人は必死だったんだね。
「ですね。少しでも仕事を増やしたいと思って高校から上京することも決めて。事務所の人に話したら、“静岡にいても活動できるよ”って言われて。だから、“芸能活動のためじゃないです。入りたい高校がたまたま東京なんです”って伝えて、上京してから“東京に住み始めました”って事後報告して」
──だけど、Sexy Zoneのデビューが決まり、B.I.Shadowは実質活動休止状態になってしまった。
「一気に仕事がなくなって、踊る位置もどんどん下がって。1カ月、まったく仕事がないこともあって、さすがにヤベーってそのときは思いました」
──でも、あきらめず前を向いたよね。
「そう言ってもらえるとカッコいいですけど、内心は不貞腐れてもいたし、それと同時に呼ばれたときは“認めさせてやるよ!”みたいな真逆の思いがぶつかり合って。ようはグレたんです。手を抜いて踊るとかは絶対しなかった。でも、先輩のバックだろうがなんだろうが、“オラ! 見ろ見ろ! 俺を見ろ!”みたいなマインドでステージに立って。メイクもギラギラ、アクセサリーもジャラジャラで。今でも覚えてるのが、Hey! Say! JUMPのバックで踊ったとき、Jr.コーナーでKinKi Kidsの『Family~ひとつになること』を歌わせてもらったんです。素敵なバラードなのに、めっちゃにらみを利かせ、指にはドクロの指輪。自分を何者かに見せようと必死で。誰よりも本人が、自分は特別な人間じゃないことに気づいてたのに」
──もがいてたんだね。
「今の俺が当時の自分を見たら絶対注意してると思います。当然、周囲からも、“感じ悪い”“イメージ悪い”“調子乗ってる”って声が聞こえてきて。ただ、そのギラギラな姿をドラマ『私立バカレア高校』のプロデューサーの方が見ていて、“すげー尖ってるヤツがいておもしろい”って、起用を決めてくれたんです」
──そんな経緯での抜擢だったんだね。
「はい。選んでいただけたという結果を、あのころの自分がしたバカなことの言い訳にしちゃいけない。ただ、それでもあの日の俺は全力だったというか。人生、いろんなことがつながってる。正しいかどうかは別として、必死さは必ず何かを生むんですよね」

俺、このグループで成功しても、もつかな…

──現SixTONESのメンバーがそろって出演した『バカレア』は大ヒット。いつかこの6人でデビューするかもしれないって感じた?
「予感はしなかったです(笑)。なんか寄せ集めだなって気はしてました。チグハグな6人が集まった印象というか。ただ、6人でいると、なんかおもしろいなって思う瞬間もあって。家庭で作るハンバーグというか。まちがってもステーキじゃないし、レストランで出る牛肉100%のハンバーグでもない。いろんな部分の寄せ集め、合挽き肉で作った家庭のハンバーグ。でも、すっげーおいしいかもみたいな」
──少しずつグループ意識のようなものは芽生えていったの?
「はい。『少クラ』で6人で歌わせてもらえたり、『SUMMARY』やコンサートも6人でやらせてもらううちに。ただ、最初は、誰もが自分が成功するための道というか、生き残る道、このグループにすがるしかないって気持ちが強かったと思います」
──個人的には2013年、MYOJOで行っているJr.大賞の恋人にしたい部門で1位を獲得してるよね。
「うれしかったです。まさか選んでもらえると思ってなかったんで。『バカレア』という作品に押してもらったと思いますし、Sexy Zoneがデビューした後だったこともあって、俺にもデビューしてほしいと思ってくれた人がいてくれたのかなって。1位を取ったJr.はデビューできるってジンクスってありますよね!? 1位を取れたんだから、俺もデビューできるかもしれないって、ランキングの結果が心の支えになってましたよね」
──そして、2015年5月、ついにSixTONESとして正式にグループになった。
「19才。このグループにどんな未来が待っていても、俺が参加する最後のグループだろうなって思いましたね。これでダメだったら後はない。ラストチャンスだって」
──結成直後、デビューできると思ってた?
「最初は一切思わなかったです。デビューできないんだなって全力で感じてたっていうか。なかなか人気でないなって、笑えてくるくらいどうしようって思ってました」
──そうだったんだ。
「俺自身、悩んでましたからね。もしこのグループで成功しても、俺、もつかなって。もしかしたら、どっかで辞めちゃうかもなって」
──そんなに思い詰めるって、何があったの?
「ちょっとずつグループやメンバーに対して、“アレ!?”って思うことが増えていったというか。俺も好かれようとしないし、好いてもらってるとも思ってなかったし。全員、後がないともがいて、余裕がなかったんでしょうね。メンバーなのに傷つけ合ったり、グループなのに、見境なくぶつかったりもして。思い通りにいかない理由を誰かのせいにしたりしてた」
──例えば、どんなこと?
「例えばですよ。今は振りつけを揃えつつも個々がアレンジすることが当たり前になっているし、メンバーのアレンジを尊重し合ってる。でも当時は、アレンジひとつしたら、“それちがうんじゃない?”と咎めたりしてた。“あいつはまちがってる”って。人を責めると自分が正しいような気になれるんですよ。そんなこと全然ないのにね。それを俺もメンバーに対してやってたと思います、いろんな部分で。その内紛のような状態に俺は耐えきれなかった」
──なるほど。
「誰にも正解がわからない世界じゃないですか。だったら自分のことは自分で決めようって壁を作って。メンバーのアドバイスも指摘も全部遮断するようになったんですよね。楽屋ではメンバーと話をしなくて済むように、イヤホンをしながら、ずっと本を読んだり」
──辞めたいと思ってた?
「おしゃべりな人見知りをこじらせたというか……。そんな態度を取りながらも、メンバーとは話したかったし、辞めたいって思ったことは一度もなかったんです。このグループじゃ、もたないかもと思いつつも、どっかで、もたせながら続けようとも思ってた。とはいえ、隠しきれず親にはよく心配されてました。俺がギリギリに見えたんでしょうね。“サークルや部活だと思えばいい。もちろんお金をもらっているからバイトだと考えてもいい。終わりなら終わりでいいんじゃない。キツかったらいいからね”って。俺は“まあね、まあね”って軽い感じで返事しながら、心の中で“心配かけてごめん”っていつも謝ってました。“ごめん、それでも俺は続けるよ。辞める気ないんだ”って」
──メンバーは全員、「北斗は本当に変わった」って言ってる。何かきっかけがあったの?
「今じゃ楽屋で俺がいちばん話してるくらいだからね(笑)。でも、特別な出来事で世界が一変したってことじゃなくて、点と点が結ばれ線になる瞬間が訪れたというか。それに俺からしたら、俺が変わったんじゃなくて、みんなが変わったことで、俺が素を出せるようになったって感覚のほうがしっくりくるかな。全員が変わったんですよ。大人になったって言ったら耳触りはいいですけど、6人でい続けることで、少しずつ心の余裕が生まれたというか」
──点と点が結ばれたって、例えばどういうこと?
「うーん、例えば、俺はずっとお芝居を楽しいなって思ってたけど、全然うまくなかった。それがコンプレックスですらあったんです。以前は、“何がやりたい?”って聞かれても、自分がやれることしか言ってはいけない空気みたいなものを勝手に感じていて。だからお芝居やりたいって一切言えなかったんです。グループ結成直後の雑誌の取材とかで“北斗くんは今後、何がやりたい?”って聞かれても、俺は何も言わない。そのときに、必ずジェシーが“こいつはお芝居やりたいんですよ。演技で映えるルックスもしてるから、こっから絶対、俳優として伸びていくと思います”って言ってくれたんです、ずっと。あるときふと、この人にずっと言ってもらってるだけじゃダメだって思って。やりたいことを自分から言うようにしたんです。“芝居をやりたいです。ただ、うまくないのはわかっているので、成長できる機会がほしいです”って。それで、映画をもっと見なきゃ、あれをしなきゃ、これもしなきゃって、生活や行動、趣味が変わっていった。ジェシーからだけじゃなくて、メンバーからもらったきっかけ、何気なく見えた点がほかの点とつながって線になり、僕に変わるきっかけを与えてくれていたことに気づいたんですよね」

6人で円陣を組んでワンワン泣いて

──2018年に入ると『ジャニーズJr.チャンネル』などでも活躍の場を広げ、表紙を飾った雑誌が異例の重版決定など急激に露出も増えていく。風向きが変わったと思う瞬間ってあった?
「2017年、『Amazing!!!!!!』をやったころですね。あの曲でグループの目指す方向性が明確になったというか。あの時点における集大成だったと思います。あのあたりから、俺はメンバー全員の変化を感じたしね。ある意味で『Amazing!!!!!!』がSixTONESの本当のスタートだったのかもしれない」
──ただ、デビューにはこだわらないという発言も繰り返していたよね?
「正直に言うと、こだわらないというよりも、デビューをあきらめていたということが少しはあったと思います。ただ、デビューするかしないかのちがいっていくつもあると思うんですけど、俺が思う最大のちがいは、デビューできなければ、そのグループはいつか消える。メンバーも変わる可能性があるってことだと思うんです。デビューしてやっとグループとして認められることってあるから。でも、デビューしようがしまいが、SixTONESは消えない。ずっと残り続ける。いつからか、そう思えたんです。誰から言われたわけでも、メンバー同士で約束したわけでもないのに。それがデビューにこだわらなかった最大の理由です」
──そして2019年6月28日、ジャニーさんの病室でデビューを告げられ、8月8日、総勢300人のジャニーズJr.が出演した『ジャニーズJr. 8・8祭り』で発表することに。
「8月8日は厳粛な場だったというか、あの日、俺たちがやらなければいけなかったのは喜びの感情を表現すること以上に、デビューという事実をその場にいるすべての人にきちんと伝えることでした。Jr.として一緒に戦ってきた仲間、それを支えたファン。もちろん俺たちを支えてくれた人もいるし、ライバル視していた人もいたはずで。ある人には喜びの、ある人には残酷な発表だったはずだから」
──同時デビューしたSnow Manはどんな存在?
「もちろんライバルではありますけど、完全に仲間です。グループがちがうだけって感じですね」
──ずっと心配していた家族には、どうやってデビューを伝えたの?
「あの日、すぐに電話で伝えました。何気なく言われた“よかったねえ”って言葉が忘れられないんですよね。うまく言葉にできないですけど、俺の人生、俺に託してくれてたんだなって。俺の人生を俺のものとして見てくれていた。信じていてくれてありがとうって伝えたいです」
──まさに苦楽をともにしたメンバーに、今、伝えたいことはある? まずは髙地優吾くんから。
「ジャニーさんが、俺に“すごい相性のいいコがいるよ”って言ってくれたのが髙地だったよね。B.I.Shadowが休止状態になっても“ふたりはずっとペアで”って。だから、これからも一生一緒だね」
──ジェシーくんへ。
「こっからも頼むね。もちろん俺らもがんばる。だけど、キミがグループの顔、うちのセンターだから」
──田中樹くんへ。
「めっちゃエンジンかかった樹、最強なんすよ。樹、君はすごい。自信持ってね」
──森本慎太郎くんへ。
「グループ最年少ってことで、まだまだ遠慮してるとこもあるよね。でも、これからメンバーで一緒に年令を重ねて大人になる。そしたらその差はもっとたいしたものじゃなくなるよ」
──京本大我くんへ。
「……ずっとその背中を見せてね、かな。俺はプロ意識とかそういうのは、誰よりもずっと京本から刺激を受けてる。芸能人ってすげーなって思わせてくれた人だから。もしもちがう職業だったら、“尊敬してるよ”って素直に口にできたかもしれない」
──最後にSixTONESが「この6人でよかった」っていちばん思った瞬間っていつ?
「今年の1月7日かな。『TrackONE –IMPACT-』、横アリラストのWアンコールのとき。Jr.最後のステージ、そのステージの最後の瞬間。俺はデビューが決まったときからずっと“SixTONESは2015年5月1日に始まったグループで、2020年1月22日にデビューする。でも、デビューの日に何かが終わり、何かが始まる、そんなグループじゃない”って言い続けてたんです。だけど、あのWアンコールのとき、ステージ上で6人で円陣を組んで、みんなが目を合わせ“ありがとう!”って叫びながら泣いた。もう恥ずかしいくらいワンワン泣いた。俺もメンバーの目を見ながら、“こいつらに救ってもらったんだ。この6人でよかった”って思ったら涙が止まらなくて。こいつらのことが大好きだって心から思った。ずっとデビューは関係ない、俺たちはずっと一緒にいるって信じてたけど、きっとどこかで引っかかっていたんだと思う。ずっと一緒にいられるのかなって。あの円陣を組んだときだって、メンバー間で言葉にして確認し合ったわけじゃない。でも、あのときが、“この6人で、ずっと一緒にいよう”って約束を交わし合った瞬間だったんだと思う。俺、円陣組みながら思わず、“あぁ、終わっちゃったぁ”ってポロっと言葉があふれて。あんだけ“デビューの日に何かが終わり、何かが始まるわけじゃない”って言ってたのに。すげー楽しくて、その何倍も辛くて。メンバー同士、傷つけ合いも助け合いもした。でも、どんなときでも全力だった。あの日、あの瞬間、そんなJr.時代が終わり、6人で新たな約束を胸に歩き出したんだと思います」

取材・文/水野光博