ミスコン全盛期の1970年代に、ミスコン反対運動の狼煙を上げた山口彩子さん(当時、堺市女性団体協議会委員長)は、それ以前、堺市で開催されていたミスコンの審査員を務めていた。
その際、水着審査を待つ出場者たちの寒々しい姿や、他の男性審査員の審査中のコメントや会話に、強い違和感や不快感を覚えたという。山口さんは、ミスコンが女性差別であることを学術的に研究し、それが運動として発展していった(*1)。
1980年代の終わりに、堺市女性団体協議会が全国3382自治体に向けて行ったミスコン実態調査によれば、ミスコンを実施していた482自治体のうち、8割以上が出場者に年齢制限を設けており、「18歳から25歳」という制限が最も多かった。そして審査員の7割が男性だった(*2)。
水着審査をなくすなどして批判をかわそうとした主催者もあったが、公費の投入を批判された自治体主催のミスコンは次々と撤退していった。
「美」を資本として活躍できる場(ウェブ上もふくめて)が広がった現在、ミスに選ばれることのメリットも、かつてほど大きくない。
ミスコンのみならず、地域の特産物などをPRするための「キャンペーンガール」や「〇〇娘」の募集をかけても、なかなか応募者が集まらないという。
大学ミスコンが生き残ってきたのは、「女子アナ」やタレントの登竜門として注目されたり、協賛企業による高額賞品が話題になったりといった特殊性からであろう。