default
pixivは2022年7月28日付けでプライバシーポリシーを改定しました詳しいお知らせを見る
この作品「曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ」は「リコリス・リコイル」「リコリコ」等のタグがつけられた作品です。
曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ/私下の小説

曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ

39,913文字1時間20分

1話から11話まで見た後、最終回までの展開をイメージして書きました
たきな→クルミ→千束の順に、主人公がローテーションしていきます

千束のたきな宛手紙風モノローグが、たきなの千束宛手紙風モノローグのアンサーになってる所に思い入れが有ります

  • 6
  • 7
  • 280
2022年9月17日 14:31
1
gray
horizontal

──彼女の眼は赤く、暗く光っていた。まるで月を見上げる彼岸花のよう。
「千束」

乾いた音が公園に鳴り響き、自分の足元十センチ下で白煙が上がった。
ずっと聞いていた、非殺傷弾の少しだけ曇った発砲音ではない、重くも鋭い音。

「たきなを撃って行く事にするよ」──


- * -


平和の象徴、旧電波塔。かつてテレビの電波等を送信するため建造されたが、
十年前のテロ事件によって全壊した。
後継の電波塔となる延空木の外階段から見えた旧電波塔は、
倒壊防止のため地上から構造物やワイヤーでがんじがらめに固定され、
その姿は罠にかかって死んだ巨大な獣の骨のよう。
私には、その姿は平和のための生贄のように見えた。

私は今、その旧電波塔内、かつての展望フロアに居る。
千束と、目の前にいる真島というテロリストは十年前の事件の時にこの場所にいたらしい。

「千束、ケータイ置いていかないでください」
「ゴメンゴメン。いやーロボ太がね」
千束は話しながらも、銃は真島を狙ったままだ。

「オハナシチュウすみませんが」
真島が続けて言う。
「電波塔のリコリスを撃って終了、で良いのか?」
真島が千束に狙いをさだめる。
「させません」
私もまた銃を真島に向ける。先程の交戦中に私が奪った真島の銃だ。
「手癖の悪いヤツだな」
「お互い様です」
真島には私の銃が渡っている。

互いに銃を向け合い、緊張が切れない中、口火を切ったのは真島だった。
「黒いの。お前俺に訊きたい事が有るんじゃないのか?」
「変わった命乞いですね」
「オイオイ。お前は赤いのと違って敵とみなした人間を殺すのに躊躇しないはずだ」
──しまった。
「顔に出過ぎだ。ポーカーフェイスが必要な仕事にはついたこと無いだろ、お前」
「たきな!真に受けないで」
「赤いの。お前が撃てないのはこの銃を撃った感じでは弾の射程の問題だ。
この銃の性能は赤いのが持ってるのとそんなに変わらないだろ」
「私の銃は DA のじゃない特別製なんでーす」
千束はそう言うが、図星を指されたと真島は見たのだろう。
そして以前千束の弾を試射した私は、その推定が外れていない事を知っている。
今、私達と真島の間には、千束の非殺傷弾の有効射程を少なからず超える距離が有った。

しかし致命傷を与えず、適当に痛めつけて尋問すれば良い。
そう考え直し、狙いを膝に定めようとする所で真島が言った。
「普段こんな良い銃使ってるお前が、俺の銃で急所を外して撃てるのか?
右腕もさっき痛めたろ」
見透かされている。不慣れなリボルバー、銃身も短い、腕は先程真島にひねられた。

それでも撃つしか無いかと逡巡していた所、真島が言った。
「あのアラン機関の男が持ってる心臓、千束には使えないぞ」
「──え」
真島が顔をそむけ、足元に転がる缶状の物を撃った。
爆発音と閃光が視聴覚を奪う。フラッシュバン(閃光弾)──!

周りの様子が見え聞こえするようになるまで数秒を要した。
気づけば真島は私が空けた穴から逃げ去っていたようだ。
パルクールの様な技で階下に移動していく姿が見える。
千束のマンションから真島を逃した時を思い出した。そして今回までも。

次は、次だけは決して躊躇しない。
私の注意をそらすためについた嘘、千束の心臓を利用したあいつの嘘を許さない。
次が最後だ。

千束が話しかけてくる。
「たきな。最後撃とうとしたでしょ」
「膝の皿でも撃ち砕こうかと思っただけですよ」
「ちょちょーい。コワイこと言うねーたきな」
そう言って身を震わすジェスチャーを取る。いつもどおりだ。

しかし私の頭からは真島が言った事が離れない。
「千束」
千束は聞こえているのかいないのか「そうだ。ヨシさんは、っと」と言いながら、
駆け足で離れていった。

展望フロア内や周辺フロアを捜索したが、吉松は見つからなかった。
ロボ太とかいうヤツが連れて行ったのだろうか。
吉松が落とした携帯電話だけが私達の手元に残っている。
千束は不安そうに携帯電話を両手で持っていた。それはそれは、大事そうに。

旧電波塔の階段を警戒しながら二人で降っていく。
やっと一階に着いたが周辺の様子がおかしい。
人が少ない、というか私達が見える範囲に行くと蜘蛛の子を散らすように離れていく。
私も千束も一瞬混乱したが原因に思い至った。
「ファーストの制服も放送されてたしね」

無性に腹が立った。
昨日まで、いや今日の延空木のセレモニーでだって、
私達リコリスが命がけで守ろうとした人や物が有った。
私達が居なければこの都市、この国の平和も安全も確保できないはずなのに、
なぜこんな仕打ちを受けねばならないのだろう。それも守ろうとした人達から。
「たきな。顔がコワイよ」
「コワくもなります」
「あ、戻んなくていいの。延空木」
「大丈夫です。クビになったので」
「はあ?」
どういうことなんでわたしのせいねえねえと尋ねる千束を適当になだめながら、
車に向かう。


- * -


「つまりあなたが以前ラジアータにハッキングし、
我々の作戦行動を妨害したハッカー、ウォールナットという事でよろしいか」
楠木とかいう猿山のボスはボクを見下ろすようにして言った。
「ああ」とボクは答える。

かつて DA で働いていたミズキを説得して繋いでもらった。
目張りされたヘリに乗り、空港からたどり着いたのは本部とかいう所。
ボクとミズキはその中の一室でこのリコリスの親玉と話している。
楠木は傍らに数人のリコリスを配置し、合図でいつでもボクを殺せそうだ。
ミズキは緊張というか恐縮しきった様子だ。

「ご足労いただき光栄だが、今私達は大変忙しい。」
楠木は体温を感じない声で続けて言う。
「客間はモルグ(死体安置室)で良いか」
「ボクを殺せば」
「DA やラジアータに関する情報がダークウェブに流出する、といった所か」
「察しが良いね」

周りのリコリスが殺気立つが手は出さない。訓練が行き届いているな。
たきなならもう膝でも撃ってるかもしれん。

少し間を置いて楠木が尋ねてくる。
「ウォールナット、お前の希望は何だ」
「その前に人払いをお願いできないか」
楠木は苛立ちをはらんだ表情をにじませたが、スッと立ちながら言った。
「ついて来い。ミズキ、お前もだ。フキ、一緒に来い」
「ハッ、ハイ」
「了解」
ミズキはここの人間の中で一番緊張しているようだ。

移動中、フキといったリコリスが話しかけてきた。
「お前あの喫茶店でバイトしてただろ」
「ああ。可愛かったか?」
「バカ言え。あそこにはロクなのが居ない」
「度々来るくせに店長の皿を固辞する客とかな」
睨みをきかせてくるが、その様子には千束と似たような少女の雰囲気が有った。

やがてとある部屋に案内され、司令が言った。
「本題に入ってくれ」
私はフキをちらりと見る。
「そいつの退室は許可できんな」
少し考えたがまあ良い。特に問題ない。
居住まいを少しただし、ボクはその床にすがりついた。前に楠木司令で、後ろにフキとミズキ。
土下座なんて初めてだ。ミズキはうろたえ、フキは驚きながらも、銃は抜いている。
楠木がボクに問いかける。
「何の真似だ」
「頭を下げている」
「ポーズなら何でも良い。立って話せ」
「時間が無いんだ。ボクの希望と動機を漏れなく迅速に伝えたいんだ!
ラジアータに対して接続する端末を操作する権限をくれ」

突飛な要求のためか、一瞬沈黙が流れた。楠木は特に緊張を感じさせず尋ねた。
「何のためだ」
「テレビで流れた映像を見た。ラジアータがハッキングされているんだろう。
それもかなりの長時間、複数回」
「クルミ!」ミズキが慌てる。
「貴様」フキが殺気立つ。
「以前ボクがハッキングした際はこんなに長時間、
まして映像を流す帯域を長時間ジャックするなんて出来ないはずだったんだ」
「お前は今日のハッキングには関与していないと言うのか」
「そうだ」
「それを示す根拠がない。
それが本当だとして、今日のハッカーの方がお前より優秀なだけなのではないのか」
ぐっと出かけた罵詈雑言を抑え込む。「そうかもしれん」

楠木はさらに続けて言う。
「今日のハッキングもお前の仕業で、偶然発見したラジアータに関する弱点を利用するため
乗り込んできた、と考えるほうが妥当ではないか」
「DA にだって情報部員は居るだろう。立ち会わせてくれれば良い」
「そうまでして何をするつもりだ」
「バックドアを探させてほしいんだ。DA からネットワーク的に近い領域に有るはずなんだ」
「だからそれを見つけることが出来たとして何の得がお前に有るんだ。
ハッカー同士の小競り合いを制せた自己満足感か」

違う、と言って続ける。
「ボクはたきなに借りが有る。」
「銃取引の際のハッキングの件か」
「そうだ。依頼された事とはいえ、あのハッキングはたきなに迷惑をかけた」
「迷惑を被ったのは井ノ上だけ、か?」
少し迷ったが答える。
「違う。あなた達 DA のみんなに迷惑をかけた。私に出来るのはコンピュータを使うこと位だ」
重ねて言った。
「だから、その力で償わせてほしい。借りを返させてほしい」
楠木は黙って居るが、ミズキに尋ねる。
「ミズキ、こいつがウォールナットと知っていて報告しなかったのは何故だ」

ミズキがしどろもどろになりながら答える。
「えっ。あ、ハイ。まず私が既に DA の者でなかったので連絡するのはマズイなと」
「よく言う。お前たまに DA のネットワークにアクセスしていたな」
「そ、それは」
「一応千束達の任務上有用と見られたから無視していただけだ」

黙っていた方が良さそうだったのでそうしていたが、楠木がボクに話を向ける。
「ウチの情報部員はミズキよりは優秀だ。彼女と同じ程度と思って欺けると思うな」
そう言ってコンソールと情報部員を二名割り当ててくれた。
ミズキは大変不満そうだったが。

コンソールのセットアップを終え、情報部員が確認してくる。
「どの様にバックドアを探すつもりですか」
「そうだな。恐らくプロセスのリソース利用量を誤魔化すハックが有るので──」

「ここまで分かればラジアータ自身の監視機能でバックドアを無効化──」

「ああ、こんな脆弱性が利用されてたんですね──」

黙々と作業を進め、二時間程でバックドアとなる USB ドングルが刺さっているマシンを突き止めた。

ミズキが話しかけてくる。
「早く止めに行きましょうよ」
「いや、即座に停止させれば、このハッカーはバックドアが使えなくなった事に気づき、
別の作戦を進めるようになるのではないか」
情報部員はそれはそうかもしれませんが、と応じる。
「問題はラジアータ全体がハッカーの手に渡ることだ。
バックドアから利用できる計算リソースの上限を、
現在のラジアータ全力を百として、四十程度にしてしまおう」

情報部員が少し驚いた風に尋ねてくる。
「いきなり半分以下ですか。それでは処理が重くなり気づかれないでしょうか」
「このハッカーはラジアータを全力で使い切った操作をほぼ行っていない。
延空木の電波ジャック時にラジアータの余力を無くすため DDoS を行った時ぐらいだ」
感触は悪くない。畳み掛ける。
「もし上限を使いそうな時は一応アラートで我々に通知するようにしよう。
我々 五十、ハッカー 四十、余力 十
とすれば、ハッカーがラジアータを完全に征服する事は大分困難に出来るのではないか。
それで良いか」

情報部員二人は少し相談して言った。
「わかりました。では計算リソースの管理方法について──」
やった。

ラジアータの計算リソース割当を設定を変更する際、
先の説明で余力とした十を、こっそり自分のクライアントから利用できるようにする。
ごめんな騙してしまって。クビになったら仕事の面倒はボクがみてやるから。

こうして
DA 五十、ハッカー 四十、ボク 十
の割合でラジアータを利用できるようになった。
やはり国家予算が潤沢に使われただけあってジョブを渡すのも楽だし、計算も早い。
私が使えるリソースだけでも、ボクが普段使うクライアントの数千倍の演算能力が有る。

ただ何より重要なのはラジアータからのみアクセスできる過去の事件や、
国内外の大き目の商取引、またそれらに関係した者たちのデータだ。

ハッカーが他にバックドアを仕掛けていないか調べる、
と伝えて見た目上不自然でない程度にそういった形跡をさがしながら、
興味を引かれたデータを集め、ラジアータに解析させていった。


- * -


先生が待つ車にたどり着き、たきなと乗り込んだ。
旧電波塔に来た時は助手席に乗り込んだが、今度はたきなと二人で後部座席に乗り込む。
とりあえず、先生には車を出してもらい、じきに来るロボ太からの指示を待つ。

「あーたきな、この車ロボ太にハッキングされてるから」
「は?ハッキング?」
「そうそう。いやそんな怖い顔しないで。大丈夫、殺すつもりならもうそうしてるでしょ」
「ですが」
「むしろ私達が逃げたら、先生まで人質にされちゃうよ」

『そうそう。そのつもりでな』
ロボ太の声がしたカーナビに、後部座席から蹴りは入れられないのが残念だ。

先生は申し訳なさそうに「すまんな」と言った。
「何いってんのさ。先生は私達やヨシさんを助けてくれてるんでしょ」
先生はそれには応じず、ハンドルを握って前を見据えたままだ。

しばらく道を流していたが不意に
『さっきはお構いも出来なくて悪かったな。電波塔のリコリス、そして黒いの』
カーナビから真島の声がした。たきなが反応する。
「真島!」
『よう。この声は黒いのか』
「吉松をどうしたんですか」
『その事について相談が有るんだが。黒いの。お前はバイト先の喫茶店に一人で行け』
「何を」
『ヨシさんがどうなってもいいのか』

ヨシさんの名前が出て思わず割り込んでしまう。
「真島、ヨシさんは無事なの」
『赤いのも元気か。ヨシさんも元気にしてる。じきに会える』
「ふざけないでよ」
『ふざけてなんかいねえさ。お前らこそふざけて今言ったこと無視したりすんなよ』
その後は何を言おうがカーナビは反応しなくなった。
こっちの会話を一方的に聞いては居るんだろう。
腹立たしいが、言うことを聞くしか無さそうだ。たきなが様子をうかがっていた。

「たきな。正直、罠だと思う。」
「はい」
「でも。人質…取られてるから。ここは言うとおりにしてほしい。お願い」
「…千束がそう言うなら、そうします」
「…なにそれ」
たきなは応えずに武器の手入れを始めてしまう。思わず私も言葉を重ねてしまう。
「だってしょうがないじゃない。たきなはプロだけど、ヨシさんは一般人なんだから」
「分かってます」
「たきな、お願い冷静になって。そんなんだから DA を二回も…」
そこまで言いかけて口をつぐんだが、たきなは怒りと寂しさをないまぜにした顔で、
こちらをただ見るだけだった。
「ごめん」
「…いえ。大丈夫です。私こそすみませんでした」
口ではそう言うが、たきなの声にはやるせない悲しみを押さえた雰囲気が有った。

このままではたきなは、テロリストの言いなりで、より手軽な人質で。
そういう不条理を私は押し付けているような物だ。
結局リコリコに着くまで話の接ぎ穂は見つけられなかった。
「千束、何か有れば携帯に連絡ください」
たきながそう言うのにも「うん」と答えるのがやっとだった。

やげて喫茶リコリコの近くに着き、たきなは先生とだけ簡単な会話をして車を降りる。
「たきな。気をつけてな」
「はい。店長も、千束をよろしくお願いします」
「分かった」
たきなが閉めるドアの音は少し荒っぽいものにも聞こえた。

私達が感じていた気まずさを先生も感じていたのか、車を出した後も無言のままだ。
たきなに次会った時何を言うべきかを考えていると、また真島の声が車内に響いた。

『よう電波塔のリコリス。仲間割れか』
「大きなお世話」
『まあその方が都合が良い』
「でしょうね。たきなをどうする気なの」
『ちょっと言ってやることが有るだけさ』
それ以上問い詰めてもしょうが無さそうだ。たきなを信じる事にする。
大丈夫だ。私達はそんな簡単に道を違えたりしない。

『お前の行き先はそこの店長が知ってるよ。さっき伝えたからな』
「何」
バックミラー越しに先生の顔を見たが、先生は否定せずに語りだした。
「千束、車内でお前に伝えられなかったのは、シンジを人質にされていたからだが」
そう言って運転中にも関わらず一瞬顔をこちらに向けて言った。
「これはもうお前に伝えねばならないことだと、ずっと感じていたからでもある」
「先生」
「店で話した内容だ。ただそこに証人が増える」
証人。ここで言う証人と呼べる人物は、私自身と先生とあと一人だけだろう。
「テロリストの掌の上というのは腹立たしいがな」
『オイオイ。実際そこの赤いのはお前の言葉だけでは納得しなかった』
先生は特に何も言わない。思わず私が返事してしまう。
「違う。私は先生を信用してないんじゃない。確かめる必要が有るって思っただけ」
『いずれにせよお前には別の証拠が必要だったんだろ』
何だ、何を言っている。つまりそれは。
『会わせてやるよ。ヨシさんに』


- * -


分かっている。千束の判断は合理的なもので、私は真島の求めに応じる他ないことは。
でも私の身をもう少し案じる千束の姿を、自分は何となく期待していた。
欲しいおもちゃが手に入らなくて拗ねている子供のようだと、自分でも感じた。

『本当に一人で来たようだな』
そう店内に響いた声は片付けたはずのロボット・ロボリコから流れていた。
先の真島の声とは違う。多分ロボ太とかいうハッカーの声だ。
「当たり前でしょう」
『真島からお前のことは聞いている。あの赤いリコリスといつも一緒に居るヤツだと』
「そうでもありませんよ」

『まあ良い。簡単に言うとお前には、真島と共にあの赤いリコリスを倒してもらう』
あまりの荒唐無稽ぶりにロボリコを撃ってしまいそうになる。
ロボリコがリース契約な事や、店舗の原状回復費用が頭をかすめなければ撃っていた。
「言っている意味が分かりませんよ」
『アラン機関に関する話を聞けば間違いなくお前は応じる、と真島は言っていた』

先の提案が突飛すぎてむしろ落ち着いてきた。今はいずれにせよ話を聞くしか無い。
「では、聞かせてください。その話とやらを」


- * -


きっかけは些細な事だった。
あの吉松という男、および同一の個人と思われる人間の、渡航歴、滞在先、
行動可能範囲内の企業や研究機関、金の流れ、そういった膨大なデータを、
ラジアータに調べさせて居た所、とある組織との接点が浮かび上がる。
DAだ。いや、ミカとも親密であるし、元々仕事でのやり取りも有ったはずではある。

問題は、そうして接点を持ったDAの人間の一部が、現在足取りをつかめない事だった。
情報の上では、現在も世界のどこかで生活を営んでいるとデータ上では表示されている。
しかし、当該者のSNS、実際の生活の場の監視カメラ、近隣の店舗の商取引、
果ては納税記録、そういった情報からリアリティの有る個人が浮かび上がらない。

怪しい対象を数人に絞って、SNSの更新が不意に途絶えた時期や、
生活の拠点を変えたと思われる時期を洗い出し、その時期と前後して
吉松が取っていた行動を洗う。

主に化学、生物工学等の研究を行う、法人・研究施設へのアクセスが複数回確認できた。
これら施設についても、その母体が巧妙に偽装されているものの、
アラン機関との関わりが有ることも見えてきた。

これらDAの人間は吉松と関わった後、行方が追えなくなり、
その吉松はそれと前後して、化学や医学に関係の有る研究所に出入りした。

点と点を結んだだけの乱暴な推理。
根拠には乏しく、ボクの主観が入っていること甚だしい。
それでも、ディスプレイの向こうの人間に命を狙われてばかりの生活を送っていたボクには、
この吉松という人間の危険性が、ボクの根源的な所から伝わってきた。

何だ。何が起きている。
「どうかされましたか」
ふと監視役の情報部員に話しかけられ面食らってしまった。
「い、いや。なんでもないんだ。コーヒーとか有るかなって」
「ああそれでしたら。マシンの物であれば用意できます。持ってきますね」
そう言ってもう一人の情報部員に任せて離席してしまった。ありがたいが適当なヤツだな。

「じゃあ引き続きバックドアを探してるよ」
そう残された情報部員に告げて、今度は人工心臓から手がかりを探してみる。

そもそも、何故こんな心臓が有る。
気が向いたから作ってみました、という品ではないだろう。
最初から千束に使うものを作ったのか。それなら今なぜ千束を救おうとしない。

ミカによると、吉松が千束のために人工心臓を用意したのは十年前だったな。
今、先程繋いだ乱暴な推理にもう一つ点が乱暴に繋げられた。旧電波塔事件。
いや、いくら何でもこれは発想が飛躍しすぎだろう。
千束のためにテロリストを大量に殺害して心臓を調達するなど。

しかし、逆だったら。
吉松かもしくはアラン機関が、千束の殺し屋としての才覚を見出して、
その力を存分に活かせる心臓を用意、移植、その結果としてあの事件が起きた。
そういう線を切ってしまう論理はいくらでも有りそうだが、今の所上がっていない。
推測そのものが突飛すぎるからか、それともそれが真相をある程度反映しているのか。

それに、そうだとしたら千束の心臓が作られた経緯は。
不殺を貫いてきた彼女が既に生きながらにして、多くの業を背負っているとしたら。

急ぎ、たきなに確認したい。
正直言って、これは相談というよりも、膨れ上がってしまった疑念を、
彼女にも分かち合ってもらいたい、そういう気持ちから来るものである事を、
私も感じていた。

たきなの居場所を携帯電話から突き止める。リコリコ?
何故そんな場所にと思ったが、あそこならまだ使える連絡手段は有る。
ロボリコの合成音声を使おうとした所、既に誰かがロボリコにアクセスしていた。

嫌な予感がする。
これが、真島であったら。いや、恐らく他に考えられない。
ボクはミカと以前話した時から、吉松と真島が繋がっていると思っているが、
吉松の目的が真島のようなテロ行為だったら、
千束の心臓提供を条件にして、たきなを使う可能性だって有る。

「ちょっとお手洗いに行ってくる」
「はい。通路右手突き当りになります」情報部員は応じる。
部屋を出たと同時にダッシュして、多目的トイレに駆け込んだ。

ハッカーに気づかれても回線を遮断するしかない、
リコリコの電力をと考えた所で回線が使えるようになる。
急ぎ回線を使ってロボリコにアクセスし、スピーカーを使って直接呼びかける。

「たきな!」


- * -


私と先生を乗せた車は、真島に指定された、とある廃ビルにたどり着く。
まだ昼を過ぎた所だというのに中は薄暗い。

中を進んでいくと、より暗く、開けた空間に出た。
プロジェクターが白い画面を壁に照射している。
照射されている壁を背にして、ヨシさんが椅子に座らされており、傍らに真島が居た。
恐らく後ろから銃を突きつけているのだろうが、ヨシさんの表情からは緊張が読み取れない。

「よう。電波塔のリコリス」
「その呼び方やめてくんない」
「なんだっていいさ。お前の信用を勝ち取れるのはコイツだけみたいだしな」
そういってヨシさんを視線で示す。

「千束。ミカ」
「ヨシさん。大丈夫?今助けてあげるから」
そうは言ったものの、ヨシさんと真島の周りは障害物となるコンテナなどが多数置かれ、
一直線に飛び込むことは出来なそうだ。

「オイ。助けるもなにも、話を聞けば開放してやるよ」
「そんなデタラメを」
「現に今だってコイツは拘束してねえ。銃を向けてるのはお前を牽制するためだ」
「アンタ、眩しくないの。このままアンタの頭だけを撃つぐらいは出来るの」
「お前が撃つのが実弾でなければ、俺は倒れるまでにコイツを撃てるぜ」
そう言ってヨシさんを小突く。埒が明かない。怒りを抑えて訊く。
「話って何なの」
「それはヨシさんにしてもらうよ」
そう言ってヨシさんを立たせ、銃を向けて歩かせる。

「ヨシさん」
「千束、君はどこまで知っている」
「知っているって何について」
「アラン機関の働きについてだ」
「世界中の優れた才能を支援する、って」
「それだけか」
そう言って私の後ろに居る先生に目線を送る。

「ミカ。私がアラン機関の人間と、彼女に伝わった時点で言わなかったのか」
「全てを話すには時間が足りなすぎた」
そうか、といってヨシさんは続ける。

「優れた才能を支援する、その点はその通りだ」
「うん」
「その方法は多岐にわたる、教育、訓練、経済的な支援や身体的な物も」
「知ってるよ。私の心臓もそれで」
「千束」
そうヨシさんは遮って、不思議な事を私に問いかけた。

「千束、君はリコリスの先輩に会ったことは有るかな」
まるで天気の話のような口調でヨシさんは私に言った。

「それはどういう質問なの。ヨシさん」
「無いだろう」
「まだ私がファーストになりたての頃」
「そうか。その先輩とは今も交流が?」
「じゃあミズキは」
「彼女は DA の元情報部員に過ぎない」

秘匿されている元 DA の人間の出自を漏らしたかもしれない自分の迂闊ささえ、
今の私が感じる動揺の前では些末な物に感じられた。
脈打った事がない私の心臓が不意に拍動を始めたみたい。
多分私は、気づいてる。もしかしたら、ずっと、前から。

先生をふと見るが、先生もまた驚愕の表情をしていた。
「シンジ。お前まさか」
「そうだ」

「アラン機関は人間も資源として、より優れた才能を活かすため、」
私の喉からやめて、という声が漏れた。既に真島を狙った照準は定まっていない。
「その肉体、つまり臓器等も含め、循環させているんだ」

発砲音。先生が撃った。壁を撃ったが、誰にも当たっていない。
撃たずにいられなかったから撃った、でも誰を撃つべきか分からなかった。そんな感じだ。
「そうやって、リコリス達もその餌食にしたと言うのか」
「餌食とは穏やかじゃねえな」そう言って言葉を引き取ったのは真島だ。
「アラン機関の中では、凡俗の持ち物は全て、優秀な者を活かすために有効活用されるべき、って事だろ。
その血や骨、当然、心臓のような臓器も含めて。リコリスみたいな元孤児共はお誂え向きなんだろ」
真島の顔はそう言いながら、少なくとも私が見たこと無い程の怒りに満ちていた。

私は信じるものを何一つ見いだせず、縋るようにヨシさんに問いかける。
「嘘でしょ。そんな」
「その通りだ」
ヨシさんはこの空間内で、ただ一人冷静であったが、最も狂気を感じさせた。

──アラン機関の連中は純粋なんだ。俺達の殺しを肯定できるぐらいにな。
真島は以前そう言っていた。それが、こんな意味だなんて。

突然、壁に映像が照射される。
手術室のような場所。
まだ脈打ち続ける心臓に一見無造作にも見える手さばきでメスが入り、
単なる肉片にしか見えない箇所が切り出される。
即座に近くに有った何か、心臓っぽい器械に部品のようにはめ込まれる。
その部品を提供した体は無造作に開かれたままだが、
やがてその心臓の拍動が止まったのが見えた。
「あれは」と先生が言っていた。多分私に埋め込まれた、人工心臓なんだろう。

ヨシさんはさらに言う。
「心臓で言えば、取り出した物をそのまま使うわけではない」
「既存の心臓には合理的でない箇所も多く有り、
そういった箇所を生理・工学的に補強するために複数の心臓を組み合わせ、
機能を補強し、新たな心臓を作り上げる」
やめて。やめて。
「千束、君の心臓はそういった先達たちの遺した物だ」

映像がホワイトアウトして。再び白く壁を照らす。白いはずなのに心臓が見える。
思わずうずくまって、目と耳を塞いでしまう。撃たれたらどうするとか考えられない。
「この考え方が広く世間で受け入れられる物でないことはアラン機関も分かっている」
そういってヨシさんは続ける。
「なのでミカにも、人工心臓の開発経緯等は話してこなかった。しかも君はDAの人間だったしな」
「シンジ…」
「だがこのスキームはDAにとっても好都合だったようだ」
「何」
「考えてみろ、ミカ。日本人の平均寿命は八十を超える。
十八まで存在を隠匿されるような仕事に就いていた人間が、
その仕事を終えた途端、社会に難なく適合し、
それより前の来歴について語らずに秘密を守ったまま死ぬと思うか」
「リコリスの存在を隠すために、DAが彼女らを殺すのに加担したと言うのか」
先生が吠えるが、ヨシさんは肯定も否定もしない。
「率先して、とは言えないが、少なくとも上層部が気づいている節は有った」

「千束」
そうヨシさんに声をかけられる事を、こんなにも恐ろしく感じるなんて。
「君の失意はもっともだ。君らが社会通念上信じている道徳や倫理に照らせば、
私達のしていることはテロリストとなんら変わらないだろう。」
「だがしかし君もまた、リコリスとして社会で不要とされた人間どもを掃除することに加担してきた」
いや、私は誰も殺していない。クリーナーに。クリーナー?
「リコリスによって逮捕された人間も当然『循環』される事になる」

うずくまったまま、戻してしまった。
だって、だとしたら、私は今まで、ずっと、他のリコリス達と同じように。
いや、私がクリーナー送りにした人間の数は並大抵のリコリスの比ではない。
それに、私は心臓を移植された時からずっと、
誰かの犠牲の上にその生を繋いできた事になる。
もう何も信じられない。そんな。そんな。

真島がうんざりした様に言う。
「ヨシさんは、お前が新たな心臓を移植される手術を受け、俺を殺すと思ってるようだ」
何。どういう事。なんで。
「既に沢山殺してたんだからその上に、俺や俺の仲間の死体の山を積んでも変わらんということさ」
ヨシさんはそんな事。

「千束」ヨシさんが何かを言ってくれる。ヨシさん。
「君の心臓それ一つでさえ、多数の犠牲の上に成り立っている」
ぐっと息を呑んだ。
「確かに君は優秀なリコリスとして、多くの人間を殺してきたことになる。
だがそれによって救われた人間がどれだけ居ると思う。」
頭がぼうっとする。
「しかも君は、排除する対象となった人間からさえ、彼らが偶然授かった優れた肉体をも、
有効に活用するため尽力してきた」

やっと顔をあげると、ヨシさんが笑みすら浮かべながら言うのが見えた。
「君は既に、最強の殺し屋で、救世主だったんだ」


- * -


ロボ太とかいうハッカーが、ロボリコ経由で荒唐無稽な事を言い続けるので、
到底信用できない、証拠を見せろと言い続けた所、とある暗い空間内の映像が
店内のテレビに映し出された。見づらいが千束と店長、真島と吉松の姿が見える。
ハッカーがテレビを操作して、どこかの映像を見せているのだろう。

そこでなされた会話で言及された、
アラン機関に関して、千束の心臓に関しての情報は、
先にロボ太から聞いた内容に概ね沿っていた。
到底度し難く、信じ難い内容。千束はどうしている。
これは合成か。それにしては違和感がなさすぎる。千束に訊いてみないと。

そう思って携帯電話を手にした時、ロボリコの声が変わった。
『よう』
真島だ。テレビの映像が止まる。

「この悪趣味な映像には興味ありませんが、千束はどこです」
『お前が見てるのは十五分ほど前の映像なんだよ。続きはCMの後でってやつだ』
「ふざけんな!」
『良いぜ。このロボットくんをぶち壊し、アイツの携帯にかけながら、
映像の倉庫なり何なり街中探しまわってみろよ』
「何だと」
『見つけられた時はもう死体かもしれないが』

頭に昇った血が急速に下がる。
これは真島が千束を殺す、という意味ではないように感じられた。

『ロボ太から聞いているよな。共にあの赤いリコリスを倒してもらう』
「私は千束を殺したりしない」
『誰が殺すって言ったよ』
「どういう事」
『話は残りの映像を見てからだ』
そう言って通話は途切れてしまった。

残り十五分ほどと言っていた映像が始まった所で、またロボリコが話し出す。

『たきな!』
「…クルミ?」
怒涛の事態に混乱する。


- * -


『どういう事です。なぜクルミが』
「あー。色々有って今DA本部に居るんだ」ボクは応じた。
『何で!?』
「午前中、千束の心臓について電話しただろう」
『…ええ』
「気になることが有り、調べるのにDAの力がどうしても必要だったんだ」
『…千束の心臓が複数の他者から移植された物かどうか、とかですか』

言葉を繋ぐ事が出来なくなる。
だってそうだろう。既にそんな事まで真島から聞いているなんてどうして想像できる。
そして、たきなはそういうボクの反応を肯定と取ったようだった。

『…やはりそうなんですね。これは本当なんですね』
「いや、まだそうと決まっては」
『だったら!違う事を証明してください!何で、なんで』
そういうたきなの声には嗚咽が混じる。

こうなったからには、腹を決めるしか無い。
「たきな。言わなきゃならないことが有る」
『嫌です。聞きたくない』
「吉松が持っている心臓は諦めるんだ」
たきなの返事は無いが、押し殺した泣き声が聞こえる。

「何を諦めろと?」
今度こそ驚愕したし、もう助かる見込みは無いだろう。
トイレのドアが開き、楠木司令が入ってくる。

「たきな。ボクから伝えたい事は言った。じゃあな」
そう言ってジャックしていた通信を切る。

「たきなとはセカンドの井ノ上の事か」
楠木は尋ねてくる。随行してきた人間はここからは見えない。一人なのかもしれない。
「そうだ」
「ミズキとは違うと言ったが、こんなに雑な仕事ではミズキでも気づくのではないのか」
ずっと気づいていて放置した訳では無いかもしれないが、だいぶ前から気づいていた口ぶり。
「色々驚愕の事実が判明しましてね」

「そうか。ついて来い」
そう言って楠木はボクを連れて別の部屋に連れて行く。
やがてたどり着いたのは楠木の個室のようだ。
「説明しろ」楠木が言う。

「なんで。今から殺されるのに」
「その可能性は否定しない」
分かっていても、すぐに応じる事は出来ない。
楠木がどこまで把握していて、千束の人工心臓について関わっていたか分からないから。

「言わないなら、井ノ上に訊くしか無いが」
「わかった」
楠木に対する不信は、既にボクにとって「訊く」の意味その物さえ変容させていた。

ボクが吉松について調べた事を仔細に渡って報告した。
実際に見たデータ、根拠となる数字や記録、そういった物を改めて提示すると、
たきなも言っていた、千束の人工心臓に関する信じ難い来歴も、
ボクの中でますます真実味をおびてくる。

そしてこいつに対する不信はますます募るばかりだ。
楠木。こいつはどこまで関与している。
どこまで知っていた。


- * -


最後に楠木司令に会った時言っていた言葉を思い出す。
──多くのものがお前を優秀なリコリスにするために尽力したというのに、
ろくに役割を果たさずに死ぬんだな。

あの時は、泥棒呼ばわりした事に対する、
苦し紛れの当てこすりだとしか思わなかったけど、司令は知っていたの。
私達リコリスがいずれ摘まれる花と同じだったって。
収穫される作物や、出荷される牛や豚と変わらなかったって。

「ここまで聞いてどうよ」
真島がふと尋ねてくる。
「どうも、こうも。ない。こんな辛い気持ちが、好きで殺し屋やってるアンタなんかに」
「そう言われるのは心外だぜ」
「だってそうじゃない!」
ここにきて久しぶりに声を出せた気がする。
今、怒りか何かで心を支えないと、私は折れてしまう。

「…お前、リリベルに会ったこと有るだろ」
何だ突然。
「…有る」
「あれもリコリスと同じだ。俺は途中で気づいて逃げ出したがな」
言葉がまた継げなくなる。こいつが、リコリスと役割を同じくしたリリベルだと。

否定の言葉を探そうとするが、同時に納得も有る。
アラン機関を憎みつつ、非常に高い戦闘技術を持ち、
自分と同じくアラン機関の支援を受けて特殊な能力を持っている。
私はアラン機関を憎むとかは分からないけど、今まで言われたこと全てが真実なら、
もしかしたら、私はたきなやフキを思う気持ちから、真島と同じ道をたどるのでは。

「とりあえず俺は、この気持ち悪い空間からオサラバするわ」
「…待て!真島」
瞬間、真島が気味悪く微笑んだかと思うと、壁が暗転した。
しまった。ずっと明るい壁を見ていたせいで周りが全く見えない。

「多分次に会う時が最後だ。ヨシさんは返してやるよ」
暗闇から真島の声が聞こえる。
あまりの事に混乱して後ろに先生が居たことも忘れて撃ってしまう。
「残念。外れだ」「ぐっ!」
「先生!」
先生の呻き声がしたあたりの様子をうかがえる頃には、
周りが見えるようになったが真島はまたも逃げ去っていた。

「先生。ごめんなさい。私、どうしていいか分かんなくて」
「いいんだ。千束、私は、あんな事にずっと」
先生にその自覚がなかったとはいえ、既に深い後悔に沈んでいるようだった。

やっと気持ちが落ち着いた頃、携帯しているライトを点灯させる。
先生の怪我はあまりヒドいものではなさそうだ。
ヨシさんにもひどい怪我はないようだった。
怪我が無いことは確認できたが、私はなんとなく居心地が悪い。

真島の言ったことが、ヨシさんを脅迫して無理矢理言わせた可能性も有る、
さっきまではそう思っていたのに、実際に真島が居なくなってからも、
ヨシさんは言い訳めいた事を言わず、ただ淡々としていた。
その反応がむしろ、アラン機関やヨシさんに対する不信感を増強していく。

「ヨシさん」
「なんだい千束」
「ヨシさんの希望は何なの。私に、どうなってほしいの」
「最強の殺し屋として、生きてもらうことさ」

「シンジ…お前まだそんな事を」先生が痛みに耐えつつ言う。
「…そう」
私はがっかりしたような、それでいて空っぽにされた私自身に、
新たな私が注入されるような、不思議な気分になりながら言った。
「じゃあね。先生。…吉松さん」
何かを悟ったように、先生が言う。
「待て。千束、行くな」

立ち上がりながら、先生というより二人に向けて言う。
「ううん。私今まで、自分で決めてきた、って先生に言ったけど、多分そうじゃなかった」
「色んな人の考えとか、私が知らない事とか、全部が私を少しずつ、操縦してた」
「今、これだけはハッキリ自分で決めたい、っていう物が出来たの。だから」
さよなら、と言ってその場を離れる。

後ろから「千束!」と呼ぶ声がした。あれは先生だと思うけど、
吉松さんかもしれなかった。どっちでもいいか。別に二人が嫌いになったとかじゃない。
二人とも私の親だ。
でも今は、一人で行きたい。


- * -

『たきな。ボクから伝えたい事は言った。じゃあな』

そう言って、クルミからのロボリコを介した通話がいきなり切れたかと思ったら、
テレビで先程まで流れていた暗い空間の映像の続きが流れ出した。

クルミに何が有ったのか気になるが、
意識はどうしてもテレビの映像に向いてしまう。
映像で、真島がかつて千束から存在を聞いたリリベルだった事を知る。
そのまま映像が暗転したかと思うと発砲音が聞こえ、
やがて店長や吉松、千束の姿が薄暗く浮かび上がり、千束はどこかに行ってしまった。

『今、これだけはハッキリ自分で決めたい、っていう物が出来たの。だから』

そう言って走り去る千束、呼びかける店長、そこで映像は終わる。

状況の整理がつかないまま、ロボリコからの通話がまた始まった。
『黒いの。聞こえてるか』ロボ太のほうだ。
「…聞こえてる」

『見ての通り、赤いリコリスは逃走中だが、生存は確認できている』
『ラジアータを使える僕には、都内各所の監視カメラにアクセスするなんて造作もないのさ』
「そんな言い分を信用できるか!」

呆れたように、ロボ太が言う。
『であればどこかで野垂れ死んでいたとして、お前に何が出来る』
『繰り返しになるが、お前は僕の言いなりで動くしか無いのさ』
『お前からは赤いのは生死不明、死んでいる前提でやぶれかぶれに、僕を殺そうとしてもたどり着けない』
『生きている僅かな可能性にすがって、僕の言う通りにするしか無いんだ』

とっさに銃を取ってマガジンの弾を全部撃ち込んでしまった。
ロボリコは断末魔というにはシュールすぎる合成音声を流しながら、機能停止した。

「あーあ、高いんじゃねーのそれ。リース専用だろ」
真島の声と気づく頃には関節を極められて、組み伏せられていた。
「お前。ぐっ」
「一々うるせーんだよ。二度と引き金引けない手にしてやろうか」

「ロボ太の言い分にイラつくのは分かるが、俺らの要望は伝わっただろ」
「誰がお前なんかと組むか」
「なあ。映像ちゃんと見てたか。
ああまでされて、赤いのがヨシさんを慕う気持ちがまだ残ってると思うのかよ。お前」
私を諭すその口調にはどこか、同情めいた物が見え隠れした。
私の要領の悪さに対してか、千束の不憫さか、
自身が背負った運命に自分自身で同情してるのか、よく分からなかった。

「…殺せばいいだろ。私に出来ることなんてもう」
「赤いのが唯一まだ信じている物が有る。お前だ。黒いの」
「何を言って」
「お前が呼べばヤツは現れるって言ってるんだよ」
「呼んで何になる。場所は知ってるんだろ。見つけて勝負を挑むなりなんなり」

「違う」
真島が意外にハッキリと否定したので驚いた。そのまま真島が続ける。
「あいつを生け捕りにして、吉松とお前らの店長に手術させるんだよ」
「俺が勝負を挑んだ所で生け捕りに出来る確率は大して高くねえ。
だがお前が居れば、最悪でも人質役でもやってくれれば、やつはこの話に乗るだろう」

何を言い出すんだこいつは。
「俺はあいつがアラン機関やDAの言うことをこれからも聞いて、
おとなしく最期までリコリスやって死ぬなんて思ってない」
その点については現時点では同意できそうだ。
「いや、逆にあいつがとりあえず生きながらえれば、必ずアラン機関とDAをぶっ潰す」
「千束はそんな事」
「お前に分かる事なんて一部の一部の一部だけなんだよ」
そう言ってより強く極めてくるため声が漏れるが、
少し見える真島の顔もどこか悲しげだった。

「仮に、俺の言っている事が間違っていて、
あいつが俺を仕留めたとしてもお前は困らねえだろ。」
さらに真島は続ける。
「黙って赤いのを呼べ。黒いの」

「千束を捕まえたとして、吉松や店長はどうするんだ」
「吉松は赤いのが崇高な思想に殉ずるって信じてるのさ、自分と同じようにな。
店長とかいう男だって赤いのは大事なはずだ。俺に脅されたという大義名分が有れば」
「喜んで飛びつくだろう」

いくつもの仮定に仮定を重ねた、砂上の楼閣としか言えない理論。
しかし、ここで真島に殺されるにしても、起死回生の一発を入れて真島を殺すにしても、
千束を助けることは出来ないだろう。

脅されたという大義名分が有ればそれに縋ると真島は言ったが、
その点については納得できそうだった。今の私がそうだからだ。
そしてそうやって縋ることで、店長も、吉松も同じように縋ってくれるのではないか、
という甘い夢を私は見た。

「…いいだろう」
「交渉成立だな」そう言って真島は手を緩める。
「ただし。一発、殴らせろ」
それに真島は応えなかったが、避けることも流すことも出来そうな私の拳を、
そのまま右頬に受けてロボリコの残骸に突っ込んだ。

「…痛えな。少しは手加減しろよ」
「あんたは最後に殺す。首根っこ掴んで、崖下に放り投げてやる」
「お前も観たのかよあの映画」
「…千束が観てたから」

プッと真島は吹き出す。
「お前、本当に赤いのがお気に入りなんだな」
「…うるさい。支度してくる。十分待っていろ」
「まあ過去のことは水に流して仲良くやろうぜ」
「お断りだ」

真島が倒れ込んだ衝撃でロボリコの回路が変なふうに繋がったのか、
ロボリコから合成音声が漏れた。
「…ナ、ナ、ナガシテオキマス」
そうしてまた機能停止するが、真島の耳障りな笑い声が店内に響く。
「…クソが」


- * -


「…それで以上か」
「そうだ」
吉松、アラン機関、人工心臓それらについて知った事、
調べ上げた結果から推測される事、洗いざらい話した。

そこまで知られたからには仕方ない、と続くものと思っていたが、
楠木司令はふと手元のPCを操作して言った。
「お聞きのとおりです。虎杖総司令」

さらに操作して音声がボクにも聞こえるようにする。
『つまりどういう事だね。楠木くん』
「情報部が身柄を抑えたハッカーが行ったハッキング操作によって、
新たに発覚した事案に関して報告申し上げました」
『先程の、アラン機関および臓器の取引の件かね』
「はい」

何だ。何を話しているのだ。
『君はそれらの事柄について、大分昔から知っていたはずではないのかね』
「いいえ。お恥ずかしい限りですが、全く関知しておりませんでした」
『そんな言い分が通用すると』

「お言葉ですが閣下、DAにおいては全ての情報が厳格な権限管理の元、
運用されています」
続けて楠木は言った。
「今回ハッカーが詳らかにした事案に関しては、
私の持つ権限を超越した領域で保存される物が多分に含まれており、
私は認識しておりませんでした」

『戯言を』
「仮に、私が知っていたとすれば、権限管理を担う総司令も責任を問われるのでは」
こいつは私に全ての責任をなすりつけ、情報だけかっさらうつもりか。なんという狸だ。

ボクもすかさず口をはさもうとするが、マイクは楠木が話すときしかオンにならず、
今カメラにボクは映らない。ふと「失礼」と楠木が立ち上がり、近づいてきた。

楠木は傍らに近づいて耳打ちのようにして言った。
「余計な事を話せば、錦木も井ノ上も、死ぬ」
単純な言葉だったが、私が最も恐れる事を的確に言ってのけた。
あながち、嘘ではないだろう。楠木を弾劾すればボクの処刑は免れないし、
後任がわざわざ千束やたきなを気にかける理由がない。

そういった理由が無いのは、楠木も同じかもしれないが、何となく違う気がした。

『何事かね』
「申し訳ありません。急ぎ判断を仰がれまして」
『君がどういうつもりかは知らないが』
続けて虎杖とかいう男が言った。
『そういった態度を取っていればじきに足元を掬われるぞ』
「後には軍事査問会でも軍法会議でもかかりましょう」
『よかろう。なら好きにしたまえ』
そう相手が言って、通信が終わったようだ。

「待たせたな」楠木司令が言う。
「今は、私しか聞いていない」
よくわからないが、信用できる言葉に思えた。
「最初から、ボクを泳がせるつもりだったんだな」
その言葉には反応せず、視線をボクに合わせてくるだけだった。
「ついでに聞いておきたいが、お前じゃないのか。ボクにハッキングを依頼したのは」

そう、こいつが依頼してきたのだとすれば、辻褄が合う事が多く有るのだ。
虎杖というやつの言うとおり、アラン機関に関する後ろ暗い事を楠木が知っていたとすれば、
リコリスの司令官として当然対処したいだろう。

しかし残念なことに、アラン機関に関して決定的な証拠を掴むことが出来ず、
真島のテロ計画を、日時間違いというミスによって見逃そうとしたのではないか。
ただそうすると、目の前の狸は、民間人に死傷者が出てもリコリスを守ろうとする、
ある種の狂人ともいえる存在という事になる。

だが一方でそういう狂人だったとしたら、
「たきなを、千束の下に付けたのは、『支援対象への接触を禁ずる』という、
アラン機関のルールによってたきなが間接的に守られるようにするためだったのか」
彼女の目が怪しく光ったようにも感じられたが、私には分からない。
たきなが京都から転属される事になった経緯等を洗えば、不自然な点が浮き上がってくるのだろうか。
たきながアラン機関の毒牙にかけられる所だったという何かが。

「でもあんな風に対処して大丈夫なのか。下手したらお前が消されるのでは」
「あの虎杖総司令はかつてリリベルの司令を務めていた男だ」
リリベル、確か男の子のリコリスとか千束が言っていたやつか。
言外に、リリベルもリコリス同様の目に有ったことが有ること、
彼もまたそういった過去を後悔している節が有ることを匂わせるが、分からない。

分からない。分からない。分からない事だらけだ。
ここは権謀術数がめぐらされた伏魔殿か。

ボク自身、身の安全が保証されているとは言い難いのに思わず漏らしてしまう。
「とんだ狸共の巣だ」
楠木は少し笑ったようにも見えるが、散った兵どもを悼む表情がふとのぞいた。

やがて、参謀と思しき人間が作戦計画の立案書を持ってきた。
楠木が目を通しているが、先程提示した証拠で行えるのはせいぜいが
吉松シンジの逮捕程度だろう。
アラン機関の切れるしっぽに過ぎないが、今はほんの少しの前進も喜ぶべきだ。

「この作戦については承認していないが」
「虎杖総司令が決裁されました」
なんだろう。楠木を見ると任務名をわざわざ読み上げた。
「『錦木千束の拘束もしくは殺害』か」
「馬鹿な!」
「作戦立案・ラジアータ」
楠木が苦虫を噛み潰した顔になる。


- * -


一人で歩いていると遠くから声が聞こえた。
「リコリスだ」「ここに居たぞ」
逃げるのも面倒で拳銃を持っている、そいつらに近づいていく。
真島がばら撒いたとか言ってたやつかな、あれ。

「動くんじゃねえ」
そういってブレブレの銃身を私に向ける男のチンピラ共が三人。
「止まれって言ってんだよ!」

やがて、銃口が写る私の瞳が、相手にもしっかりと見えるぐらいの距離まで近づいたが、
撃ってこない。撃ったことがないのだ。リコリスに遭遇したのさえ初めてだろう。

私は、正面に立つ男の銃のスライドを優しく握り、一センチ程相手側に押してやる。
他の二人は構えもせずに棒立ちでその様を見ている。
なけなしの気持ちを奮い立たせ、トリガーを引く指の筋肉が動くのが私には見えるが、
この銃は、こうするとチェンバーが微妙に空いて発射できなくなる。

「何やってんだよ!」
そう言って右手に見える奴が銃を抜いた。私に銃口をしっかと向け、引き金を引く。
いいね。アンタ。チンピラの才能有るよ。

次の瞬間には発砲音がしたが、無傷の私を見、
絶望と、殺さずに済んだ安心感がないまぜになった、興味深い表情を見せてくれた。
「でも殺し屋の才能は無いね」
「何を言って」
銃を回収せねばならないのでとりあえず蹴り飛ばして一丁回収。
楠木さんも撃つなって言ってたし。

左手の男は既に逃げ出していたが、正面に立つ男を捻り上げてもう一丁回収した後、
走って追うと難なく追いついた。
「はい回収」
そう言って後ろから服を引き、慌てて重心を後ろにして転ぶのを避けようとする所に、
足を払ってそのまま転ばせてやった。服の中に隠していた銃も回収する。

先の二人は既に逃げており、残ったそいつも、私を見て逃げてしまった。
周りを見ると、先の発砲音で何かを察知したのか、物陰から私を見る視線をいくつも感じた。
その見え隠れする視線からはほんの少しの好奇心と、残りを満たす畏怖する気持ちが感じられた。

何やってるんだろう私。

生まれたと思ったら、親は居なくて。
ちょっと銃を使うのが得意だって分かったら、心臓がダメになりそうで。
心臓移植してもらえたと思ったら、それはそれは恐ろしい物で。
人殺しをしてないと思ったら、誰よりも人を殺す最高の殺し屋で。
人助けをしてきたと思ったら、誰からも蔑まれるような事になって。
楠木司令を、先生を、吉松さんを、信じてきたと思ったら、よく分からないことになって。

何なら信じることができる。
何でも良い、誰でも良い、教えてよ私に。

ヴーと携帯が振動する。
画面に表示された名前を見て、心が少し和らぐ。
「たきな…」

バイブレーションの回数を数える。一…二…三…。
このまま取らないでいたら、たきなが助けに来てくれるような気がした。
振動は途切れずに回数を重ねる。
意外に考える事が乙女っぽいと自分に呆れながら取った。

「はい」
「千束?千束ですか。大丈夫なんですか」
「たきな。ありがとう。大丈夫だよ。私、大丈夫」

不意に会話が途切れ、たきなが言う。
「千束。私、真島に捕まりました。助けに来てほしいです」
思わず笑いが漏れそうになるが応じた。
「そっか。どこに行けば良い?」
「前に行った公園。午後六時でお願いします」
「分かった。分かった。真島に変わってくれる?」
すぐに真島は出た。
「よう。電波塔のリコリス」
「…面白い奴だ、気に入った。殺すのは最後にしてやる」
「その約束最後に破られるやつだろ」
私から通話を切った。

不思議だな。さっきまであんなに沈んでいたのに、
今はたきなを助けたい気持ちがどんどん高まっていく感じ。

でもね真島、たきなは例え演技でもそんな事言ってくれる子じゃないんだよ。
どんな風にそんな事言わせたのか知らないけど、落とし前はつけてもらうから。

一度リコリコに戻って態勢を整えてから出発しようと思い、
立ち寄ったが無残な姿のロボリコに愕然としてしまう。
しかしその弾痕が真島の銃の物でなくて、
DAで使う銃と同じ口径による物である事に気づくと、
たきなが元気で居てくれる事がなんとなく分かり、少し嬉しくもなった。
「先生明日は不動産屋に行くって言ってたんだぞ。たきな」

武器庫を覗くと実弾のマガジンがごっそり減っていた。
悲しい気持ちが有るが、少し楽しみな気持ちが有ることを否定できない。
やはり、私は、殺し屋なのだろうか。

さっきみたいなやつに因縁付けられるのが面倒だし、
原付で行こうと思っていたので制服が隠れて防寒になるケープを探したが、無い。
時間もないので、とりあえずいつもの制服姿で出発する。

到着予定は午後六時十五分前だ。
おじゃま虫がいるけどデートのマナー違反にはならないだろう。

公園に着き、原付を駐車して、公園内を歩いていく。
まあ多分あそこだろうということで、二人で雪を見た丘に向かった。

警戒しながら行ったが、真島もたきなも見当たらず、
肩透かしを食らった気分だ。
やがて、時間きっかりに、丘の階段の下方から、足音が聞こえてきた。

「電波塔の。出てこいよ」
階段の下に居るため、姿は見えないが真島と分かる。
「たきなはー」
「私も居ます」

足取り軽く、階段の方に向かう。
やがて見えるは、真島とたきな。
真島は何か重そうな鞄を持っている。十年前に見たこと有る鞄。
真島の後ろにたきながいる。
ねえたきな、それだとたきなが真島を人質にしてるみたいだよ。

馬鹿な想像だが、意外に当たっているような気もした。
真島は私の命に関心がない。アラン機関とDAの破壊だけだ。
むしろ私の命に関心が有る変わり者はたきなだけかもしれない。
この世界で、たきなだけ。

そんなたきなの装いは、いつもと少し違っていた。
リコリスの制服を着ていると思われるが、その上に見覚えの有る黄色い長いケープ。

優秀な戦士見習いが、母親を殺され、師匠に疑われ、
最終的に恋人を守ろうとして闇落ちしちゃう有名な宇宙戦争映画が有ったな。
夕闇に包まれた公園内の電灯が私達を心もとなく照らす、ケープも暗く見える。
そしてあの綺麗な黒髪は今、彼女の顔を暗く隠すよう。
まるであの映画で、ダークサイドに落ちた人達が、
申し合わせたように着ている長い黒いローブ姿を思い起こさせる。

「『弟だと思っていた。愛していた』ってか」
私は銃を構える。
照星の向こうにとらえるたきなの姿がぼやける。傍らの真島との境界が闇に融ける。


- * -


千束が見える。

その目はどこか悲しげな色をたたえ、今にも零れ落ちそうだ。
もしかしたら、私も同じような目をしているのかもしれない。

だが千束の声はいつものように響いた。
「やっほー、たきな。そのケープ私の?」
「千束」

階段を降りて近づいてこようとする千束に私は言った。
「止まってください」
階段の中腹で千束が立ち止まる。

「千束、心臓の交換手術を受けてください」
「嫌だ」
「千束」
「たきな、何言ってんの。そこのカレシにでも唆された?」
「千束、そういう冗談は止めてください」
思わず撃ってしまいそうになる。説得できなければそうするしかないが、
それは最後の手段だ。

「俺も自分の半分程度しか生きてねえガキに興味ねえよ」
「へー、真島さん、たきなを小学生だと思ってるのかな」
「そうじゃねえ」
「分かってるよ」
「やめなさいよ!」
夜の公園に銃声が響いた。思わず撃ってしまった。
しかし狙っていた千束が立つ階段の段、十センチ下から着弾の白煙が上がる。
修正は不要。ちゃんと、狙えてる。これなら、千束を、撃てる。

「たきな、いきなり撃っちゃ危ないよ」
「千束、もう一度言います。心臓を」
「嫌」
先程の繰り返しになる。違った切り口で千束を攻める事にした。

「千束、さっきの私の射撃、避けることが出来そうでしたか?」
瞬間、千束の眼が赤く光ったように見えた。引かず続けて畳み掛ける。
「ケープを被った、私の射撃を察知して避けることが出来そうですか。
加えて、そこから私と真島を撃つ事が出来ますか」

千束の能力は、卓越した動体視力と反射神経によって、
銃口の位置と向き、引き金を引く人間の筋肉の動きを知覚し、
着弾する場所とタイミングを察知するというものだ。

しかし千束を撃つ人間が、ケープのような物を被り、
腕を伸ばさず胸近くに銃を持って引き金を引けば、
引き金を引く筋肉の動き、銃口の位置と向きが隠せてしまうはずだ。

それでも千束であれば大抵の戦闘員を圧倒できるかもしれないが、
リコリス相手ではそれも難しいだろう。

それに今彼女を狙う銃は私と真島の二つ。
千束が有効射程外からダメ元で私達を撃ち、いずれかを戦闘不能に出来ても、
残された一方が千束を撃つ。
距離を詰めても、階段の上に退いても、私か真島いずれかが彼女を撃つ。

私は可能な限り彼女の銃を撃つが、真島は分からない。
しかし千束の殺し屋としての復活を希望しているなら、撃てる場所はそんなに多くない。

「たきな、中々やるようになったね」
そう言って銃を持った掌をこちらに向け、
トリガーから指を放し、マガジンをリリースする。
降参するつもりだ。

「千束」
私が思わず歩み寄ろうとするのを、真島が制する。
「真島。何を」
「アイツから目を離すんじゃねえ」

「でも私は引けないから」
そう言って千束は別のマガジンを取り出し、装填した。
続いてスライドを引き、既にチェンバーに装填されていた一発の非殺傷弾が、
地面に落ちる。キンという音が異様に響いて聞こえた。

彼女の眼は赤く、暗く光っていた。まるで月を見上げる彼岸花のよう。
「千束」

乾いた音が公園に鳴り響き、自分の足元十センチ下で白煙が上がった。
ずっと聞いていた、非殺傷弾の少しだけ曇った発砲音ではない、重くも鋭い音。

「たきなを撃って行く事にするよ」


- * -


「これは、どういう事だ」
吉松シンジは都内某廃ビル周辺で目撃された後、
黒人の男と共に行方しれずとなっていた。おそらくミカだ。

私が言っているのは二人の行方についてでなく、
並行して進められた、錦木千束の拘束もしくは抹殺という作戦についてだ。
折衝役を担ったドローンが、原付で移動中の千束を追跡し、たどり着いた公園で
真島とたきな、千束が行っていたやり取りについてだった。

ドローンは比較的遠方から千束達を撮影していた。
「千束が言ったとおりの意味ではないのか」
「そんなはずが有るか!」
千束がたきなを撃つ、そんな事が有るか。有ってたまるか。
ミズキもまた固唾をのんで見守っていた。

千束達を撮影していたドローンの映像が乱れ、
千束がこちらに手を掲げた画像が表示されたまま止まってしまった。
撃った、のか?
「見通しで五十メートルは離れていた。千束が撃ったのは実弾だな」
楠木が静かに言う。なんで、どうして。
「別のドローンを複数急行させよ。急げ」
「了解」傍らのリコリスが応じる。

現場の公園で配置についているリコリスに対し、楠木は冷静に確認を取った。
「現場の配置完了予定は後どれぐらいかかる」
「チーム・アルファ。五分ください」
「チーム・アルファ。こちら本部。了解した」

さらに別のチームにも確認を取る。
「チーム・デルタ。配置に付きました」
「チーム・デルタ。こちら本部。了解」
呆然とした頭で何となくメインのディスプレイに表示された地図に目を向けた。
チーム・デルタは他のチームから離れ、
千束達から三百メートル程度離れた山の手に配置していた。

瞬間頭に血が昇り、楠木に掴みかかった。
「これはスナイパーじゃないのか」
「作戦内容についてはコメント出来ない」
「ふざけるな!」
刹那体が浮き、背中から床に叩きつけられた。
声にならない声が口から漏れる。楠木が私を投げたと気づくのに時間がかかった。

倒されたボクに、楠木は語りかける。
「ふざけているのはお前の方ではないのか。ウォールナット」
「な、にを」息がうまく出来ない。
「私達は平和を脅かす存在を消し去るために存在している」
「ちさとは、そんなんじゃ」

楠木が一旦退いて、椅子に体を預けながら言った。
「千束は、リコリスだ」
やっと呼吸が整ってきた。楠木に聞き返す。
「何だって?」
「ラジアータが危険とみなした存在を真っ先に消す我々が、
自身が標的にされた途端に逃れる事が、まかり通ると思うのか」
ピシリと、体がこわばった。

それでも、とりあえず口を開く。
「それは、確かに懸念される事では有るが」
「その懸念、というのはラジアータのミスによって、
千束の危険さが過大評価されている、と言う事で合っているか」
「そうだ」
「あるいはその評価に問題が無かったとしても、
抹殺という結論が最適でない可能性が、無視できないほど高い、と」
「そうだ」
「それらの検定を今行う理由は何だ」
楠木がボクを見据えて問いかける。

その眼に腹を押さえられたかようにして声を絞り出す。
「だから、千束は」
「確かに、彼女はかけがえのないリコリスだ」
ボクがハッと顔を上げ、何を言うのかと思っている所に、
楠木は氷のような言葉をつなぐ。
「今日、延空木で散華した者たちがそうであったようにな」
ボクも周りの者達も思わず息を呑んだ。
リコリス達のかすかな泣き声さえ聞こえたかもしれない。

「今日だけでなく、先日の駅内での機銃掃射、銃取引事件に係る一連の作戦、
それこそ十年前のあの日からずっと、私達は」
楠木の身振りは決して大げさでなく座ったまま、
ただボクを諭すように語りかけるだけなのに、ボクたちの耳目を奪う。

「時に命を奪う力を行使する代わりに、同様に自身の命が奪われる事を覚悟している」

お前、ラジアータの信頼性のために、千束に死ねっていうのか。
さっきまで、お前が命令違反覚悟で助けようとしたリコリスの一人を。


- * -


目障りなドローンを手始めに落としてやった。覗き見なんて本当に悪趣味。

たきな、私に出来ることはもうそんなに多くないから、全部終わらせてあげる。
たきながどれだけ望んでも、それが決して叶わないように、
私がどれだけ悔いても、取り返しがつかないように。

ドローンを撃って、そんな事を考えていたら、
たきなと真島さんは木の向こうに隠れてしまった。
態勢を整えているのだろうか。私も二発撃っただけだがマガジンを替えてしまおう。

木の向こうに私は語りかける。照準は合わせたまま。
「たきな、出ておいでよ。お姉さんが色々教えてあげる」
「結構です。千束、黙って撃たれてください。すぐに済みますから」
私は弾が込もったマガジンを片手に持ち、
「ふふ、なんかそれエロいよ、たきな」
銃のマガジンを抜いて落とさぬよう手に取る。
「注射はキライって言ったよね」
続いて持っていたマガジンを装填した。

真島さんが言った。
「随分余裕じゃねえの」
「真島さんこそその鞄重くないんですかー?」
真島さんは木の向こうからこちらを見ずに発砲する。良い腕だな。

「お前の旅行鞄だよ。さっさと投降すればヨシさんにまた会えるぜ」
「もういいよ。それは」
大分声が小さかったが、聞こえなくても伝わっているだろう。

「千束、なんでですか!心臓を交換すれば生きられる。そうでしょう」
「そうかもしんないし、そうじゃないかもしんない」
「だったら」
「たきなには関係の無いことなんだよ!」
これで引いてくれないかな。

「あなた言いましたよね。私が来て嬉しいって」引いてくれない。
「それが何。言ったけど」
「嬉しいって一秒でも長く感じるために生きてちゃダメなんですか」
「ダメ。みんなは良いけど、私は」
「その心臓が、沢山の犠牲の上に成り立っているからですか」
脈打たない心臓も止まったように感じた。

たきなは、人工心臓の事を知ってるの。
真島と居るから教えられたって事なの。
その上で、その心臓をまた使って生き続けろって、そう言うの。
その心臓で生きて、パフェとか食ってろって。

思わず叫んでしまった。
「ふざけんな!」
怒涛のように言葉が流れていく。
「私は今まで誰も犠牲にしてないし、これからもしないって思ってた」
「なのにずっとずっと昔から、そんなのは嘘で、私は沢山の人を死なせてきた」
「嫌だって言ってるじゃない!何で、みんなそんなに、私に人を殺してほしいの」

しんと、一瞬静かになるが、たきなはあくまで折れない。
「千束、私達にとって、人殺しは目的でなく手段です」
「何さ急に」
「私達リコリスは昔から、平和を脅かす存在を消してきた」
「私は違うよ」
「違わなかったじゃない!」
何かが近くに落ちた。グレネード(手榴弾)。真島。

際どいタイミングだったようで、飛び退いて避けたが少し爆風をもらってしまった。
下から「死んだらどうする」だの「金属弾は抜いてあるから大丈夫だ」だの聞こえる。
咳き込んでいると、たきなと真島が上まで昇ってきた。

私は転んでいて、すぐに銃を抜くことが出来ない。
「ほら死んでねえだろ」
「真島、後で殺します。絶対」
「好きにしろよ」そう言って真島は銃をこちらに向ける。
たきな、鞄抱えてきちゃって。あんな禍々しい物を。

やがて、たきなも銃を再度手に取って言った。
「千束がやってきた殺人が有ったとしても、それは日本の平和維持に貢献してます」
続けて言う。
「リコリスがやっているのは、平和維持のための殺人です。
リコリス達が好き好んで人を殺して、平和がたまたま維持されてる訳じゃない」
「私は私個人の幸せのため、千束に生きろって言ってるんじゃないです。自惚れないで」
たきなが最後に言った事が意外に堪えてしまう。
みんなそうだったように、たきなもそう思うの。

瞬間、一陣の風が桜の花を散らす。この時を、待っていた。
「リコリスには平和維持のための殺人が認められてるっていうなら」
実弾が装填された銃で狙いを定める。風に持ち上げられて見えた、たきなの銃口。

「私を撃って証明してよ!」

乾いた銃声が二発、響いた。


- * -


千束、私は一年近くあなたとバディをやってきました。

今にして思えばこの長いケープも、
西部劇の早打ちガンマンのような腰高のポジションも、
そういうスタイルで攻撃してくる敵の研究から来たものだったのではないですか。

ふざけているようでいて、実は誰よりも冷徹に実践に臨む、
それが千束、あなたなんですね。

──だから、知っていました。

あなたが機を逃さないことを。
風がケープを持ち上げれば、私の銃を撃つことを。

あの瞬間、千束の銃は正確に私の右手の銃を持っていきました。
でも、あなたは気づかなかったでしょう。私が左手にも銃を持っていたことを。
当然射撃タイムは遅れますが、それなりに自身は有るのですよ。

さらに左手に持った銃に装填されているのは千束の非殺傷弾。
多少狙いを外しても、致命傷にはなりません。

でも、実弾でも大丈夫でしたね。
私の左手の射撃は、千束の銃を弾き飛ばした。

撃って証明しろと言っていましたが、納得いただけましたか──千束。

銃を吹っ飛ばされた千束が言った。いつもより少し気取った感じ。
「ねえ、たきな、リコリスをやってるなら」
「千束、お姉さん気取りも大概にしてください」
「周りも見てないとダメだよ」
「分かっていますよ」

「終わりだ」
真島がそう言った。あくまで千束を撃つつもりか。
「真島、千束はもう戦う意志を見せていない」
「終わりだ。黒いの」
真島は私を見ている。睨むように、どこか憐れむように。

一瞬、心地よい夢から目覚めさせられるような、
現実と非現実の間を掴みそこねるような感覚にとらわれた。
何だ、何かを間違えた?何がおかしい?

あたりを改めて見回す。
千束、真島、鞄、桜の木、公園の階段、鞄、穴、私の銃、
真島の脚、穴の空いた鞄、千束の口、穴の空いた鞄、千束の目、千束の涙。

鞄の中心には穴が空き、どくどくと、人工臓器保存用の薬品か何かだろうか、
薄い血のような桃色の液体が漏れ出ていた。まるで鞄が鼓動しているかのよう。
やがて液体の流出、鞄の拍動が終わり、私達を沈黙が包んだ。

──あの時聞こえた、二発の銃声。
あれは私と、千束の別の発砲音ではなかった。

私が実践しろと言われたら、数万回に一度だって成功しないだろうが、
千束は私の右手の銃口を見て「その中に向けて」一発の実弾を撃ち込んだ。
これによって私の右手の銃は銃身が完全に塞がれ、一発も発射されなかった。

千束が撃ったもう一発は寸分違わず、
人工心臓が格納された鞄の真ん中を撃ち抜いていた──。

「これが、ファーストリコリス錦木千束の力ってわけか」
真島は、その発砲音が同じであった事から全てをいち早く悟ったのかもしれない。

私は恐る恐る、鞄を手に取る。
そうして、既に歪んだ事で機能しなくなった錠前を難なく外し、
中の人工心臓が素人目にも完全に破壊されてるのを目にした。

ひっという声を漏らして、私は膝から崩れ落ちる。
何も見えなくて、何も見たくなくて、手で顔を覆う。

- * -


ボクは固唾をのんで、悲痛この上ない状況を確認するが、
まだ人工心臓のつては有るのではないか、という方向に思考が向いてしまう。
やめよう。あれは、元々有ることを期待すべきものじゃない。

やがてスナイパーから確認の無線が入る。
『本部。指示を乞う』
多分フキというリコリスだ。観測手をサクラと呼んでいる。

「チーム・デルタ。指示を待て」
そう楠木は言うが、その声に諦念が滲んでいた。
何に対する物だ。任務の成功か、千束の命か。

『デルタ・ツーより本部。サーマルスコープにアンノウン』
観測手のサクラというリコリスだろう。公園は現在閉鎖されていて、
互いのリコリスの位置も把握しているため、認識していない影を確認したと報告してきた。
「デルタ・ツー。映像を送れ」
「了解」

そうして送られてくる映像には、人間と思しき赤い影が二つ、見えた。
「デルタ・ワン。何か見えるか」楠木がフキに連絡する。
『デルタ・ワン。確認できません』
いったい何事だと思うが、フキは続けて言う。

『本部。これは推測でしかありませんが』
『あれは先生だと思います』
そう言って報告を入れるフキの声は若干上ずっているように聞こえた。
ミカ?馬鹿な。そんな事が。

『本部。指示を乞う』
フキの声はどこか不安そうだ。
サーマルで確認できるライフルや、サプレッサーの形か、射撃姿勢か、
あるいはスナイパーの直感なのかわからないが、
彼女がそう言うならそうなのだ、という空気が充満していた。

「デルタ・ワン。アンノウンを撃て」
『──ッ!了解』
『デルタ・ツー。了解。目標、入り口道路より十メートル右方の茂み』
『先輩、ギブミー・リーディング』
『…一・五ミル』
『一・五ミル。四百四十五ヤード』
着々と作業のように観測手とスナイパーのやり取りが流れてくる。
『スポッター・イズ・レディ。シューター・レディ。ホールド・センター』
というサクラの声が聞こえ、続いて
『センド』
という声が聞こえたかと思うと同時に爆発音と悲鳴が聞こえる。

夕闇の中の狙撃にしては騒がしいと思ったが、楠木の
「状況を報告しろ!」
という声で異常事態を知る。

『──被弾しました』
ミカが撃ったというのか。リコリスを。
「負傷者は」
『先輩──』
サクラの声が聞こえる。

一瞬最悪な想像が頭をよぎるが、やがてフキの声も聞こえた。
『本部。デルタ・ワン。右手を負傷』
「撃たれたのか」
『はい。ですが、これは』
そういって現場の映像が写る。
フキが持っているライフルは、その砲身が花の様に放射状に開いていた。
これは。砲身の内部を撃ったのか。

ちょうど先程の千束とたきなの撃ち合いについて、
楠木が解説をしていた。殺すつもりで、図らずも同じ事をやったのか、
あるいはミカが千束のやり方を見て攻め手を変えたのか。
もし後者だったら、千束、お前はやはりいろんな人を助けている事になる。

『チーム・デルタ。撤退します』
『了解』


- * -


たきなは禍々しい人工心臓だった物の入った鞄をかき抱いて泣いている。
真島は最初、信じられないことに残念そうな、痛ましい表情を私に向けていたのだが、
かつての仲間のリリベルと同じ様に、私の運命を割り切ったように佇んていた。

夕闇に不釣り合いな、ターンという音が聞こえ、
スナイパーだと分かった私と真島は即座に物陰に飛び込んだ。

たきなはリコリスとして信じられないことに、その場に泣き崩れたままだったので、
私が無理矢理物陰に引っ張り込んだ。

絶対に撃たれると思ったのに、誰にも当たっていないのに、
続いての射撃が全く無かった。一体何事だろう。
「お前でなければ、俺を撃つつもりだろ」と真島は言っていたが、
そういう気配も無くなってしまった。

たきなはようやく、泣き続けることを諦めたかのように、
私のことをじっと見てくれた。
「千束」
「ごめんね」
バカ、バカと言って私を叩くが、胸の近くには拳を当てないでいる。

「DAとアラン機関は俺一人でやるしかねーか」
「真島。アンタもやめちゃえば」
「バカ言えよ」
「それに、案外それを望んでるのはヨシさんかもしれねーぞ」
なんでそんな事を思うのかきくが、真島は答えない。

「たきな、とりあえず帰ろう」
「…はい」
出来ることがそんなに多くないって、分かってても、まだ出来ることは有るし、
出来る限りやればいい、そう考えて私は、立ち上がる事が出来なかった。


- * -


ふっという声が漏れて、私は自分の呼吸さえままならない、と思ったが
「オイ!」
と言った真島に支えられる声の主をとっさに見た。千束。

千束の手を取る。
「ごめんね。たきな。そういう顔させるって分かってたのに」
「いいえ、いいえ!千束」
「ふふっ、ありがとう」
真島から思いの外優しく、千束の体を引き渡される。温かい。こんなに温かいのに。

真島はすっくと立って、離れていく。
「もう俺がやる事はねーから、オサラバするわ。じゃーなリコリス共」
「待って。そんな」
「何だよ」
「AED とか…」
「馬鹿じゃねーの」
あまりの怒りに千束の手を強く握ってしまった。
「痛いよ。たきな」
「ごめんなさい。千束」
手を緩め、そう言いながら、真島に言ってやりたい事をなんとかぶつけようとする。

真島は立っていた。まるで置いていかれる事を恨むように。
言ってやりたい事は有るのに、何も言えない。
千束の「じゃあね、真島」という挨拶が響く。
「じきに周辺のリコリスが突入してくる。AED をご所望ならそいつらに頼め」
そう言って真島は闇に溶けた。

千束がいつものような調子で語りだす。
「たきな。作戦中はもっと周りを見ないとダメだよ」
「止めて。千束。そんな。お願い」
「別の話題が良い?たきなの作るご飯なんだけどね」
「止めて!」

シン、とする。
もう一回の拍動だって無駄に出来ない。
一秒でも、百分の一秒でも千束に生きながらえてほしい。

桜の花びらが舞い落ちる音さえ、聞き取れそうなくらい静かなのに、
千束がまた何かを言う。
「心臓マッサージずっと続けてくれたら、ずっとお話できたりして」
千束を丁寧に寝かせ、胸元に手を置こうとする。
「ちょちょちょーい。だからいきなり胸に触んなって」
「心臓マッサージを」
「いいよ」
「でも」
千束の手が伸び、私の手の指の関節が極められる。全く動かせない。

私は千束を見て、千束は私を見た。
千束が寝たまま話し始める。手は離してくれた。
「そういえば、心臓マッサージって、たきなが見てたアニメの主題歌のテンポがいいらしいよ」
「…あんなに早くですか?」
思わず訊いてしまう。

「そんなでもないでしょ」「いや早いですよ」
「あったまテッカッテーカ、さーえてピッカーピーカ」
「そっち?」
「いやコッチしか無いって。たきなちょっと歌ってみてよ」
「…ドドドドドドドドドッドー」

千束が吹き出す。
「なにそれ。ムリ。絶対ムリ」「千束も見てたじゃないですか」
「私大山さんのばっか見てたし、イントロをスキップ派だもん。
ねね、やってみてよドドドド」

私は笑いながら、千束の胸の横に座る。
千束は寝ているだけなのにピシッと起立の姿勢を取る。

「千束、それ死んでますよ」
「マジ?死後硬直っちゃってた?」「ガッチガチですよ」

二人で笑いながら、千束が少し姿勢を緩めた。
今度はまるで、本当に生死の境をさまよう人のよう。

指を組み、真っ直ぐに腕を伸ばし、千束の胸の上に構える。
「ドドドドドドドドドッドー」
千束が咳き込んで、私は飛び退いたがすぐに千束を抱き起こした。
「千束」「ちょ、ちょっと変なトコ入っただけ。大丈夫」「千束」
千束をまた寝かせる。

駄目だ。もう駄目だ。
「ごめんなさい。千束。」
そういう私の声は震えている。
「何、突然」と千束は寝たまま応じる。
「千束といっしょに居る時、私はずっと笑えてたから」
「うん」
「笑顔で、千束を…送り出せたらって思ったんです」
「うん」
「でも、そうやって笑えていたのは千束が居てくれるって思ったからなんです」

千束の返事が無い。
「千束?」「うん」
「…それで、千束は、居なくなるじゃないですか」
「…うん」
「笑えないですよ。千束は居ないのに。私一人で。ヘラヘラと…バカみたい」
そう言ってまた私の目から、涙が流れ始める。

「いいよ。たきな」
「え」
「笑えないなら、そのままだっていい。笑って送り出して、なんて私は頼まない」
千束は続ける。
「泣いてたって、怒ってたって、私はたきなが大好きだから」

なに、それ。
私の顔がまとまらなくなる。でもこれだけは言わなくては。

「私も大好きですよ。千束」

千束はにこやかな顔のまま、応えない。
腕に抱く彼女の体から、すう、と力が抜けていくのが感じられる。

私達を照らす電灯、散っている桜、ずっとずっとそこに有ったのに、
今、初めて私の意識に入り込んできた。
舞台の役者を照らすスポットが消えて背景だけ照らされてるかのよう、
まもなく幕が引かれるかのよう。

駄目、やっぱり駄目。
千束が痛がったから遠慮して優しく抱いていた腕に、力がこもる。
千束は良いって言ってくれたけど。千束が最後に持っていく思い出は、
私の笑った顔であってほしい。
お願い、千束、目を開けて。笑ってみせる。絶対に笑ってみせるから。

それに私がさっき言った言葉は聞いてくれてたの、千束。
恥ずかしくてとても言えなかったけど、千束が言ってくれたから、私だって応えた。
私が人生で初めて誰かに言ったかもしれない、あの言葉は伝わったの。ねえ。

舞台が暗転するかのように、突然電灯が消える。完全な暗闇。
思わず千束の体をぎゅっと抱きしめる。

電灯が再び点灯した時、私はリコリス達に囲まれていた。
セオリー通りの包囲手順。

これは花畑だ。彼岸花の真っ赤な絨毯。

「オイ」
フキが私の死角から話しかけてきた。ファーストの制服って彼岸花みたい。
「今更何よ!」と千束の体をほぼ投げ出すようにして、殴りかかる。

八つ当たりでしかないが、モーションなしで腕を繰り出したはずなのに、
フキは難なく流して関節を極める。千束と同じ極め。
私の動きが最小限の動きで封じられる。

「寝てろ」
そうフキが言ったかと思うと、私は吹っ飛ばされ、桜の木に撃ちつけられた。
まだ立てる、千束がいれば、そう思いながら、桜吹雪の中で佇む赤い制服を見ながら、
私は意識を手放す。


千束。

本当に、千束は満足していますか。
千束はこれ以上生きたくなかったんですか。
残された時間が本当に少しだった事を知っていたんですか。
私とやりたい事、見たい物、食べたい物はもう無かったんですか。

私が千束とやったこと全部、
実は千束には面白くもなんともなかったのでしょうか。
私が千束を思う気持ちと、千束が私を思う気持ちとは、
全然違っていたのでしょうか。

私はまだ教えてもらってませんでした。
千束が居なくなることが、こんなにも怖いことだったなんて。
どんな死線をくぐるような任務だって、こんなに怖かったことは無かったのに。
千束と居れば、私はどこにだって行けて、何だって撃てると思ってたのに。

言ってくれたら良かった。生きたい、心臓が欲しいって。
そうしたら私は何度だって立ち上がった。何度だって引き金を引けた。
命だってなんだって、ほんの少しも惜しまずに戦えた。

尊敬するリコリスだから、とかじゃなくて、
単に千束には生きていてほしい。
分かっています。これが私のワガママだって。
でもこのワガママさえ貫き通せれば、私は他に何もいらなかった。

起きてください、千束。起きて。
まだ観てない映画だって有るって言っていたでしょう。
あの頃二人で暮らした時よりも、少しは優しく起こしてあげますから。
じゃんけんだって全部負けてあげるから。グーしか出さないから。

私はこれからどうなっちゃうんですか。
千束が居なくなった後の世界なんて、地獄とどう違うんですか。
私が悪かったんでしょうか。何にも考えないで、
ただ命じられるままに人を撃つような人間だったから。
だから千束は、私に思い出だけ残していってしまうんですか。

待って。千束。
いくらなんでも早すぎるよ。


- * -


たきなは、ただただ泣いていた。千束の亡骸に、縋るように。
こんな、こんな終わり方しか無かったのか。

確かに彼女は出来うる限り長い生を全うしたと言えるだろう。
しかしこの空虚さは何だ。なんでこんなにも虚ろなんだ。

楠木が指示を出す。
「チーム・アルファ。周辺の索敵と死傷者の回収を急げ」
「…了解」

真島が立ち去るのを十分待つかのような、遅い指示だった。


- * -


ミズキ。

いつも婚活雑誌を見ていて、お酒を呑んでいて、正直ダメな大人だと思ってた。
でもそれは未来に繋げたいから、それに傷ついた体や心を癒やすためだった。
ミズキは日々戦っていたんだよね。

戦うっていうのは殴ったり、蹴ったり、撃ったりそういうのだと思っていたけど、
ミズキのような戦い方も有るんだって思えるようになってからは、少し羨ましかった。

その戦いでいつか勝利を収めて、凱旋する戦士みたいに、
ヴァージンロードを歩くみずきを見てみたかった。

いつかミズキが投げたブーケを受け取りたかった。
もしかしたらたきなと取り合っちゃったりして。

じゃあね。お酒は程々にね。


クルミ。

飛行機乗らなかったんだって、たきなから聞いた。私を助けるためだったの?
少し嬉しかったけど、殺されるって言ってたのに、そんな事しないでほしかった。
いのちだいじにだよ。

そう言って、助ける任務の時は盾にしちゃってごめんね。
でもあれたきなだから。私じゃないから。

ゲームでもっとクルミに勝ちたかったな。
ううん、勝てなくても一緒にゲームがもっと出来れば良かった。


真島さん。

真島さんは、自分と私が同じとよく言っていたね。
私はそれをずっと否定していたけど、今は似た所がちょっとは有ったのかなって思う。

多分真島さんは元リリベルとしての自分と、
リコリスとしての私の立場の共通点について言ってたんだよね。
でも映画で見ている所が似てたりする所が、
もっと本質的に私と似ている所だったんじゃないかな。

ツバ付けられたり、延空木ではナンパされたりして正直キモかったけど、
真島さんの言う事が少しは分かるような気がしたのは、
かつてアンタを信じた誰かが、この心臓に宿っていたからなのかな。


フキ。

なんだかんだずっと一緒だったね。
起きてるときもギリギリ、寝てるときも歯ぎしりギリギリやめてほしかったけど。
でもそれってずっと一緒に居たからそう思えるんだよね。

一人で暮らすようになった時、とても静かな寝室に全然慣れなかった。
昔の映画とか流しっぱなしにして寝ちゃったりして。

フキが赤い服を着るようになった時、ホントはすごく嬉しかった。
同じくらいの年の娘でファーストの子は珍しかったから。
あ、これって自慢に聞こえちゃう?

たきなの事よろしく。たまになら喝入れてやっていいよ。
そんじゃ、フキ。


先生。

先生は私の大事なお父さんだった。
先立つ不孝をお許しください。あ、不孝と不幸って似てる。
皆と違う心臓に生まれた不幸が、先立つ不孝に繋がるなんて。

先生は、まだ教官だった頃から沢山の幸せを私にくれたから。
不幸って思う事を沢山無くしてくれたから。
同じくらい幸せを増やして、不幸せを減らして上げられたらって思っていたのに。

ごめんね先生。
会えたらリキにも伝えとくよ。でもリキは私の行く先に居ないんだろうな。

さようなら。


吉松さん。

吉松さんが教えてくれた事は、とてもショックなことでした。
そういう可能性とかおぼろげに考えたことは有ったけれど、
自分自身で頭の中から追い払ってしまっていました。

でも吉松さんもそれを知っていて、本当に苦しんだんでしょう。
その苦しみが私を救うわけじゃないけど。

吉松さんにしか分からないことが有ったんでしょう、沢山。
でも私にもそういう物が有ったんだって、知っていてほしかった。


私の心臓を形作ってくれていた全ての存在。

伝わるならありがとうと言いたい。
恨んでるかもね。
私達だってパンケーキ食べたい、ウェイトレスやりたい、もっと生きたかったって。
でも、私にだって生きてきて楽しいことだけが有った訳じゃない。
私が手に出来た物だって、全部を最後まで持っていくことは出来なかった。

いや、選択の余地さえ与えられなかった皆は、もっと辛いんだろう。ごめんなさい。


たきな。

本当はね、まだ沢山有ったんだ。
私がやりたかったこと。見たかったもの。食べたかったもの。
タイムリミットが有ることは分かっていたから、
出来る限りやってきたし、見たし、食べてきたんだけどね。

でも、たきなが来てからは、せっかく済ませた事も全部、
やったこと、見たもの、食べたもの全部をたきなとまた一緒に楽しみたかった。
あの慌ただしいお出かけさえ、私には大事な思い出になった。
たきなも私と同じ気持ちで、一緒に楽しみたい物が沢山有ったんだって思えたから。

実は、たきな、私にはたきなに言わなかった事が有るんだ。
映像で見た機銃掃射とか、一緒の仕事の時とか、
躊躇無くたきなが引き金を引く時、私はそれを少し、怖いと思っていた。
ううん。その射線の先に居る人の事を、
私にとってのたきなのように大事に思う人が居たらと思うと、本当に怖かった。

言ったらよかったのかもしれない。
でもその考えが、本当に、本当にたきながピンチの時に、
たきなの頭をかすめてしまったら。
ほんの少しの遅れやミスでたきなが、
私よりも早くに命を落とすことになってしまったら。
そう思うとどうしても言えなかった。

リコリスだから殺人がどうこう、っていうんじゃなくて、
単にたきなには生きていてほしかった。
これは私のワガママだよ。
そして、私はそのワガママを貫き通す事ができた。
たきなに撃たれた人達には悪いけど、私はその事でとても安心している。

今は、なんかとても眠いんだ。
家で映画を流したまま寝落ちしてしまいそうな時のように。
目が覚めたら、たきなが居る朝がまた来ればいいのに。
そうなったら料理・洗濯・掃除は、今度はちゃんと分担、
ううん、全部私がやったって良いから。

私がこれからどうなるのか、私には分からない。
天国とか、地獄とか、有るのかな。
私は天国に行けないだろうけど、それは多分たきなも同じだよね。
いつかたきなが来てくれるその時まで、たきなが先に送り込んだヤツらと一緒に、
たきなの思い出話で盛り上がっちゃったりして。

じゃあね、たきな。
あんまり早く来るような事が有れば多分泣いちゃうけど、
あんまり遅くなっても泣いちゃうと思う。


- * -


あの日、日本を揺るがした十年ぶりの大事件以降、
リコリスは以前のような活動を行わなくなっていた。
行えなくなっていた、とする方が正しそうだ。
ミズキが言っていた「孤児を集めて殺し屋に仕立て上げるキモい組織」という評は、
なにもミズキだけの独りよがりな感想ではなかった。

DA の存在や過去が明らかになるにつれ、リコリスやリリベルに対して、
大半の構成員が孤児であり現在も未成年で有る者が多数である事、
洗脳的とさえ表現される教育を受けていた事、
殺害は犯罪者か未遂者に対して行われていた事、等から同情する雰囲気が生まれた。

今、元リコリスである私達は、更生施設と称したいわゆる学校のような施設で、
それこそ私達がなりすましていた女子高生のように勉強している。
ゆくゆくは社会に一般的な社会人として復帰する、計画ではあるのだが、
そういったリコリス達を受け入れてくれそうな職業となると、
警察や自衛隊が主で、しばらくは以前のような訓練もカリキュラムに組み込まれている。

千束がここに居たら、花の女子高生だとかいって騒ぐんだろうか。
帰りに買食いしようよとか言って、全寮制みたいな物なのに、
わざわざ出かけたりしたんだろうか。

この施設での勉強は、
我々がリコリスであったという事実を出来るだけ周りに漏洩させない、
という配慮から個別ブースで動画を見てレポートを提出するようなものだ。

今、私は国語の動画を閲覧している。非常に退屈だ。訓練していた頃が懐かしい。
千束が居たら速攻で眠ってしまいそう。
とりあえずブースで若干だらけつつも、タブレット端末に意識を集中させる。

『曼珠沙華咲いてここがわたしの寝るところ』
『種田山頭火の句ですね。分類上は同じ花ですが山頭火には、彼岸花を悲しみの象徴、
曼珠沙華は美しい花として区別して表現している句が多い。この句は』
講師はそう言いながら端末を操作して、ディスプレイに分割した俳句とその解釈を表示させた。

曼珠沙華咲いて
『ヒガンバナが咲くこの場所』

ここがわたしの寝るところ
『ここに私は生きている』

『この句は後者の代表で、秋の季語であるとともに死の象徴とされる彼岸花の、
別の一面を切り取った、日常的な句と言えるでしょう』

そうだろうか。私には少し違って感じられる。

『類似した句に漱石による物が有り──』

動画を一時停止させ、テーブルに端末を置き、黒板に表示された句を、じっと見る。


曼珠沙華
「千束」

咲いてここがわたしの寝るところ
「どうか居てください。私が生きるこの場所に、ここに」


授業の動画が不意に再生される。
何だろうと思いながら、耳には動画の音声が入り込むが、
私の中で意味をなさない。
ディスプレイに落ちた涙が、再生を再開させていた。
気づくと、ボタボタと画面が濡れていき、また止まったり、変な時間が再生されたり。
思わずディスプレイをオフにする。
真っ暗な画面の中、親とはぐれ、途方に暮れ泣くしか無い子どもの顔が写る。
なんて、悲しそうな、苦しそうな。
個別のブースでよかったと頭の片隅で思いながら、そのまま突っ伏して泣いてしまう。
咽び泣いてしまう。


千束。千束──。
なんで。なんで──。

また、漫画や名前も分からない花を持ってきてくれたら。
また、退屈な日々をあなたと蹴散らして、二人で街中を泳げたら。

千束に出会うまでは、
窓に飾った絵をなぞって、一人で宇宙を旅して、それだけで良いはずだったのに。
満たされない穴は、惰性の会話や、澄ましたポーズで埋めてこられたのに。

千束の手を握ってしまったから、孤独な世界はもう無くなったものと思っていた。
しかし私は今、自分が世界の端に置き去りにされたかのような孤独を感じている。

誰の手も、声も届かない。
出したことないほど大きな声だって伝わらない。

千束はいってしまった。そういう場所へ。私を残して──。


コンコンと、ブースをノックする音が聞こえた。
目も鼻も拭わないで、ドアに目をやると、ノックの返事を待たずにドアが開けられた。
フキだ。

「ちょっとツラ貸せよ」
有無を言わさずに私の手を取り、乱暴に引っ張っていく。
周りを見ると私もフキも何となく注目されている。
ブースで私が泣いているのが伝わり、誰かがフキに相談したようだと感じた。

フキは噴水の広場まで私を引っ張ってきたが、私は手を心持ち強く引き離した。
「失礼しました。取り乱して申し訳ありません。戻ります」
そう言ったが多分ひどい顔だったろう。
「待てよ」
そう言ってベンチに座る。何となく私にも座るよう促しているようだ。
仕方なくフキと反対の端に座る。

「撃ったほうが良かったと思うか」
「何の話です」
「千束だよ」
ああ、やはりその話か。

千束が死んだあの作戦の後、フキがスナイパーとして参加していた事や、
店長と思われるスナイパーに自身のライフルが撃たれた事を聞いた。
その時は任務とはいえ、長年の知り合いだった千束を撃とうとしたフキを、
かなりひどい言葉で罵った。

でも彼女は、私に話しかけてきた時には既に、怪我こそ無かったけれど、
見たことがないほど憔悴しているように見えた。
後に店長が行方不明になった事を私はサクラから聞いた。

もしかしたら、あの時、フキは自分を罰する何かが欲しかったのかも、
と思うようになった頃から、たまにこうしてあの日のことを訊かれるようになった。

絶対にそんな言葉を与えてやらないという気持ちから、当初は口もきかないでいたが、
彼女自身が私と同じか、それ以上に傷ついているという気持ちが
彼女に対する接し方を少しずつ、優しいものに変化させているのを、私自身感じている。

クルミはDAに入り、ミズキも復職し、
というより本人たち曰くもう出られないそうだが、
特に不幸せそうではない。

店長と吉松は先に言ったとおり、行方不明のままだが、
リコリコの跡地にたまに花が供えられている。

真島の行方も杳としてしれないが、
国内でのテロの活動は活発化しているようだ。

つらい過去は時間をかけて消化されると言われるが、
フキや私はわざとあの日のことをずっと話題にし続けて、
消化されそうになると思い出す作業を続けているように感じられた。

私達は前に進めなくても、皆はそうでない。

私も彼女も何となく感じている。
銃身が撃たれた時、トリガーに指をかけていれば、その指が最悪折れるか、
よくてもそれなりに大きな怪我となったであろうことを。
私達があの時銃を持っていた手の指は今も綺麗で、傷跡一つ無い。

作品一覧を見る

コメント

コメントはまだありません
センシティブな内容が含まれている可能性のある作品は一覧に表示されません
人気のイラストタグ
人気の小説タグ