Profile
  メッセージを送る
Calendar
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< September 2022 >>
米粒写経HP
米粒写経HP
サンキュータツオと居島一平のコンビ「米粒写経」。公式ウェブサイト
熱量と文字数
熱量と文字数
サンキュータツオPresents 二次元を哲学するトークバラエティ音声マガジン
漫才バカ一代
漫才バカ一代
米粒写経が主催する漫才オンリーライブ。年4回、3,6,9,12月開催。 ですが、レギュラーメンバーのスケジュールが合わず、次回は未定。
ワタナベエンターテインメント
ワタナベエンターテインメント所属
DVD『珍遊記~太郎とゆかいな仲間たち~』(1)(2)(3)

サンキュータツオの初声優作品!? 漫☆画太郎先生の傑作が春日森監督によってフラッシュアニメ化! 酒の肴にどうぞ。
サンキュータツオ
オリジナルデザインTシャツ
Tシャツリンク_1 Tシャツリンク_2
「一コマ目から好きでしたっ」
オタク心を代弁した魂の一枚をあなたも!
Links
New Entries
Category
Archives
Recent Comment
Recent Trackback
  • 水道橋博士のメルマ旬報 連載:サンキュータツオのお笑い文体論 「POSION GIRL BAND研究」連載開始しています
    Nowpie (なうぴー) お笑い芸人 (08/09)
  • 【ネタバレあり】『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』 タツオ解釈DAT編 ~やはりDATは見ていた!~
    しげの樹 (11/25)
Search
mobile
qrcode
RSSATOM 無料ブログ作成サービス JUGEM
早稲田大学と私 (後編)
早稲田大学と私 (後編)

昔話の続きです。

中高一貫の男子校に通い、
文学青年だった私は、勉強ではなく「学問」をしたい、
と思って、
14年前、大学に入学しました。

私の高校には、文学部を受験するものなど数少なく、文系の私のクラスでさえ2人しかいませんでした。
いまから考えれば、そりゃなんのつぶしもきかない文学部になんて、入るほうがおかしいのですが当時はそういうことがまったくわからない子でした。

私は真面目な子でした。
最初から大学院に行こうと入学しました。
中学三年のとき、
近所の古本屋で発見した、
「内田百閒」という作家の研究をしようと思い、第一文学部に入部したのです。
百閒は、夏目漱石の弟子で、私がいまでも日本一おもしろく、また研究しがいのある作家だと思っている人です。
いまでこそいろいろな特集が組まれたり、文庫で全集が発刊されたりして知名度もありますが、
当時は廃刊になった「旺文社文庫」(しかも旧仮名遣いで素晴らしかった!)と「福武文庫」でしか出ておらず、
研究書も数えるほどしかなかったのです。
そして、高校生のときに読んだ、ちくま学芸文庫の『名文』という本を読んで感動し、
その著者・中村明という人がいるらしい、早稲田大学というところに行ってみようと思ったのです。
近所だし、ここでいいか、みたいなノリで。
私立で、しかも文学部だなんて、と親には反対されました。
だから私には、そういう動機付けをし、理論武装することが要求されていたのです。

ま、百閒の研究をしようと思ったのはホントなのですが、
私には別の興味もありました。
それが落語です。

文学好きだった祖父がテープで聴いていたアレ、
漱石や百閒も好きだという謎の芸能。
それを知ってみたいという好奇心もありました。

そうして落語研究会に入ったのです。
あとで知ったのですが、早稲田の落語研究会というのは、
ホントに落語オタクが集まる集団だったようです。伝統的に。
入学してすぐに落語漬けになりました。

あの頃。
古今亭志ん朝が生きていた時代。
文治もいた、枝雀もいた、小さんもいた、吉朝もいた、文朝もいた。
ついでに言うと、小せんやさん助とかも。どうでもいいけど円楽も現役だった。

落語界は、小さんという「重し」と志ん朝という絶対的神がいて、談志という「落語村」を飛び出した革命児が厳然と存在感を示し常に保守派に緊張感を感じさせていた。そしてその弟子たちも、結果を残し始めていた。
志の輔が売れ始め、
二つ目では談春、志らく、喬太郎、たい平あたりが鎬を削り、
若手では落語芸術協会の昇太師匠が中心にいた。
落語協会では喜多八、右朝、正朝、芸術協会では桃太郎師匠の追っかけをしておりました。
関西では春団治、雀三郎、福笑。
それに昭和の名人たちのCDなんかがあるんですから、もう止りません。
アイドルやジャニーズの追っかけをするように、落語家の追っかけをしていたのです。
そして、一席聴くたびに、「あそこの解釈は新しかった」「あの演出はすげー!」などと生意気な感想を仲間と言い合っていたのです。

落語によって、真面目、というか、頭の硬い人間だった私は、どんどん軟らかく、バカになっていきました。しかしそれは悪いことではありません、気持ち良かったです。頭のなかでできていたいろいろな仕切りや区切りは、どんどんなくなっていきました。

いまでこそ、落語ブームといわれていますが、当時は18歳で「落語が好きです」とバイト先や大学で言おうものなら、「気持ち悪い」といわれていました。
それでも私は幸せでした。ホントに幸せな想いを、たくさんたくさん経験しました。感動して立てなくなるような経験を、落語でしたのです。
もうずぶずぶです。
もちろん、落語が好きで仏像ラブ☆、なんていう文学青年を相手にしてくれる女子もおらず……男子校6年で男としか会話できなくなってしまったいた私は、貴重な貴重な青春時代を、文学と落語に捧げてしまったのです!
もったいないことをしました。


結局、学部時代の私は研究のテーマを大幅に変更し、現代落語論を書くことにしました。
そうして私は文芸専修という学科に入ったのです。
後から知ったのですが、同期の文芸専修には、作家で、腐女子でも有名な、三浦しをんさんがいたそうです。私は小説のクラスではなかったので、特別意識したこともなかったのですが、いつか「腐」について彼女と語れる日がくるといいなあと思ってます。

追いかけきたはずの中村先生は、当時はなぜか第一文学部で講義をなさっていませんでした。先生の所属が、日本語センターだと知るのは、私が学部の4年のときです。

『闘う落語家 立川志の輔論』が、私の卒論のタイトルです。
毎月独演会に通っていた私を師匠は覚えてくださり、
「まだだれにもしゃべったことはないけれど、話してみてもいいかな」
とおっしゃってくださって、私はそれから志の輔師匠のインタビュー取材をすることになるのです。
あの取材の2年間。ときには独演会の打ち上げ、ときにはNHKの楽屋で、志の輔師匠の落語観を、納得いくまで聞かせてもらいました。それはもう、なににも変えがたい、最高の経験でした。
結果、学部には5年通うことになりましたが、個人的には書籍化してもいいんじゃないかと思うほど素敵な卒論が書けました。

卒論の指導教授は、平岡篤頼先生。

フランス文学、しかもヌーボーロマンのご専門の先生で、
デュラスやサロート、ロブ=グリエやシモンなどを、翻訳を通して日本に紹介したことでも有名ですが、
ご自身も小説を書いたりして芥川賞候補にもなった先生でした。
「翻訳も日本文学の作品として鑑賞にたえ得るものでなければならない」が先生の持論でした。事実、先生は自らの手で、日本のオリジナルな文芸作品を書くという荒業を成し遂げていたのです。
小川洋子さんや角田光代さんや栗本薫(中島梓)さんなどの師匠です。
筒井康隆の『文学部唯野教授』にも「白岡」で出てくるくらいすごい人です。
私は学部在学中はその先生のすごさをビタ一文わかっていませんでした。
ですが、この先生に魂から惚れこんでしまいましたし、また大変かわいがってくださいました。
平岡先生のことをお話すると、もうブログでは書ききれず、また泣いてしまうのでやめておきますが、
先生には、体の芯から「ブンガク」を教わりました。
学問でもなんでもない、「体で感じる」以外にない「ブンガク」、一生私のなかで生き続けるでしょう。
平岡先生は『早稲田文学』という文芸誌の主幹もされており、結局私も巻き込まれて学部時代の3年ほど、編集委員をやっていました。

平岡先生は、卒論の指導では一環して、「変なことを書きなさい」と指導してくださいました(なんて先生なんだ!)。
こうして、私は2000年に卒業論文を仕上げ、
その年、学部を卒業、平岡先生もその年、定年を迎えられました。
「これは落語論であるとともに、文学論でもある」と、Winstonというタバコをくゆらせながら喜んでくださいました。
「最後の弟子」とおっしゃってくださいました。


その頃、居島と一緒に漫才をやろうか、それとも学問の道に進もうか、と思っていたところだったので、
平岡先生に相談しました。
「両方やったら? 実践は必ず理論にフィードバックされるし」
小説を書きながら、研究もなさっていた先生だけに、説得力がありました。

こうして、私は素人ながら漫才やってみるか、と思いつつ、大学院を受験することになったのです。
平岡先生は5年後、亡くなりました。
出棺の際、棺には、Winstonのタバコを差し入れしておきました。

早稲田は、よく偏差値一流、学生二流、教授三流、と揶揄されますが、私から言わせればまるで見当違いです。
少なくとも、私にとっては、
教授と図書館施設は超一流でした。
学生は五流、くらいなもんでしょうか。当然私も含みます。いま目の前で講義をしている、その学問の神々の価値がまるでわからない生徒ばかりでした。毎日酒ばかり飲んで、自尊心だけはいっちょまえで、まるでバランス感覚のない知識ばかりで、世を斜めにみるばかり。それでいてちゃっかり就職とかするのです。どんなだよ!
教授陣が、ホントにすごい実績の方ばかりだというのは、大学院に入ってから気づくことになりました。

私は学部の時代に、いろんな先生の授業を聴講しました。
その頃は、日本文学には竹盛天勇先生、フランス文学には平岡篤頼先生、品田先生、露文に井桁貞義先生、文芸には三田誠広(なぜか私のクラスは映画監督の原一男だった)、英米文学には松原正先生、美術史には中国の仏像の大家、吉村先生、いまなお現役の大橋先生、星山先生がいらっしゃった。
いずれも国内の各シーンで第一線級の活躍をなさっていた先生方です。しかも主流派ではないところで。早稲田らしい学者、というのはこのあたりの年代までです。

最高の講義でした。私のいた専修は、どの専門の講義を聴いてもよいという、まったく友だちのできる隙のない専修だったのですが、そんな先生たちの講義を聴けたことはほかにない財産です。

よく、人は社会人になってから、あの時ちゃんと講義を聞いてたらなあ、と言います。
遅いです。
大学の意味をわかってない人の発言としか思えません。大学はカルチャーセンターではないのです。そういう人は、生涯「気づき」の遅さが直りません。
本当に賢い人は、大学に行ってなくても学び取りますし、師を見つけますし、自分で読み、調べます。学問はそれでよいのです。講師は身の回りにいるはずなのです。
そして、大学に入ったら入ったで、「こんなにつまらないところだとは思わなかった」という人がおります。
感受性の墓場です。
それでご飯を食べている人たちが語っているのだから、つまらないわけがないのです。どんなにしゃべりが下手な先生でも、興味深いことは言っています。その人がつまらない人だから、なにも響かない、それだけのことです。


1999年から2000年、就職氷河期でした。
いまよりも悪かったはずです。非就職率が4.9%とかの時代です。
私は実は一社だけ、ニッポン放送という企業を受けました。まだエントリーシートとかを、会社にもらいに行っていた時代の話。
ラジオ局に入って、落語とか演芸の番組やりたいなあと思っていたのです。
前年度20人採用した会社が、その年は4人でした。私は最終の11人まで残ったので、完全に安心していましたが、採用されませんでした。
いまから思えば、就職できなくて幸せでした。結局私は留年したし、こうして研究を続け、人を楽しませる職業につけた。

私は、やはり学問をしたかった。
私の祖父はふたりとも、文学部でした。研究をしたかったけれども、時代が時代だったので働かなければならなかったと、いつもこぼしていました。
祖父たちは、いまの私の存在を築き上げてくれた人たちです。そんな祖父の気持ちに応えるためにも、そして学問の楽しさを教えてくださった先生方のためにも、なにより自分の好奇心をおさえるためにも、大学院で研究する道を私は選択しました。
ここ、ルート分岐でこっち選んじゃだめですよ、人並みの幸せを得たい人は。

大学院受験の前日、浅草キッドさんとたけしさんの前で、ラジオブースで、素人時代の我々が漫才をやりました。
翌日、大学院の受験。
あの二日は人生で最高にしびれた二日でした。
大きく人生が変わった二日でした。

私は、落語を文化的に論じたので、次は言語的に「お笑い全般」を研究しようと考えました。
言葉に注目してみようと。
国内では専門的にやっている人間は数えるほどしかいません。
しかし、奇跡的に、早稲田には、そんなことも本業の傍ら、研究している先生がおりました。
『落語のレトリック』などの著作で知られる野村雅昭先生、
そして、あの、中村明先生だったのです。

これも巡りあわせだったのですが、私が大学4年になってはじめて、中村先生が第一文学部で講義を担当なさったのです。
毎回、それはもう自分では信じられないくらいの集中力で、講義を受けました。
そして、先生に『名文』にサインをもらい、いまこういうことをしたいのです、とお話しすると、「じゃあ、私の専攻受験してみたら?」をおっしゃったのです。
先生は、学者としてのキャリアの集大成に、言葉の側面からの「笑い」の研究をはじめていたのでした。

こうして私は、遂に中村明先生の弟子となったのです。
そう、あの高校時代に読んで衝撃を受けた本の著者、中村明先生。

修士の3年間、結局一年人より長くかかってしまった修士論文、
しかし先生は褒めてくださいました。
そして、博士課程の3年。
計6年。
このへんまで来ると最近の話ですね。
語りだすと長くなるのでやめておきますが、
「技巧を凝らさない文」「技法を凝らした文」で対比的研究の末『日本語レトリックの体系』という研究を成した先生なので、
「おもしろくない文」「おもしろい文」でもそれができるのではないか、ということでお世話になりました。
最高の先生でした。
この先生から学んだことは計り知れません。学びきることもできないのですが。
みなさんも、高校の国語の教科書、あるいは受験問題の課題文、あるいは集英社の国語辞典などで、先生の名をご存知かもしれません。

博士課程の3年で先生が定年を迎えられ、
当然のように大学に残った私は(ホントは最短で3年なのです、でも3年で出る人はほとんどいません)、
最後の3年間を、野村雅昭先生にお世話になることになるのです。
これもまた、運命。

野村先生は、一般には、いま現在、この日本で使用されている日本語の漢字、高校までに習う漢字の字数などを決めていらっしゃる、漢字の専門家です(しかしなぜか漢字を減らそうと主張なさっている、早稲田らしい先生)。
ですから、みなさんも、学校で習った漢字、そして小学館の国語辞典などで、先生の名をご存知かもしれません。
しかし、野村先生は、日本で一番落語に詳しい先生でもありました。
平凡社『落語のレトリック』がもっとも有名ですが、落語の言語学シリーズという本もお書きになっています。
実は早稲田は落語研究では、歴史的にも暉峻康隆(てるおかやすたか)、興津要(おきつかなめ)、野村雅昭という、超がつくほどの落語研究家がいたのです。

そんな野村先生とは、実は学部の時代に出会いました。
私がアルバイトをしていた古書店「上野文庫」の常連様だったのです!
知る人ぞ知る「上野文庫」は、人生で一回見るか見ないか、というほど稀少な本のみを置く、一風変わった古書店でした。
棚には、明治から大正、昭和の初期の落語の速記本(実際の口演を速記したものを本にしたもの)なども置いてあり、
サラリーマンの一ヶ月分の給料に匹敵する、あるいはそれ以上の値段がするものもありました。
そういうものを探していたのが野村先生だったのです。
博士課程の学生として、集大成をぶつけるのは、国内でもこの方しかおられない、というほどの先生でした。
というか、もはや野村先生以外に、私のようなはぐれものを指導できる現役の先生は、日本にはおられませんでした。
そんな先生が、たまたま早稲田にいたのですから、これも運命。


こうして私は、平岡先生、中村先生、野村先生という、三人の大好きなお父さんに指導してもらえました。たっぷり甘やかされました。
ホントに学生としては、奇跡のような幸せな環境で学べました。
本来であれば、お金ではどうにもならぬ「最高の教育」というものを、私は大学で得ました。
運が良かったとしか思えません。
その代わり、大学では博士号は取れませんでしたが(そういう大学なの早稲田って……。いや、でもそれはたぶん学生の怠慢なの)。

しかも、大学院では、学者として素晴らしい姉さん方、兄さん方、そして数少ないですが弟、妹などもできました。
大学14年間で、友だちは……片手以内だけは出来ました。私にはそれくらいの人数でちょうどでした。
私は、芸人仲間のほうが気が合う人が多かったのです(といっても、仲良い人はやっぱり少ないです)。

大学は、時代の流れか、再編成は進み、大学のアイデンティティーというものは失われつつあります。

「文学部」では志願者が少ない、したがって名前を変えて別の学部にする、国語学が流行らない、だから教授陣の補充はしない、そんなことが、いまどこの大学の文学部にも起こっています。
事実、早稲田でも、文学部のひとつのお家芸であった国語学者・時枝誠記から続くレトリック(修辞学)の伝統は、中村明の後釜が補充されず、途絶えました。
落語研究も、途絶えたと言っていいでしょう。

大学には、よくよく調べると各学問領域に「お家芸」があるのです。それは偏差値や就職率でははかれない、真の意味での大学の価値です。
ノーベル賞をとる物理学者は、なぜ名古屋大学が多いのか。
それはお家芸があるからです。
お家芸は継承され、弟子を育て、より強固なものにしていくべきものなのです。
体裁だけ整えても、大学の価値は結局、学問の成果です。

長年、大学にいて、「良い大学」を見極めるモノサシを見つけました。
それは、「文学部」が異様に充実している大学です。
「文学部」は、大学という企業にとっては、なくてもいい「嗜好品」です。それこそ昔、戦争になると、徴兵されたのは文学部の学生からだったそうです。
そんな、なくてもいいものに力を注いでいる、しかも「文学部」と銘打って経営している大学は、良い大学に決まっているんです。それだけ余裕があるから。
設備投資にも余念がありません。
「文学部」を消滅させた大学は、それだけ余裕がなくなった、やばい大学です。これは、いまの大学の学部の名前を見ていれば、一発でわかることです。
このままいくと、日本の文学研究は、国立大学でしかできないものになるのではないかと、私は一人で勝手に危惧しております。


私は、お笑いも研究も一生続けるつもりでおります。
どちらもエンターテイメントだしファンタジーだしサプライズだしマジックだから。
今回は、「私とお笑い」の話、「私と二次元」の話はまるで出てこなかったのですが、同時進行でそれらも動いていました。
それらの魅力は、一言でいえば「謎」だから。私の好奇心の続く限り。

学者芸人って、この世に一人くらいいたっていいでしょう?

笑いやおかしみの言葉を見る研究、これをお家芸にしてくださる大学を募集中です。
向こう100年、20世紀の各ジャンルの学術の研究成果を総合的に活かせる、絶対伸びる学問領域です。
「笑い学会」ではお話しになりません。どこか、私を先陣に立てる、大学の売りにするくらいの覚悟のある大学はないかしら?w
早稲田では、中村・野村両先生によって、まさにお家芸の火種ができかけたところでした。しかし、それも鎮火します。



今年から高校、大学に入った方、是非「通じ合える」先生を見つけてください。
師匠と思えるほどの。
いまからどこかに入ろうかと考えてる方、絶対学校は先生で選んでください。
そうでなければ、大学なんて入るのは無意味、とまでは言いませんが、専門学校に入ったほうが、いまの時代はよほどつぶしがききます。
社会人の皆さん、師とあおげる上司や先輩、見つけてください。
今年大学院に進学したみなさん、修士でやめないでください。
修士で終わるなんて、理系と心理学以外では、なにもしてないとおなじことです。修士論文は、大学に所蔵されるだけで、学術的成果として雑誌論文には残りません。それでは学部卒と変わりません。学歴のためだけに冷やかし入るのは、だれにとっても不幸なことでしかないのです。
絶対に博士課程まで言って論文を書いてください。
これから大学院進学を考えてる皆さん、どうかどうか、博士まで行く「覚悟」をもって受験してください。
社会人でぼんやりと大学院を考えている方々、「勉強」したいならカルチャーセンターにいってください。ステップアップがしたいのであれば社会人大学院とか、そういう「ステップアップ」大学院に行ってください。
研究をする気のない人は、大学院に入っちゃいけません。鬱になりますよ。冗談ではなく。
ついでに言うと、人並みの幸せは望まないように。


早稲田は「早稲田大学」とだけ書かれた表札のない大学でした。
「門のない大学」と高橋世織先生はおっしゃいました。
区切りをつけない大学です。

そして私は、なぜかいままで一度も大学の「卒業式」に出ませんでした。

なので、私はこれからも毎年、4月は神田川の桜並木を見に行くのだと思います。
posted by: サンキュータツオ | - | 01:22 | comments(12) | - |-
来週から講義が始まります。
期待と不安が両方とも倍加されたような感じですw
それとは別に、タツオ史の鮮やかさに泣いちゃいました。(マキタさんが言うところの“ウル”ですw)
いつか、自分の文章で人をこんな気持ちにさせたい...。
なんて生意気なことを思ってしまった、西の文学部少年でしたw
| けんしょう | 2009/04/05 3:29 AM |
話なげーよ!
途中で読むのやめちゃったじゃないか!

大学では「纏める」ことを習わなかったのかな?
| タツオ大好き | 2009/04/05 4:09 PM |
2,3年前、ホントにたまたまだったのですが、師と仰げる人に出会えました。
今もその人に就いて教えていただいていて、自分からいろいろなことを学ぶようにもなりました。
年齢的にはスタートをきるのが遅かったのですが、その分、先生とはこれ以上ないというくらいのタイミングで出会えたと思っています。

そんなことを考えながら、この記事を読みました。

ええ、もちろん人並みの幸せなんてフルスイングでドブに投げ捨てましたとも。
| 若隠居 | 2009/04/06 11:23 AM |
いや~僕も師といえる人探したいです。それにしてもタツオさん「人並みの幸せ」ってなんでしょうね。人それぞれの形があるんでしょうけど、わりと漠然としているある程度のラインが決まっていてそこからは個人の考え方で違ってくる物。今のタツオさんは「人並みの幸せ」を持っていますか?僕は「自分なりの幸せ」を見つけていきたいです。
| 狂四郎 | 2009/04/06 6:45 PM |
初めまして、yotaroと申します。
大学をめぐるお話の数々、とても興味深く拝読いたしました。
タツオさんのお笑いに対する情熱や、文学研究への関心、そして何より先生方への深い愛情が伝わってくる文章に、感銘を受けました。
私自身「気づき」の遅さのせいで、学部卒業までずいぶんと遠回りをしましたが、卒業が迫った現在では、自分の好きな事に・自由なアプローチで没頭できる大学/研究室という環境と、そこでの時間が、いかに幸福で貴重なものであったか身に沁みる思いです。

タツオさん!うちの大学でも開講しませんか?
渋谷駅から徒歩10分、眺望・日当りも良好です!
| yotaro | 2009/04/07 1:57 AM |
>けんしょうさん、

東の文学青年から西の文学青年へ。
コメントさんきゅ☆
第1週目はいかがでしたか?
将来大変ですけど、隣に本があれば大丈夫な人になりましょう。


>タツオ大好きさん、
読まなくていいよ!
読む気のない人をふるい落とすために長くしてんだから。
でもわざわざコメントありがとう。


>若隠居さん、
師に出会えたのは、運ではく、若隠居さんの好奇心が引き寄せたのです!
タイミングも良くてよかったですね!
人生を80年としても、一人でできることなどたかが知れておりますが、少しでも自分の好奇心を満たせるよう。

| タツオ | 2009/04/12 2:30 PM |
>狂四朗さん、

「人並みの幸せ」は、ここでは社会的尺度で言われる、安定的収入、結婚、出産、家庭をさして使用しました。
私は持っていません。
ですが、私はいま最高です。


>yotaroさん、
コメントありがとうございます!
ホントに講義を持たせていただけるなら、嬉しいです。
喜んでやります。
マジな場合は、
info@kometsubu.com
までお願いします!w





| タツオ | 2009/04/12 2:34 PM |
出産まで諦めていらしたとは…なんて切ない… 。・°(つд`)°・。
| Oriたん | 2009/04/16 1:59 PM |
初めまして。シャッ村の大工さんとの繋がりでシャッツキステの存在を知り、また、貴兄のブログを知りました。
懐かしい先生方の名前が並んでいたので懐かしくよみました。輝岡先生は、宗教学を講義されていた先生と研究室で何時も酒盛りをしていた記憶が殆どです。
小生の十代前半からのテーマの一つが「面白い事・楽しい事」とは何か?????  です。今では 愉しめる事 のみ追及することに余生(医者に何度も念を押されました)を費やそうと決めました。・・・・・それでも生きて行けそうな気がします・・・・・何せ「余生」ですから後生きても10~20年ですし    
人並みの幸せを諦めても 人並み以上の幸せをゲットすれば佳いのでは ・・・・・
そういう先輩方もきっと居られますよ! 早稲田には ・・・・・・・
私の価値観では「人並み」は「面白くもない」~「つまらない」につながります。
好奇心と道連れであれば私にとって日々楽しみ且愉しい余生です。研究生活って好奇心と道連れではないのですか?
| ポコポコ | 2009/04/19 11:06 PM |
>Oriたんさん、

出産、手術、散髪……
主格が動作主ではない例文も日本語にはたくさんあるのです。

私は、昨日、髪を切った。
私は、昨日、手術をした。
私は、出産を断念した。

いずれも動作主は別でございます。


>ポコポコさん、
貴兄、小生……懐かしい響きですが、そんな方がシャッツファンであったなんて、嬉しい!

てるおか先生は偉大な学者でもありました……。

私はとっくに、好奇心のみに生きる人生と決めておりますよ。
それ以外に、人生に何の楽しみがありましょう。

| タツオ | 2009/04/28 2:10 AM |
私はタツオさんと入れ違いで早稲田に入学し、現在4年生のものです。私も修士に進むことを決めました。専攻分野は数学で、数学の中でも他分野に応用されにくいものです。なぜ数学科に進学したのか、なぜこの研究室なのか(統計分野など実学にすればよかった)、なぜ就活せず修士進学をあっさり決めたのか、などいろいろなターニングポイントでを振り返るたび後悔しています。しかしタツオさんのこの記事を読んで少し自信が湧いてきました。大学の嗜好品が文学部なら、理工学部の嗜好品は数学科に違いありません。早稲田は整数論のメッカと呼ばれているそうです。早稲田理工はそんな嗜好品を大切にしているんだと考えるとうれしく幸せな気持ちになりました。自分は数学者になるほどの頭は持っていませんが卒論、修論に向けて机に向かおうと少し前向きな気持ちになりました。ありがとうございました!
タツオさんの修論や博論は文キャンにあるんでしょうか?機会があればぜひ読んでみたいです。
| 道路 | 2012/12/22 2:44 AM |
>道路さん、

学部時代の唯一の友だちが、数学科でした。6年かかって卒業していましたけども。
おそろしく数学のできるやつでした。おもしろいやつでした。

大学院に進むなら、できれば博士までいってほしいです。
修士で終わる人とか、ホント意味わかんないです。だったら最初から就職すればいいのに、って思います。

| タツオ | 2012/12/27 1:01 PM |