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試し読み

彼女はひとり、なんの縁もない土地で、最後の望みをかけて闘病していた  サンキュータツオ『これやこの』試し読み #2 幕を上げる背中

 「生きていく上で救いのような存在」「涙が止めどなく溢れた」など、発売直後から絶賛の感想が寄せられている『これやこの』。
 漫才師で日本語学者でもあるサンキュータツオが、亡くなった人たちのことを題材に描いた17編の随筆集です。

 ご自身の大切な人、大事な思い出、後悔や懺悔も含めて、さまざまな思いを巡らせるきっかけになるよう、試し読みを公開します。

>>「私は癌になりました。死ぬ前に処分をするので手伝ってください」 #1 黒い店


幕を上げる背中

 私と相方のおりしまは、大学で仲間うちで漫才をやるのにすっかり退屈していて、どこか自分たちを知らない人たちの前でネタをやってみたい衝動にかられていた。かといって、いくあてもなく、お笑いの世界がどういう仕組みで成り立っているのかも、どうすれば漫才をやる場所を確保できるのかも、まったくわからなかった。
 浅草キッドが昔から大好きで、ちょうど出向いた落語会で、浅草キッドが主催するライブが立ち上げられていたことを知った。独特のイラストと、イラストのような文字で書かれたそのチラシには、そのライブで若手の芸人のネタみせをやっていると書かれていた。
 浅草キッドがネタを見てくれるなら、ライブに出られなくても行ってみたい。プロになろうなどとは思っていない状態で、興味本位でそのネタみせに出向いた私たちは、お笑いをなめきっていたと言われても仕方がない。が、とにかく自分たちの力がどれほどのものかを知りたかったのだ。
 当時はお笑いのスクールに通って芸人を志すというのがまだスタンダードではなかったように思う。「ネタみせ」というのがどういうものかを知らなかった私たちは、会場に出向いてはじめて、お笑いの世界で一山あててやろうという本気の人たちに出会うことになる。ある者は所属していたプロダクションに未来を見いだせず退路を断って参加していた。またある者は30歳を目前にして最後のチャンスとしてこの場所にけていた。全員フリー。まだ何者でもない人間の集まりであった。
 このライブは「浅草お兄さん会」というライブで、集まっていた若手たちはまだ世間のだれも知らない、マキタスポーツ、プチ鹿しまさんだいふんひら×2さんぺいくにさくゆーこう、東京ダイナマイトといった面々で、新宿シアターモリエール、新宿シアターサンモールといった場所で、毎月のようにヒリヒリとした戦いを繰り広げていた。いま、ああいうライブはあるのだろうか。ここで私たちは幸運にも出演の機会を与えられた。現在まで続く活動の原点だ。

 ところで、このライブにはもうひとつ募集があった。
 ライブのスタッフ、通称「浅草お姉さん会」のメンバー募集である。実際に存在する「浅草おかみさん会」のパロディだ。それぞれがまた夢を持ったり、なにかが生まれる場所に関わりたいという想いから、そこに集っていたように思う。男に生まれていたら芸人やりたかったとか、浅草キッドをとにかく応援したくてという人もいた。
 なかがわきようさんもそんなお姉さん会のメンバーだった。事務所のスタッフだけでは足りなかったので、ボランタリーな形で客席誘導や舞台ワーク、案内係やアンケート回収までこの女性スタッフたちがやってくれた。つるかわさん、もとさん、とうさん、中川さん、いまでも思い出せる、そんなライブを支えるスタッフとともに、このある意味で「伝説」になっているライブは運営されていた。

「浅草お兄さん会」が終わったあとも、フリーだった私たちのライブを、彼女たちは支えてくれた。私たちも彼女たちにお願いするのが自然のことのように思えたが、いまから考えると大変な面倒をおかけしたと思う。
 人によっては仕事をしながら、あるいは人によっては自分の夢を追いながら、時間を工面して苦労を背負ってくれた。
 なぜ、そこまで支えてくれていたのか。
 浅草キッドという名のもとに集まった私たちは、どこかで奇妙な連帯意識を持っていた。大手プロダクションからは、まるでコンビニに陳列される商品のごとく売れ線の芸人が供給され、女子高生などからのアイドル的な人気に支えられた芸人たちが活躍している一方で、男たちをも熱狂させるお笑いというものが、いまこの第三極にあると、本気で考えていた人たち。それは芸人もスタッフもおなじだったように思う。
 芸人とスタッフの色恋もあったのだろうか。なかったかもしれないしあったかもしれない。しかし私はそういうことには興味はなく、ひたすら仲間であり同志だと思って彼女たちを頼っていた。

 ウケなかったときはその芸人のどこがよいかをさりげなく諭してくれ、ウケたときは母親のように喜んでくれたお姉さん会の面々。私たちのライブの運営の方法があっていようがまちがっていようが、もうこの「縁」でつながっているスタッフは、どこまでも支えてくれたのだった。

 中川さんはその後、私たちも含めた何組かの漫才コンビが主催していた「漫才バカ一代」というライブもずっと手伝ってくれていた。年齢も、ちょうど私たちと同世代。70年代生まれだったと記憶している。かわいいといえばかわいいし、かわいくないといえばかわいくない。ショートカットで、いつもTシャツにジーパン。決してオシャレではなかったけれど、打ち上げではいつもビールを飲んで顔を真っ赤にしていて、れつがまわらなくなる。

 そして、私はそれ以上中川さんについて詳しいことを知らない。
 どこか、ライブという戦場をともに戦った同志に、私事で立ち入らないほうがいいというような感覚が私にはあった。ライブというのは自分たちで育てていくもの。当日までと、当日、だれがどこまで関われるのか。無理のない範囲で関わって、いまできる最上のものを提供する。それに尽きる。それ以上立ち入ると、仲良くなりすぎて慣れ合いになる。私はそれがいやだ。お互いなにを考えているかは、あまり知らないほうがいいと考えていた。感情移入してしまうし、なにかをお願いしたくてもできなくなってしまう。
 そんな意識が中川さんにもあったかもしれない。中川さんはなにも言わなくても手伝いとあればいつもお釣りの用意や招待席の段取り、お客さんの入場の誘導やチラシの挟み込みなど、すべてをこなしてくれていた。劇場のキャパシティに合わせて都度その仕事の調整をしてくれる。こうして私たちは現場を任せてライブの中身に集中することができる。これ以上の責任を負うことはできないということもちゃんと言ってくれていた。スタッフにはこれができない人が多い。「できます」はみんな言えるが「できません」がどうしても言えないのだ。でも中川さんはそれができる。そこがまた頼もしい。
 中川さんがいる空間は、偉そうでも卑屈でもなく、ただ当たり前のように仲間を支える空気と、だれかを楽しませることに関わる優しいきように満ちていた。

「漫才バカ一代」は、U字工事がM-1に出て以降、ほかのメンバーもそれぞれの活動の場所を確保し、仕事が忙しくなり、その役割を全うしつつあった。
 そうして中川さんと会う機会も、連絡する機会も、少しずつ減っていった。
 中川さんのその後のことは、それでもライブで一緒になるメンバーから耳にしていた。
 とある放送局で掃除のおばさんとして働いている、とか、ちょっと病気になって最近は少し休んでいるらしい、とか。そういえば、久しぶりに顔を合わせたときは、少しやせたように思ったけれど。中川さんはだいたい笑顔で「なんでもない」とこたえる人だった。大変だったときは「ちょっと大変だった」と正直に言う人だし。
 中川さんの実家は北海道、さつぽろである。札幌に帰っているみたいだということも、知っていた。
 それでも、私は自分から連絡するキッカケもなく、どこかで会ったときにここ最近どうだったのか、聞くことを楽しみにしていた。立ち入りたくはないけれど、もう付き合いも長い。それくらいはいいだろう。

 2017年6月、札幌に行く機会があった。もし中川さんが札幌にいるのなら、ライブに来てもらおうと連絡をしようと思ったのだ。ところが、札幌に着いたちょうどそのタイミングで、一通のメールが届いた。

「今朝、中川さんが亡くなりました。ひらつかで闘病していたそうです。」

 初夏の札幌、東京に比べて冷房が効いているように涼しいその場所で、私はこの報を受けた。
 もうだいぶ前に、病気は治っていたように思っていた。中川さんからも連絡はなかった。重篤の知らせもなかった。彼女はひとり、なんの縁もない土地で、最後の望みをかけて闘病していた。
 私はしばらく固まってしまっていた。ほどなくして、ともに戦ったあの日々がフラッシュバックした。
 私が中川さんを思い出すとき、中川さんは常に背中をこちらに向けている。
 まもなく開場という劇場のロビーで、これからお客さんを迎え入れるという状態で堂々と受付に座る中川さんである。私はその姿を、リハーサルの終わった劇場の扉を閉めながら眺める。
 まもなく幕が上がる。

 涙が流れない私は冷徹なのだろうか。
 私にはなにかがもっとできたかもしれないし、なにもできなかったかもしれない。この後ろめたい気持ちはなんだ。

 今日もどこかで、ベタベタとした人間関係に流れることなく、だれかを支え、なにかを作り、人を楽しませる「裏方」と呼ばれている人たちがいる。しかし、ともにお客さんを迎え入れ、幕を上げるのはおなじだ。
 私たちは中川さんとともに、まだ何回も幕を上げる。


https://twitter.com/39tatsuo/status/1290124315686367233
お盆までの時期、Twitterで「#これやこの」のハッシュタグをつけて亡くなった人や、ご自身の思いをつぶやくと、サンキュータツオさんが反応してくれるかもしれません。

書誌情報



書名:これやこの サンキュータツオ随筆集
著者:サンキュータツオ
発売日:2020年6月26日(金) ※電子書籍同時発売
定価:本体1400円+税
体裁:四六判並製・264ページ
装丁:國枝達也、カバーイラスト:大嶋奈都子
ISBN:9784044005504
発行:株式会社KADOKAWA
https://www.kadokawa.co.jp/product/321907000688/

目次とそのエピソード

「これやこの」…渋谷らくごを引っ張ってくれた二人の師匠
「幕を上げる背中」…駆け出しの頃を支えたライブスタッフ
「黒い店」…上野御徒町の古本屋の店主と大学生だった自分
「バラバラ」…「早稲田文学」で出会った老作家
「時計の針」…大人になった今思い出す、中学校教師の話
「明治の男と大正の女」…祖父母にしかわからない二人の関係
「空を見ていた」…仲良しだったいとこが残した一枚の写真
「鈍色の夏」…2019年夏、生きる気力を失った自分を助けてくれたもの ほか

著者について

サンキュータツオ
1976年東京生まれ。漫才師「米粒写経」として活躍する一方、一橋大学・早稲田大学・成城大学で非常勤講師もつとめる。早稲田大学第一文学部卒業後、早稲田大学大学院文学研究科日本語日本文化専攻博士後期課程修了。文学修士。日本初の学者芸人。ラジオのレギュラー出演のほか、雑誌連載も多数。著書に『もっとヘンな論文』(角川文庫)、『学校では教えてくれない! 国語辞典の遊び方』『ヘンな論文』(ともに角川文庫)、『ボクたちのBL論』(春日太一との共著、河出文庫)などがある。
サンキュータツオ ツイッター/https://twitter.com/39tatsuo


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