池田理代子×前橋汀子 特別対談 (2)

1967年にデビュー後『ベルサイユのばら』『オルフェウスの窓』などで絶大なる人気を博し、近年は声楽家としても活動されてきた池田理代子先生。そして、国内外で数多くの演奏活動を展開し、世界各国の代表的なオーケストラとの協演も重ねてこられた国際的ヴァイオリニストの前橋汀子さん。名実ともに日本を代表するアーティストのお二人が、この度初めて対面。新型コロナウイルスの影響によりリモートでの対談となりましたが、1960~70年代の風景を紐解きながら、作品、音楽、これまでの活動の軌跡について、語り合っていただきました。(2021年6月23日収録 / 全3回)

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池田理代子×前橋汀子 特別対談 (1)


池田理代子(いけだ りよこ) マンガ家、作家、声楽家。1967年『バラ屋敷の少女』でデビュー。1972年「週刊マーガレット」にて『ベルサイユのばら』連載開始。一大ブームを巻き起こし社会現象となる。1980年『オルフェウスの窓』で日本漫画家協会賞優秀賞受賞。数多くの作品を世に出した後、1995年47歳で東京音楽大学声楽科に入学。卒業後はソプラノ歌手として舞台に立ち、オペラ演出なども手掛ける。2009年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章。 2021年8月には書き下ろし新作オペラ『眠る男』がフィンランドで上演された。短歌とエッセイで自身の想いを綴った最新作『池田理代子第一歌集 寂しき骨』発売中。
公式サイト
http://www.ikeda-riyoko-pro.com/

前橋汀子(まえはし ていこ) 日本を代表する国際的ヴァイオリニスト。5歳で小野アンナに師事後、17歳でレニングラード音楽院に留学、ミハイル・ヴァイマンに師事。これまでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を始めとする世界一流のオーケストラ、アーティストと共演。その優雅さと円熟味に溢れる演奏で、多くの聴衆を魅了し続けている。近年は親しみやすいプログラムによるリサイタルを全国各地で展開。2004年日本芸術院賞。2011年春に紫綬褒章、2017年春に旭日小綬章を受章。使用楽器は1736年製作のデル・ジェス・グァルネリウス。
公式サイト
https://teikomaehashi-violin.com/


人生の経験が音や作品に投影されていく

前橋 『オルフェウスの窓』は、ヴァイオリンの持ち方とか描写がすごく素敵で。こんなこと申し上げていいかわからなかったんだけど。楽器もすごく、きちんと描かれていて。
池田 私は高校時代にブラスバンド部でトランペットを吹いていたので、もともと楽器には囲まれていたんですけど、『オルフェウスの窓』を描くときはやっぱり安いながらもヴァイオリンを買って、フルートも買って、実際に見ながら描いていました。どのように演奏するのかっていうのも、やっぱり実際に演奏していらっしゃる方を拝見して。ピアノは比較的描くのが楽なんですよ。鍵盤がまっすぐでしょ? まっすぐな線で黒鍵と白鍵だけなので楽なんですけど、ヴァイオリンは描くのが難しかったですね。

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(『オルフェウスの窓』集英社版 6巻より)

前橋 なんて言ったらいいのかな。こんな言い方したらいけないかもしれませんが、ある程度形を作ればヴァイオリンには見えますけど、なんか本当に音が出ているような印象になる描き方っていうんですかね。ちゃんとヴァイオリンになってる絵って、あると思うんですよ。だから池田さんの作品はさすがだなと思って。
池田 わぁ、ありがとうございます。今日初めて自信を持ちました(笑)。
前橋 画材は特別なものをお使いになるんですか?
池田 私は画材には特にこだわりがなくて。マンガ好きな人たちに「どんなペンを使っているの?」とか、いろいろ聞かれるんですけど、描いてみて描きやすければ何でもいいという感じなんです。
前橋 そうなんですか。それであんなすばらしい作品が生まれるなんて。
池田 いえいえ。やっぱり私が思うのは、それこそ前橋さんもそうでいらっしゃるように、物心ついた頃から親が与えてくれた本とか、いろんな文化がすべて私の画材になっていると思うんですよね。
前橋 ご自分の中で、40年、50年前と変わってきたことはあります?
池田 マンガ家としては年相応に指の関節も動きにくくなってるから、連載マンガみたいなものはもうお引き受けしていないんです。でも物語を作るのは本当に好きで、短歌をずっと中学生の時から詠んできて、昨年初めて短歌集を出させていただいて。ジャンルが全然違うように思えても、何かを創作したいっていう根っこのところでは繋がっているのかなぁと。

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(『ベルサイユのばら』集英社完全版 7巻より)

前橋 すばらしいですよね。私は創作というんじゃなくて、再現芸術というんですか。作曲家が作曲したものを再現するということですから、創造力ということではないんですよね。
池田 でもずっと生きてこられた人生の経験っていうのは必ず演奏に出ると思うんです。
前橋 ああ。それは私もそうなんだと思います。良くも悪くもその人の性格や人間性が、音であったり作品に投影されるものであるんだろうと思います。
池田 それが人生なんだろうと、悟ったようなことを最近思っています。

音楽院の寮は当時のソビエトの縮図だった

池田 実は私もクラシックのレコードをいっぱい集めているんです。例えば、すごく悲しくて辛いときに聴くのは、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。
前橋 ほんとに?
池田 もう擦り切れるほど聴いていて。作品を描きながら、自分でもピアノを弾いて、音楽をたくさん聴いて、最後に辿り着いたのがそれでした。作品の中で登場人物が言っていますけど、ピアノの場合はすべての基本がアルペジオだと。それから、バッハだと。
前橋 その通りだと思います。
池田 やっぱりバッハの無伴奏とベートーヴェンが、最終的に私は辿り着くところかなぁって。
前橋 究極の言葉です。ピアノの話をしますと、私がいた頃のソ連は本当にすばらしい教育で、今思うと先生たちのレベルも違う。でもそもそも自分のピアノを持って練習できる人ってあんまりいなくて。
池田 そうですよねぇ、あの時代。
前橋 音楽院にあるピアノも、鍵盤がなかったりひどい状態なんですよ。調律もしていないし。なんだけど、国際コンクールで入賞するのはみんなロシアの人なんですよね。恵まれない環境の中でも底知れない精神力があるというか、体力もそうだけど、すごい力なんだろうなって思います。

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(『オルフェウスの窓』集英社版 7巻より)

池田 文学なんかもそうですよね。私は中学生の時に一念発起して、ドストエフスキーを全部読むぞって決めて、ソ連というものにすごく傾倒していたことがあったんです。今でも「あの時代のインテリはソ連が好きだったのよ」って言ってるんですけど(笑)。 やっぱりソ連を構成していた15の共和国ですよね。特にバルト三国なんかはドイツの影響が強かったりするので、そういったところも底知れぬ力を生み出すのかなって。
前橋 私は3年間音楽院の寮に住んでいたんですけど、そこは本当に当時のソビエトの縮図でした。バルト三国、ウクライナ、アルメニア、アゼルバイジャン、キルギスなど、各地から選ばれた才能のある音楽家が共和国を代表して、レニングラード音楽院かモスクワ音楽院に送り込まれるわけです。だから言葉も宗教も食べ物もいろんな物が違っているんだけど、男の子と女の子で分かれてはいますがすぐ隣の部屋で、みんな若いから、ここではお話しできないようなこともあったり(笑)。わりと結婚年齢も早いんですよね。だから寮でも、子供を故郷の親元にあずけて勉強に来ているって人が何人もいましたね。
池田 フィギュアスケートとか、芸術的な要素の多いスポーツだと、今でもロシアは強いですよね。
前橋 やはり身体的にすごく恵まれているということと、教育のシステムがあると思います。私がレニングラードで習ったミハイル・ヴァイマン先生のクラスですと、14人くらい生徒がいて、オープンレッスンなんですよ。日本やアメリカみたいに一対一じゃなくて、レッスンのあいだ誰でもそれを聴けるんです。私なんかはまだ練習途中の曲を、他の生徒に聴かれるのは嫌なんだけど、それもひとつの訓練なんです。そこで度胸をつけておけば、ステージにあがった時に何でもないだろうというようなね。あと、ヴァイオリンの曲ってほとんどがピアノの伴奏がないと音楽として成り立たないので、いつも付き合って練習してくれる専属のピアニストがいるんです。私の先生が学生の頃から働いているような女性だったんですけど、その仕事に生涯をかけ誇りを持って働いている。そういう表には出ないところで支えている人たちの層が厚くて、教養すべてのことに対してちゃんとシステマチックな仕組みがある。好きだから、ちょっと興味があるから音楽院に入るっていうんじゃなくて、あの当時は特に生きるか死ぬかの分かれ道。そこで芽が出なかったら一生ダメだっていうんで、みんな必死に勉強していましたね。

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池田 でも当時、決して開かれた国ではなかったわけですけれども、17歳でよく飛び込んでいかれたなぁって。
前橋 私も自分でそう思います(笑)。でも本当に運が良かったと思います。特に才能があったわけじゃないんですよ。
池田 いやいや!
前橋 いや、本当に。国費での留学でしたから、お金を払って行ったんじゃないんですよね。未だに信じられないんですよ。どうして私が3年間も特別な教育を受けられたのかと。実は当時、せっかく与えられた機会だからと、メソッドを変えたんです。そうしたら弾けなくなっちゃった時があった。私はソリストとしてやっていきたかったんだけど、これではとても無理だなと。だけど「誰もこういう教育を受けたことがないから、習ったことを伝えることはできるかもしれない」と思って、そのメソッドでやることを言われるままにやっていました。でも私、しょっちゅう泣いていたらしいんです(笑)。
池田 そうなんですか(笑)。
前橋 だから向こうも「そんなに辛いことだったら無理にやらなくていいよ」って感じだったと思います。先生はすごくやさしくて、30代半ばだったと思うんですが、本当にみんな今思うと大人。クラスで一番年長の23歳になるサッシャっていう男の子、結婚してたヴァイオリニストがいたんですけど、彼もとっても親切にしてくれて。私は勉強をしに行ったから、行動範囲が学校と寮の往復くらいで、街のことはほとんど知らなかったんです。そうしたら私が日本へ帰る前にサッシャが一日中案内してくれて、写真をいっぱい撮ってくれたんです。こんな写真があるんですけども、わかります? これ17歳の私なんだけど、ここが血の上の救世主教会です。『オルフェウスの窓』を見ていたら同じものが描かれていて。

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池田 そうそう!
前橋 こんな風にいろんなところで記念写真を撮ってくれて「汀子、君が大きくなったらこういう時間を過ごしたことを思い出しておくれ」なんてね。23歳でこんなこと、なかなか言えないですよね。そんなやさしい学生たちと一緒に、何も監視とかはなく自由に生活ができていたんです。

ロシア革命を肯定的に描くのか? 否定的に描くのか?

池田 私が初めてソ連へ行った時は、やっぱり見張りがついていましたね。
前橋 何年くらいですか?
池田 『ベルサイユのばら』が終わってからだから、74年あたりだと思います。インツーリストに登録して、見張りがついていました。当時のインツーリストの極東支局長はすごく怖いおばさんだったんですけど「実は私、今度ロシア革命を描きたいと思っているんです」って言ったんです。そうしたら「ロシア革命を肯定的に描くのか? 否定的に描くのか?」って聞かれて、「肯定的に描きます」って答えたら、普通の観光客が行けないような場所に行く許可を与えてくださったんです。例えば、革命家たちが、秘密の地下でビラを印刷していたところとか。もちろん監視はされているんだけど、とても親切にしてくださって。

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(『オルフェウスの窓』集英社版 6巻より)

前橋 まだレニングラードの時代でしょ?
池田 はい、もちろんレニングラードです。冬でしたし、おっしゃるように灰色のイメージがすごく強いんですけど、スモーリヌイ女学院とか、いろんな建物が雪の中で一番きれいに見えるようにできてるんだよって教えてもらって。
前橋 そう。夏はちょっとね。
池田 冬が一番いいかなぁと思って。でも食べ物も、例えば生野菜のサラダなんて全然ないのね。
前橋 お野菜には苦労しますよね。ホテルに泊まられてたんでしょ?
池田 はい。あの頃のソ連のホテルに泊まったら、その他のどこのホテルに泊まっても怖くないっていうくらいの……。
前橋 でもすごくいいところに泊まられたと思う。
池田 いえいえ! もちろんお湯は出ない、暖房は効かない、隙間風は入ってくるわ、ベッドは壊れてるわで。
前橋 え!?
池田 お風呂場が一番暖かかったから、私はお風呂場で寝るって言ったくらい。あの頃は各フロアにコンシェルジュのおばさんたちが頑張っていて、お湯をもらったりして。懐かしいですねぇ。私はやっぱりソビエト時代のほうが好きですね。
前橋 今はもう全く違う国です。私、今のロシアのテレビ番組を時々見るんですけど、あまりの変わりようにもう同じ国とは思えないですよね。
池田 ロシアになってから、白夜祭っていうのをやってましたでしょ? テレビ番組で(ワレリー・)ゲルギエフと、イタリア人の(ジャナンドレア・)ノセダら、指揮者の方たちにインタビューをするお仕事で行ったんですけど、もうすごくアメリカナイズされていて! あのサンクトペテルブルクの運河を、モーターボートがバアーッと走ったりしていて。まぁ若者たちはそういうものを渇望していたのかもしれないんですけど。

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前橋 あの時代、普通の人たちにとってアメリカは夢の国というイメージがあった。情報が入ってこないから、わからないなりになんだけど。その後ある時期を境にヨーロッパやアメリカから情報が入ってきて。お金はありましたが、お金というものの意味がわかっていなかったんですよね。それでガラッと変わっちゃった。今はすごく貧富の差があるでしょ。そういうことですよね。
池田 初めてソビエトに行った時に、街を歩いていると人が寄ってきてね。ドルを持ってないかって聞くんですよ。交換してほしいって。
前橋 ですよね。
池田 そういう人たちはどういう目的を持っていたんだろう?
前橋 当時ドルショップっていうところがあったでしょ? ドルでちょっとしたものが買えたんですよ。やっぱり人間は基本的に人の持っていないものが欲しかったりするし、お金があればこういうことができるんだってことに初めて目覚めたんでしょうね。目覚めたというか、そういう時代になったから、すべてが変わっちゃって……。いい先生たちも、モスクワやレニングラードにいるより、生活の安定しているヨーロッパのドイツなんかの音楽院に行きたいと、教授の席なんかが奪い合いになった。でも今はさらにそういう時代も終わって、モスクワに戻りたいって人も少しずつ出てきているんですって。
池田 やっぱり、芸術のレベルっていうのかな。教育システムも含めてですけど、ソ連からロシアになったとはいえ、非常に高いなって気はしますね。

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(『オルフェウスの窓』集英社版 7巻より)

前橋 何なんだろうなって考えますね、本当に。これが伝統なのかなとはすごく思いますし、スラブのロシアの音楽、文学もそうですけど、独特の魅力がみんなを惹きつけているのかなぁと。例えばチャイコフスキーも、ロシア人の心そのものなのかなと思ったりするんだけど、ヴァイオリン協奏曲なんかはテクニック的にとても難しい曲なんです。昔レッスンの時に、どうやって弾こうというところばかりに頭がいってたら、ヴァイマン先生に「チャイコフスキーのオペラは観たか?」って言われてね。私は「えっ! チャイコフスキーにオペラがあるの?」ってくらい無知だったんですけど。そうしたら『エフゲニー・オネーギン』を観てこいって。ヴァイオリンコンチェルトの3楽章はまさにそれだと言うわけです。タチヤーナの手紙の場面とかね。ロシアの音楽を理解するには、全く違う角度からも学んでいく必要があって、文学とも繋がっているし、風土も理解しなきゃいけない。私は留学生ですから、少しでもロシアのそういうものを体験していきなさいということで、週の半分以上キーロフ劇場に足を運んでバレエやオペラの演目を観ていました。

VOL.3へ続く
(構成:岡村彩)

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