第1章 殻を破る雛鳥は
第4話 時を超えた情景
鳥は卵の殻を割って出て行こうと戦う。
卵は世界だ。
生れようと欲する者は、ひとつの世界を破壊せねばならぬ。
ヘルマン・ヘッセ デミアン
×
一人の少女が花畑を走り回っている。秋の七草が彩る中を、ひらりと真紅の着物の裾を靡かせる白い少女が。
月のように美しい、どこか遠いところから来た異国の者であるかのような、際立つ美しさ。
——月姫様。
若い男の声が諌めるように言う。その声の主は自分で、自分が乗り移っている誰かのもので、輝夜と呼ばれた少女は膨れっ面でいう。
——お腹が空いたわ。美味しいものをたくさん食べたい!
——わがままですね、私のお姫様は。
青年はそんなふうに微笑んで、そうして視界は暗転していく。
ふと気づいたときには少女は見目麗しい女になっており、銀色だった目は真っ赤に染まっている。全身の裸体には返り血が降りかかり、巻き付いた銀髪が次第に衣類を形成していく。
——信じていたのに。
輝夜がそう言って、なじるように
——お前を信じていたのに。
それが後の世で恐れられる食喰餓神、その忌まわしき伝説の始まりだった。
×
「——づいてのニュースです。燦月市桜花町の西三丁目で起きた事故について、専門家はガス爆発ではあり得ない崩壊であるとの見解を示しており、なんらかの巨大なもので殴られた結果生じたものではないかと指摘しています。
現場の捜査を担当している第三者捜査員からは『ガスが漏れていたところに、火の気がたまたま接してしまった事故である』と説明され、これらの議論はネット上でもさまざまな憶測を呼んでいます。
また、同日ここで見つかった女性の遺体について警察関係者は『捜査中につき現状で話せることはありません』との姿勢を一貫しており、市民は不安を募らせています。続いてこちらの——」
芽黎二十四年 六月十七日 日曜日 一四時一七分
法泉県 燦月市 桜花町 不知家
リビングの一室で流れているニュースを見つつ、月喰姫は未だ眠っている澪桜の腎臓と接続した己の指をそこから外し、一日おきほどで行っている彼のメンテナンスを終えた。
腎臓透析ではない。月喰姫が与えた新しいそれはしっかり機能しているが、問題は妖の——その中でも異質とすらいえる悪神たる月喰姫の因子や細胞が澪桜を内側から捕食してしまわないように行っている、段階的な順化である。
テレビで報道されている、桜花町三丁目で起きた謎の無人ビル崩落事件は、当初経年劣化したガス管の事故とされていたが、現在では怪現象として世間を賑わせていた。
あの場で散った人外の血と澪桜の血は月喰姫が全て
昨晩は晴れていたが、今日は十一時を回った頃からまた雨が降り始め、月喰姫は非常食として保存していた、邪念を多く含んだ人間の大腿部を食べていた。
腹を満たす上で、彼女の酵素の都合上人肉が適しているのが挙げられるが、一番は悪意などと結びついた妖力因子が最も多く含有されているのは、人間の肉に他ならないからというのがあった。
悪意、憎悪、邪念——それが月喰姫の力となる。そしてそれらの負の感情を効率よく摂取するには、人の肉、あるいは妖の肉を口に入れるのが手っ取り早かった。
鉄分を取るときにレバーを食べるように、月喰姫は力を取り戻していくためにこれらの負の感情を得ようと人肉を欲する。
そして、それを続けた結果肉体が変化していき、人の肉を捕食することによって効率的に活動できるそれへとなったのである。
もぞりと澪桜の腕が動いた。かけていた薄手の毛布をどかした彼は、ゆっくりと目蓋を持ち上げて月喰姫をじっと見上げる。
しばらく月喰姫のことを見て、周りを見て、それからふと——
「輝夜嬢月姫——、
その、懐かしい名前を。
「澪桜……? どうしてそれを、」
「あ……いや、さっきまで見てた夢で、その……」
「夢……そっか。うん、……それは、私の古い名前でね。まさか今の世にもその名で読んでくれる男が現れるなんてね」
「……姫、俺はどうなったの」
月喰姫は「輝夜と呼んでくれ。輝夜嬢月姫、それがいい」と言った後で、「ああいや……そうだな、輝夜月喰姫、そう名乗っておこう」そのように訂正した。
「澪桜の腎臓はズタズタに引き裂かれていたんだ。治すことは無理だし、あの状況でまっとうな病院なんて受診できないし、できたところで治せないだろう? 人工臓器だなんて、いくらかかるかわからないし製造にも時間がかかる」
「結論としては、どうなってるんだ」
澪桜はシャツを捲って、傷口を見た。
裂けた皮膚は歪に縫合されており、そこには糸も針もないが、はっきりと何かを出し入れした痕が明確に刻まれていた。
「私の細胞から培養した腎臓をあてがって、代替臓器として移植した。結論を言うと、澪桜……君はあのときあの瞬間から、半妖になったんだ」
もう一度脇腹の傷跡を見る。
触れて、なぞって、皮膚に触れた。
少し硬い気がする。押し付けると肉の弾力の内に、なにかそれに対して反発するような感覚があった。
体が異物に拒否を示している、免疫の反応の上では正常と言えるものだろう。
「定期的に私がメンテナンスしないと、細胞が異常な挙動をする。……ごめんね、こうする以外に助ける方法がなかったんだ」
「いや……大丈夫。あのさ、」
あの男の人は誰。
夢の中で月喰姫——輝夜に親しげに接していた、澪桜が憑依する形で体感していたあの青年。
顔も名前もわからない。けれど周囲の風景や、輝夜自身の衣類からして遠い昔であろうことは想像に難くない。
「あの男が気になるかい?」
「……うん」
言い当てられた。
ここで拒否すればいかに女々しいか——そう思って、潔く認めた。
輝夜は薄く、まさしく酷薄に微笑んで言った。
「千年前、私を封印した忌まわしき術師だよ」
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