「慰安婦」問題 すべての疑問に答えます。
アクティブミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)
合同出版
2013-10-30


この本に城田さんのことが載っていました。
なんと「中学生向け」の本なのだそうです、これ。
ざっくり見ただけでいろいろ思うこともありますが―。それはさておき、


「Q、どのような女性たちが、どこへ連れて行かれたのですか?」の章に、日本人の元慰安婦として城田すずこさんが取り上げられていました。

城田さんが何者かに「連れて行かれ」て慰安婦にされた、などという事実はないのですが、とりあえず、城田さんの証言として掲載されている内容は、彼女の自叙伝「マリヤの賛歌(1971年)」に基づいたものです。

1984年、城田さんが”戦後40年にして初めて「従軍慰安婦」であることを告白した手記”と流布されている、「石の叫び」という文章は、慰安婦のために慰霊塔を建ててほしいという気持ちを語ったものとして、その気持ちに触れた部分が取り上げられているだけです。「女の地獄」ということばもカットされています。

城田さんがかいた、鎮魂碑のイメ-ジイラスト(1980年)、十字架に女性が磔刑にされているイラスト(1984年頃)、韓国の金学順が名乗り出たニュ-スを聞いて書いた手紙「よく思い切って名乗ったわ・・・その人に会いたい気がするわ」(深津夫妻あて1991年)、吉見義明氏が日本軍の「慰安所」関連の公文書を発見したというニュ-スに、「出てきましたね、出てきたわ」と大喜びしている手紙(深津氏宛1992年)~
すずこ1
なども掲載されていますが、「石の叫び」を記したものは見当たりません。

このことから、城田さんの慰安婦としての証言は、「マリヤの賛歌」(1971年)に尽きると言えます。
「女の地獄」というおどろおどろしい言葉が出てくる、「石の叫び」は、城田さんが「元従軍慰安婦」であった体験を証言したものではないと結論付けられます。


以上から、1986年に放送されたTBSラジオ放送「石の叫び」 
(魚拓https://web.archive.org/web/20140310070551/http://bunka-isan.awa.jp/About/item.htm?iid=413
(=城田すずこさんがパラオで「慰安婦」をしていたものとして証言していたり、詐話師吉田清治まで出演して「慰安婦狩り」を証言していた番組)
は、完全にプロパガンダであったことが証明されました。

であるとすれば、この番組は捏造した内容で、寄付を募った(TBSラジオカンガルー募金石の叫び募金)のですから、視聴者を欺いた詐欺番組だったと言っても過言ではないでしょう。

偽りの証言で寄付を募ってだまして集めたお金で建てられた「噫従軍慰安婦」の碑は、今となってはプロパガンダ活動家たちからも批判されて死語と化しつつある、「従軍慰安婦」ということばで象徴されるように、まさに「従軍慰安婦プロパガンダ」を象徴する碑といっていいでしょう。

慰安婦のために鎮魂碑の建設を願った城田さんは、天国でこのことをどのように思っているのでしょうか。

※「慰安婦問題~」の城田さんに関する記述は以下のようなものです。

裕福だった家が没落し、神楽坂の芸者に~(略)
台湾の馬公に「海軍御用」の遊郭は20軒ほどあり、娼妓が15人の常盤楼にいれえられました。馬公支庁から観察をもらい性病検診を受け「品千代」と呼ばれて奴隷の生活が始まりました

土日には兵隊が列を作り、一人の女に10人も15人もたかります。
外へ出るには外出許可証と交番の観察が必要でした。でも8か月働いても借金は全然減りません。

何とか脱出しようと、一人の客をだまして多額の送金をしてもらい帰国しましたが、義母は私を家にもあげてくれず、弟たちは上と病気に苦しんでいました。

弟たちを救うお金を作るためには、南洋の慰安所で働くしかありませんでした。
サイパン島ガラパン町では、「美佐子」という名で、トラック島では「見張亭」で、パラオでは紅樹園(マングロ-ブ)で働きました

紅樹園では朝鮮と沖縄の女の子たち20人の海軍特要隊の世話を任されて、帳場でチケットを売りました。そのうち激しい空爆が始まり、私たちは兵隊さんと助け合いながらジャングルで暮らすことになりました。

空爆で死んだ子もいます。

しだいに食べ物も乏しくなってきましたが、日本軍の部隊から「生き残った陸海軍兵士のために慰安所を」という話が出て、軍属の工作班がジャングルの中に家を建てました。

はこの紅樹園支店のおかみをつとめました。そして敗戦。アメリカ海軍のLSTに載って浦賀に引き上げたのは1986年3月です。パラオから最後の引き揚げでした。

戦後のすさんだ生活~(略)
(~キリスト教系の更生施設慈愛寮~洗礼~手術~深津文雄牧師と出会い~婦人更生施設いずみ寮~かにた婦人の村へ)

私はここ(かにた婦人の村)で編み物や読書をしてラジオを聞き、日記や手紙を書いて暮らしました。自分の半生は「マリヤの賛歌」(1971年)にまとめました。

戦後40年も経った頃、祈っていると戦時中の同僚たちの姿が浮かび、耐えられなくなってきました。「慰安婦」のことは日本のどこからも、ただの一言も声が上がりません。思い余って深津先生に「どうか慰霊塔を!」と言ったところ、桧の鎮魂の柱を建ててくれました

これがマスコミに取り上げられて寄付金が集まり、86年には「噫従軍慰安婦」と刻んだ石の碑が完成。やがて韓国から「慰安婦」にされた人が名乗りを上げました。
大勢の「慰安婦」の霊のために祈りましょう。それが戦場から抜け出て、生きながらえている者の務めだと思います。
「奴隷の生活が始まりました」というのは、マリヤの賛歌の文脈では比喩的に使っていることばですが、おおむねマリヤの賛歌の内容どおりです。
トラック島へは好きな海軍兵士を追って行ったこととか、鰹節と精米工場の2号さんになったこととかは、もちろんカットされています。

ところで、日本人元慰安婦の手記なら、トラック島で海軍直営の慰安所で働いた芸者菊丸さんの手記の方が、まさに「旧日本軍慰安婦」としてふさわしいと思います。

                                             続く