マリヤ
マリヤの讃歌 (1971年) [-]
城田 すず子日本基督教団出版局


以下、参考のため城田すず子さんの履歴をマリヤの賛歌を中心に記しておきます。

城田すず子(仮名、1921年6月30日 - 1993年)さんの履歴
東京の下町でパン屋、喫茶、中華料理屋を営む家に生まれる。
小学校卒業後共立女子職業学校に入学。商売を切り盛りしていた母親がなくなると、家業が傾きだす。

父親が伯母のお菓子工場の借金の保証人になっていたことで、裁判になり店が差し押さえに。父親は競馬に凝るようになる。
父親は焼き鳥屋をやってみたりするがうまくいかず、すずこさんは神楽坂の芸者屋へ。17歳(数え?)。 
その後父親は芸者屋から借金を続ける。

「水揚げ」の際、淋病をうつされる。淋病性腎盂炎となり40度の熱がでるが、お金が心配なので入院せず芸者屋でひと月以上床に伏す。

芸者屋では大変なので横浜の遊郭への住み替えの話が出る。その時借金は1800円だった。

しかし当時の遊郭では3年契約で500円しか貸してもらえず、1800円もの大金を出してくれるのは台湾か南洋向けであることを知る。

しばらく横浜で働くが借金は減らず、台湾から馬公の常盤楼の主人夫婦が来たことから、顔見世をして台湾に行ってみないかと周旋屋に言われる。
家族に相談するが、父親はどっちでもいいという調子で、祖母からは「変なところで働いている」と冷たい扱いをされたことなどもあって、台湾行を決意。

常盤楼から2500円借りて神楽坂の借金を返し、700円を父親に渡して台湾に渡る。18歳。

◆台湾へ

横浜から、港(神戸)まで行く汽車の中で、すずこさんが「行きたくない」と言い出したので、常盤楼の主人が警戒してトイレにまでついてきた。主人も一番金高が高かった彼女に逃げられてはと思い、チョコレ-トを買い与えたり、台湾のビ-フンのことなど面白いことを話してなだめすかし、結局すずこさんは腹をくくる。
神戸から乗った船の様子は―

一緒に行く人は7人で20~30歳。皆相当なあばずれで私一人すれていませんでした。
・他の女の子7人は、あばずれた姿で煙草をふかしていました。(あばずれたちは)私をてんでこどもあつかい 
船は3等でまわりは台湾に出稼ぎに行く人ばかり

・そういう連中ばかりが船の中でヘンな歌を歌ったり、寝転んで南京豆をかじったり、煙草を吸いながら花札やトランプをしていて、私を誘い込もうとするのです。

この人たちはまた、ボ-イさんのところへ行って物をもらったり、「一足先に台湾に着いた」などと冗談を言っていました。(「あばずれ」姐さんたちは台湾に着く前から船内で「お商売」をはじめていたようです)

なお、高雄から馬公まで小さな船に乗っているが、そこでは船長が常盤楼の娘婿だったこともあり「ふつうのお客さんより良い部屋に入れ、いろいろと御馳走をしてくれました。台湾のジャボン、バナナなど食べ放題」などと書かれている。

◆台湾の「海軍御用」の遊郭―土日は人肉の市

馬公では城外と城内に分かれており、すずこさんたちが入ったのは城内。その北のはずれに「海軍御用」と書かれた遊郭が20軒ほど並んでいた。

馬公についた翌日、常盤楼の主人に付き添われて、馬公市長に娼妓の鑑札をもらい、
名実共に奴隷の生活が始まりました」、

普通の日は泊りを一人とればよい方でしたが、土曜、日曜になると、列を作り、競争で遊ぼうとしました。ほんとうに人肉の市で、人情とか感情とかは全くなく、欲望の力に圧し流されて、一人の女に10人も20人もたかるありさまは、まるで獣と獣の闘いでした

「昼間、私たちが外出するときは、まず帳場に行って楼主のハンコのついた外出許可証をもらい、それを持って派出所に行って、鑑札をもらわなければなりませんでした。それがないと、遊郭の女の人は、城内から城外に出られないのでした。帰って来ると、また交番に行って鑑札を返してこなければならず、まるで監視されているのでした。」

かなり苦しかった様子。外出するときは派出所で鑑札をもらう必要があったが、「女性が逃げ出さないように軍当局が厳重に監視していた」、といったことは書かれていない。
「半年がんばっても借金が少しも減っていなかった」、とあり18歳のすずこさんにはつらい勤めだったでしょう。

一方で、軍艦勝力の兵士とプラトニックラブの間柄になったという、ほのぼのとしたエピソ-ドも書かれている。

●脱出―客の男に泣き付いて金を工面 いったん帰国

沖縄出身の御用船船乗りと親しくなって、その男に泣き付いて、その男が旅立ってからも手紙を書きまくり、最終的にお金を送ってもらって借金を清算することができ、一旦帰国。
(後にサイパンでこの男性から結婚詐欺で訴えられる)

しかし、実家は父親が継子の面倒をまるで見ない後妻(?)を家に入れ、兄弟は祖母の家などに離れ離れ。弟の一人が結核療養所に入院していることもあり、経済状態は悲惨なものだった。
結局、すずこさんは家族のためにふたたび自分の体を担保に、3000円借金しサイパンに渡ることに。

◆サイパン~思ったよりのんびり。海軍兵士と再会。

・勤め先については、「日航の機長さん」からひいきにされた」、「直接自分の身を使わなくても、宴会とか接待に行って借金が面白いように減った」。
・生活については、「思ったよりのんびり」、「南洋の空のように朗らか」、「金銭の苦労のない贅沢三昧の暮らし」。

・台湾時代にお金を工面してくれた沖縄の男性から告訴状が出されたが、毎月少しずつ返済することで和解。
・そして、「平穏無事な半年ほど」が過ぎたころ、台湾時代に知り合った軍艦勝力の兵士と再会。恋仲に

・しかし、勝力がサイパンに来なくなり、兵士に会えなくなってしまう。城田さんは、勝力がトラックに行っているらしいと聞きつけ、トラック行きを決意。

・借金は、示談の分も含めて2500円。新島という人物の周旋でトラック夏島の「見晴亭」へ住み替え。(20歳?)


◆トラック~海軍兵士を追って。鰹節工場・精米工場経営の社長の2号に。

・トラックでは、料亭と遊郭をやっている「見晴亭」で働く。「『軍艦勝力の好きな人を追いかけてきた女がいる』ことが評判になって店が賑わった。」。

・彼女と同じ店にいたのは、「純粋の東京っこは私一人で、あとは九州、朝鮮、沖縄の人」、「でも海軍将校の慰安所には横浜近辺からの人もいて、トラック病院の週一回の検査の日にはその人たちが私のところにわざわざ尋ねて」きたり、自分からも尋ねて故郷の話をした。

・待てどくらせど、恋い焦がれる勝力の兵士には会えず、悶々として南洋の月がこうこうと照らす夜の波止場で物思いにふけった、


・トラック島の人は沖縄の人が多くて、皆素朴でいい人でした。


・そして、ある日自分を指名した鰹節と精米工場を経営している社長に身請けされ、その社長の2号さんになる。


・そのうち、戦況があやしくなったため社長の勧めもあって一旦帰国。再びトラックに戻ろうとするが、トラック行の船はないためパラオ経由で行くことに決め、パラオ行の船に乗る。

・船には海軍特別慰安隊の名目の若い女の子が20人乗っていた。戦争の気配が刻々としていた。船の周りを駆逐艦などが包囲し、ジグザグ航路でやっとパラオに入港。


パラオ~慰安所の帳簿係兼世話掛。女将に。
パラオに着いた後、戦況がますます厳しくなり、トラックへは渡れず、パラオに足止めに。宿泊していた「紅樹園」のおかみに仕事先を相談。慰安所の帳簿係兼女の子たちの世話掛をすることに。

紅樹園の経営者はサ-カス興行師でもあり沖縄出身の男性。
コロ-ルの慰安所の女性たちは城田さんがパラオに来るとき、横浜港から同船した若い女の子20人で沖縄と朝鮮の女性たちだった。

戦況は増々悪化。サイパン陥落の報も聞く。やがてパラオにも激しい爆撃が行われ、すずこさんたちは砲弾の下を逃げ回る日々となる。爆撃によって慰安婦3人が死亡する。すずこさんは経営者の3号さんになる。

洞窟の中で避難生活をおくったり、洞窟の上の基地が爆撃を受けて兵士の遺体がバラバラに飛び散るなど、壮絶な日々が続く。爆撃機から感知されないジャングルに逃げ込み、ここでも慰安所が作られ、その女将になる。そして終戦。

このパラオでの慰安所のことを、なぜか、後にすずこさんは「慰安婦」として証言することになる(1986年TBSラジオ放送「石の叫び」)。そのため、 でとりあげたように、すずこさんを利用したプロパガンダには種々の矛盾が生じる結果となっている。

◆終戦~帰国~パンパンに
すずこさんが日本に帰ったのは昭和21年3月。その頃RAAは閉鎖。
その後すずこさんはパンパンなどをして流転する。ドウス昌代が立川で彼女に話を聞いている(たぶん)。木村芳恵(仮名)という売春婦である。ただ、何時頃の事なのか不明であり、すずこさんの「マリヤの賛歌」には立川にいた事は書かれていない。

木村芳恵(仮名)はそんな女の一人である。長い髪に電気パ-マをチリチリに掛けて、後ろに流していた。146センチほどの背丈である。
深川のパン屋に生まれ~(中略)~パラオ島のジャングルで終戦を知った。
浦賀に引き上げて来ると、思いがけなく商売が繁盛していた。ジュリ-と名を替えて町角に立つ。生きていくためには、それ以外の道を知らなかった。

手真似身振りで米兵の目をじっと見詰めれば商売が成立した。町角の女たちの前歴は酌婦かだるま芸者、日本軍の慰安婦などと似た経歴の者ばかりだった。初めは素人を見かけなかったと語る。 「敗者の贈物」ドウス昌代p184

この時期のすずこさんの人生もかなりハ-ド。主として米兵相手の売春、ヒロポン、バクチetcなんでもありの様相。
熊本ではジミ-という米軍将校のオンり-になるも、彼はワイフのいる本国に帰国し、捨てられ、自暴自棄になって自殺未遂。(27.8歳)
その後も売春で生きるが、客として知り合った年下の男と恋仲になり、無理心中を図り自分だけ生き残る。
魂の抜けたような日々のある日、母親の墓参りに訪れ、和尚さんから妹が自殺したことを知らされさらにショックを受ける。
すずこさんが和尚さんから聞かされた妹さんの話。 

「~京子ちゃん(妹さん)もせっかく苦労して夜学を出て、お産婆さんの資格も取って、看護婦さんの資格がないと開業できないというので、看護婦さんの勉強をしているときに練馬の武蔵の病院で自殺しちゃったんだよ。どうも何だか体の具合が悪かったのを苦にしたらしい」。

それを聞いて、頭を鉄槌でうたれたようでした。どうして私だけが何回自殺しても何で私だけ死ねないのか。気狂いになるほどの悲しさでした。


混乱する心を抱えながらも、生きるすべは売春しかないが、子宮内膜症を患ったこともあり借金が増えてしまう。
本牧で売春を続ける。
そして、体も性病でぼろぼろになり、ある日たまたま目にした週刊誌で更生施設の事を知り、矯風会慈愛寮に入寮する。

◆慈愛寮~いずみ寮~かにた婦人の村。 キリスト教、開腹手術、脊椎骨折、自叙伝―
1956年 病床で洗礼。数日後開腹手術。女性の臓器を全て失う。
1957年 慈愛寮から出るが、まともな仕事も見つからず転落の淵に立ちかけたとき、深津文雄牧師と出会う。

・行くところもなく困惑している彼女を見て、「売春婦だ」と思った。(棄てられた女たちのユ-トピア「人の砂漠」沢木耕太郎)

・病み上がりで深津氏をたずねている。深津氏は、「顔ばかり大きく、手足の発達が遅れ、何とも異様な感じを受けました」と言っている。 氏は彼女のながい慰安婦暮らしのゆえの、後天的な姿態の歪みを知っていたのだろうか。(「占領軍慰安婦」山田盟子←注;深津氏がこんなことを言ったかどうか信憑性はうすい)

その後、深津氏はすずこさんの要望などもあって、彼女のような女性が暮らしていけるコロニ-の建設に乗り出し、それが、のちのかにた婦人の村の建設につながる)

1958年いずみ寮に入寮。 (梅毒による)脊椎骨折のため入院。その後6年4か月もの間寝たきりに。
寝たきりの病床で後に「マリヤの賛歌」となる自叙伝口述筆記。

マリヤの賛歌(71年) まえがき (深津文雄牧師)より
これ(=「マリヤの賛歌」)は、~はじめ、キリスト教界女性リ-ダ-の)久布白オチミ先生が目をつけて「なんともかぐわしい美談だから映画にしようといわれた。
そのため、いそいで、一人の奉仕女をつけ口述筆記させたのである。ところが映画化は沙汰やみとなってしまった。
ある雑誌社がきて、これを大々的に要約したこともある。
また、ある出版社が、少し書き換えて本にした。(これが62年の「愛と肉の告白」)
1962 自伝「愛と肉の告白」桜桃社
「マリヤの賛歌」を「少し書き換え」たもの。書き換え部分の信憑性は不明。自叙伝のオリジナル「マリヤの賛歌」の方が後で出版される。
1965 かにた婦人の村に入所
1971 「マリヤの賛歌」出版(日本基督教団出版部)
出版の経緯~まえがき(深津牧師)より
・「かなり穢いはなし」である。

「城田すずこは、世にも珍しい、 ただれた経歴を持つ遊女なのである。そんな物語を、どれだけ忠実に、日本キリスト教団の出版局から報道できるか、おのずと限界が感じられる」しかし、「ぜんぶ、このままでけっこうです」ということになる。

・「本人がまるで乗り気でない。いやとは言わないが、ぜひとも言わない。悟りきっていて、そんなことどうでもよい―という。それもそのはず、この物語は~腰柱骨折で倒れたところで終わっている。・・・・ということは、まだ、そのあとに、12年余りの歴史がある。それこそが、彼女の偉大さを証明する闘病と祈祷の記録なのである

(深津氏は闘病と祈祷の12年間の記録を付け加えたかったが、日にちが経ってしまうので「不本意だが、未完のままで」出版することに)

・「わたしは、いまここに、こういう形で、この物語の原型が公表されることを、よろこぶ。そして、読みにくいと感ずるところも、手を加えることをしない。われわれのところには、これにいた話がいくつもあるが、その代表的な一例として、ありのままを見ていただきたい。」

1972年 沢木耕太郎氏等によるかにた婦人の村のルポが「棄てられた女たちのユ-トピア」(人の砂漠)に収録されている。 城田さんについての記述はあるが、約2週間の密着取材にもかかわらず、城田さんは病状が悪いため一度も直接会えずに終わっている。

1984年 「石の叫び」~深津牧師への手紙のなかで「(従軍)慰安婦」であったことを告白(?) 

・城田さんの自筆の手紙は未確認(大高氏・正論5月号)。 
文章に様々なバ-ジョンがあり、原文がどれかはっきりしない。 
・いつ、どこで、何をした、など、彼女自身の体験を具体的に語ったものではなく、また彼女が体験しうるはずもないことを語っている。
・この一年余り(慰安婦が出てくる?)夢でうなされていたことから、慰安婦のための碑の建設を願う。
(一年前からというと、1983年の吉田清治の「私の戦争犯罪」などの影響も?)

城田さんの証言を受けた深津牧師の反応、証言後の城田さんの様子としてネットで以下のようなものがある。

「深津牧師は証言を聞き衝撃を受け、1年間眠ることができないほどだった」(天羽道子シスタ-談)
htt://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/1249364.html


深津牧師は「言葉がなかった。天皇の軍隊が隣国の少女をも欺いて行った、極めて悪質な罪悪だが、誰もその責任を取ろうとしない」と記し、「日本男子たる者すべて、老いも若 きも、直接関係した者もしない者も、これから再びこのようなことをしない決意表明が求められているのではあるまいか」と書き残した。
“橋下氏との対面拒否 ハルモニの消えない「痛み」(東京新聞:こちら特報部)
http://www.asyura2.com/13/senkyo148/msg/280.html

「日本のマスコミの取材は極力受けないようにしていました。体調が悪かったこともありますが、やはり興味本位なマスコミが多かったものですから。でも韓国からの取材は極力受けるようにしていました。同僚の『慰安婦』に朝鮮人が多かったものですから。『声を発してください』というメッセージだったのかも知れません」
(天羽道子シスタ-談)
リブ・イン・ピース☆9+25 カラン
(なお「マリヤの賛歌」からは、「同僚に朝鮮人慰安婦が多かった」ことを示す記述はない)

(「告白」の心理の一つとして)パラオで長年の経験を買われて他の「慰安婦」の世話係をしたことで、「日本人女性、それも管理者として彼女は生き延びた。死んだ彼女らを思って、日本人としての責任を感じるようになったためではないか」(WAM運営委員長の池田恵理子)
wamシンポジウム「慰安婦」にされた日本の女性たち〜沖縄、そして城田すず子さんを語る〜2008/05/24http://voicejapan2.heteml.jp/janjan/living/0805/0805237690/1.php(リンク切)

1985年 「石の叫び」かにた便掲載 。 「マリヤの賛歌」復刻版(かにた出版局)の深津氏によるあとがきに唐突にも掲載 

1985年8月15日 深津氏、「鎮魂の碑」と墨書した一本の木の碑をたてる。柱の礎石には贖罪と刻んだ大谷石が埋められた(らしい)。

84~85年ごろ「日本の総理大臣は『慰安婦』に対して謝罪すべきだ」と書いた内容の総理大臣あての手紙を書く。深津牧師は投函を頼まれるが、投函しなかった。山下英愛はこのすずこさんの手紙を持っているそうだ。
(山下英愛「日本人慰安婦問題が投げかけるもの―城田すずこさんとの出会いと私の原点」)

1986 1月 TBSラジオドキュメント「石の叫び~ある従軍慰安婦の記録」放送。
これがきっかけで寄付があつまり、木製の碑が「噫従軍慰安婦」と書かれた石碑に。
”そのモニュメントは今も、「慰安婦」を神としてまつることをかたくなに拒み、二度と再び「性」を天皇の名において戦争に利用しない決意を、見る者に訴えている。このような形で、深津は城田の願いを実現した。”(キリスト教会の「パンパン」言説とマグダラのマリア」荒木英子)
1988 挺対協 伊貞玉 碑を訪れる。(城田さんの具合が悪かったため面会はなかった?)
1990 韓国KBSテレビドキュメンタリ-「沈黙の恨」(「太平洋戦争の魂~従軍慰安婦」としてNHK国際放送でも放送)城田さんも証言。番組の最後に深津氏が名乗り出を強く訴える。

その他、

1980年代後半(?)山田盟子 城田さんと面会、5分間のみ(「慰安婦たちの太平洋戦争」にこの時の事が書かれている。山田の質問もどうかと思うが、城田さんもあまり精神状態がいいようには見えない)
1990年前後 山下英愛面会。
体中が病んでいても、とても明るい笑顔で迎えてくれた。”韓国にもお葉書を下さって「慰安婦」問題の運動が始まったことを喜んで下さっていた”(日本人慰安婦問題が投げかけるもの)

・91年に金学順さんが名乗り出たときや、吉見義明・中央大教授が慰安所設置に日本政府が関与した資料を発表したときも大喜びしていた

「城田さんが十字架に女性が磔(はりつけ)られている絵を描いている」のを見て衝撃を受けた(WAMの東海林路得子)

wamシンポジウム「慰安婦」にされた日本の女性たち〜沖縄、そして城田すず子さんを語る〜2008/05/24
http://voicejapan2.heteml.jp/janjan/living/0805/0805237690/1.php(リンク切)

1993年 逝去

その後も活動家たちによって、その「証言」は様々に利用されている。それが彼女の望んでいたことなのかどうかは知る由もない。









元慰安婦城田すず子さんの証言⑧ 「証言」という不確かさ

参考文献;
『マリヤの賛歌』(日本キリスト教出版局 1971)城田すず子
『元日本人慰安婦を「性奴隷」にしたいやらしい面々』(正論2014/5)大高未貴
『占領と性 政策・実態・表象』(インパクト出版会 ) 恵泉女学園大学平和文化研究所編荒井英子「キリスト教界の「パンパン」言説とマグダラのマリア」
沢木耕太郎『人の砂漠』(新潮文庫 1980)
秦郁雄『慰安婦と戦場の性』(新潮選書1999)
吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書1995)
広田和子『証言記録 従軍慰安婦・看護婦』(新人物往来社1975)
山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争』(光人社 1991)
山田盟子『占領軍慰安婦』(光人社1992)
伊貞玉他『朝鮮人女性が見た「慰安婦問題」』(三一新書1992)
山下英愛「日本人慰安婦問題が投げかけるもの―城田すずこさんとの出会いと私の原点」(戦争と性第28号2009/夏 戦争と性編集局)

ドウス昌代『敗者の贈物/国策慰安婦をめぐる占領下秘史』(講談社文庫1995)

『日本のキリスト教会と戦争責任―日本基督教団の「戦責告白」を事例に』竹ノ下弘久
1986年TBSラジオ放送「石の叫び」(安房文化遺産フォ-ラム(館山まるごと博物館))(残念ながら削除)
 (魚拓https://web.archive.org/web/20140310070551/http://bunka-isan.awa.jp/About/item.htm?iid=413
(城田さんの「愛と肉の告白」と深津文雄牧師の「小さき者たちへ」があるとなお良かったのですが・・)