元慰安婦城田すずこさんの証言⑤からの続き。
大高未貴さんの正論5月号の記事の感想をちょっと書くつもりが、⑦までひっぱってしまいました。
◆二つの「石の叫び」
1984年、城田さんが深津牧師にあてた手紙で、「従軍慰安婦」であったことを告白したとされる「石の叫び」と呼ばれる文章に、2つのパタ-ンがあることがわかりました。
二つの「石の叫び」とは以下のものです。
ひとつは、これまで拙ブログでも引用したタイプ。多少の違いはありますが、ほとんどがこのタイプです。
①石の叫びもうひとつは、こちら。
「終戦後40年にもなるのに、日本のどこからも、ただの一言も上がらない。兵隊さんや民間の人のことは各地で祀られるけれど、中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、散々弄ばれて、足手まといになったらおっぽりだされ、荒野をさまよい、凍てつく山野で食もなく、野犬か狼の餌食になり、骨はさらされ土になった。
・・・・南方の島々に行った女たちも、それに負けない非道い目にあった。
・・・・軍隊が行ったところいった所、慰安所があった。
・・・・兵隊さんは1回50銭か1円の切符で列を作り、私たちは洗う暇もなく相手をさせられ、死ぬ苦しみ。
・・・・何度兵隊の首を絞めようと思ったか、半狂乱でした。
・・・・死ねばジャングルの穴に捨てられ、親元に知らせるすべもない有様です。それを私は見たのです、この目で、女の地獄を。
一年ほど前から、祈っていると、かつての同僚がマザマザと浮かぶのです。私はたえきれません。どうか慰霊塔を建てて下さい。それが言えるのは私だけです。生きていても、そんな恥ずかしいことを誰も言わないでしょう。」
②石の叫び 戦後40年,ひとりの女性の告白より
「深津先生へ…軍隊がいるところには慰安所がありました. 看護婦とみまがう特殊看護婦になると将校相手の慰安婦になるのです.
兵卒用の慰安婦は一回の関係で50銭,また1円の切符を持って列をつくっています. 私たち慰安婦は死の影とともに横たわっていました. 私たちは洗うひまもなく,相手をさせられ,死ぬ苦しみ. なんど兵隊の首を切ってしまいたいと思ったかしれません. 半狂乱でした.
…戦争が終って40年にもなるというのに,戦死した兵隊さんや民間の人のことは各地で弔われるけれど,戦争で引っ張られていった慰安婦に対する声はひとつも聞えてきません.
中国・東南アジア・南洋群島・アリョーシャン列島で,性的欲望のため体を提供させられた娘たちは,死ねばジャングルの穴に捨てられ,親元に知らせるすべもない有様です.
途中で足手まといになった女はほっぽりだされ,荒野をさまよい凍てつく山野で食もなく,野犬か狼のエサになり骨はさらされた土になり,粉々に砕けた手足は陣地の表示板になりました. それを私は見たのです. この目で,女の地獄を….(以下略)
南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム『あわ・がいど(1) 戦争遺跡http://bunka-isan.awa.jp/About/?iid=129』 p.44-45より(従軍慰安婦を論じる)http://ianhu.g.hatena.ne.jp/bbs/4/65より
2種類あるということは、少なくとも、二つのうちどちらか、あるいはどちらも改ざんされている、ということで、原文に手を加えて公表している人間が存在する、という証拠でもあります。
最初から、プロパガンダにまみれだったのでしょう。この文章に対する一切の幻想をはぎ取るべきですね。
①のタイプで「私たちは洗うひまもなく~」のところが、「女(たち)は~」になっているものもあります。
パラオでの「やり手婆」としての慰安婦たちへの「疾しさ」が碑の建設の願いにつながり、自身が娼婦(慰安婦)だったからこそ、優しい思いを向けられたのだ、とする解釈する山田盟子は、、「女は洗うひまもなく~」と書いています。(占領軍慰安婦)
ちなみに、大高さんも「女は~」と引用しています。
いずれにしても、きちんとした原文が提示されない限り、この文章のどちらにも大きな意味を持たせるべきではないと思います。
とはいえ、どうにも気になるのは「②あわ・がいど」に出てくる「特殊看護婦」ということばです。このような言葉は、城田さんの自叙伝「マリヤの賛歌」には全く出てきません。
マリヤの讃歌 (1971年) [-]城田 すず子 日本基督教団出版局1971
◆「特殊看護婦」~芸者菊丸さんの証言では?
「特殊看護婦」が「将校用の慰安婦」~という下りから真っ先に思い浮かぶのは、トラック島で海軍士官用の慰安婦をしていた「芸者菊丸さん」です。
(他にもあるのかもしれませんが、あくまで、今のところ私が知り得た範囲で)
以下の本に、芸者菊丸さん(源氏名)の証言が納められています。この日本人慰安婦のルポは、菊丸さんたち本人への取材はもちろん、客側の男性たちにも取材をし、彼女の戦後の悲劇に丹念に迫ったものです。
(本のタイトルの「従軍慰安婦」という言葉に先入観を持たずに、もっと読まれて欲しいと思います)
「特殊看護婦」という言葉が出てくるのは以下のくだりです。
菊丸さんは東京西小山で芸者をしていた1942年、18歳のときトラック島に渡りました。この話を持ってきたのは「芸者仲間の五十鈴ちゃん」で、「置屋の借金を軍が肩代わりしてくれると聞いて、一も二もなく決めた」という。
彼女は少尉以上を相手にする士官用慰安婦で、
「契約は一年半。置屋制度ではなく海軍省経営だったから、特殊看護婦と呼ばれて、”軍属扱い”でした。働いたお金は4分6分で4分が自分のもの、あとの6分は海軍省です。”軍属”だから、死ねば軍人さんと同じに靖国神社へ入れてもらえるということでした」菊丸さんはそれが「唯一の誇 りであるかのごとく”軍属”を強調した」という。
(トラック島従軍慰安婦の証言)
なお、広田氏は、
従軍慰安婦が”軍属”と扱われた例は、私が調べた限りではない。慰安婦になるように勧誘した人間がそういったのか、あるいは輸送船の乗客名簿に「慰安婦○○名」と書くわけにもいかなかった軍が、苦肉の策で”特殊看護婦”と記載したのを、彼女達が”軍属扱い”と錯覚したのか、いずれであろう。 (トラック島従軍慰安婦の証言)
と、それを菊丸さんの勘違いだろうと指摘しています。
「軍属」と同様、「特殊看護婦」ということばも、菊丸さんの「錯覚」の産物といえます。城田さん自身の体験から出てこないことばです。
菊丸さんの話は、広田氏の「証言記録~」出版以前に、雑誌などでも取り上げられていたそうですから、城田さんが雑誌や本で菊丸さんの事を知ったことは十分考えられます。
菊丸さんは士官用慰安婦としてトラック島でそれなりに恵まれた生活をしていました。
②の石の叫びでは、「特殊看護婦と呼ばれた将校用の慰安婦」は待遇が良かったが、それにひきかえ兵卒相手の女たちは、列なす兵隊に死ぬ苦しみだった―と言いたかったのでしょうか。
いずれにしても「特殊看護婦」という下りが、なぜ削除、あるいは追加されたのかは謎です。
一方、二つの「石の叫び」は文の順序や表現に少々違いはありますが、共通して明らかに城田さん自身の体験ではない文章があります。
◆慰安所のなかった「アリュ-シャン列島」が出てくる不思議
~「中国・東南アジア・南洋群島・アリューシャン列島で性の提供をさせられた娘たち」~
⇒ 城田さんは、台湾、サイパン、トラックで娼婦(慰安婦)をしていましたが、仕事のつらさを語っていたのは台湾の海軍御用の遊郭です。いの一番に台湾が出てきてよさそうなものです。
しかし、台湾はなくて、樺太、千島列島すらなくて、なぜかアリュ-シャン。台湾と南洋にしか行っていない彼女の発言としては、違和感があります。
そもそも、アリュ-シャン(アッツ島、キスカ島)に慰安所はあったのでしょうか。
●著者の調べた限りで(慰安所が)存在しなかったのは、ガダルカナル島を含むソロモン群島、東部ニュ-ギニアやアリュ-シャン列島(アッツ、キスカ)、ギルバ-ト諸島、硫黄島などの離島であろう。
アッツ島、キスカ島については、42年7月に「衛生サック」1万個を交付という公式記録はあるが、キスカ駐屯の海軍主計兵曹長が「北海の孤島、女気などはさらさらなく、用意が良すぎで、全然不用品となったのはゴム製品ハ-ト美人だけだった」と書いているので、慰安所はなかったと断定してよかろう。
慰安婦と戦場の性(1996)秦郁彦 第4章太平洋戦争では―北千島からアンダマンまで―
●軍慰安所の存在が確認されている地域は、つぎのとおり
中国、香港、マカオ、フランス領インドシナ、フィリピン、マレー、シンガポール、英領ボルネオ、オランダ領東インド、ビルマ、タイ、太平洋地域の東部ニューギニア地区、日本の沖縄諸島、小笠原諸島、北海道、千島列島、樺太。
出典従軍慰安婦 (岩波新書1995): 吉見 義明 p.77
FIGHT FOR JUSTICE 慰安所マップ
アリュ-シャンには慰安所はありませんでした。
城田さんは、中国・東南アジア・南洋群島・アリュ-シャン列島と、戦場になった場所を並べて、「戦場の全てに慰安所があった」かのごとく語っていますが、これは彼女の想像です。
以下の文章も同様。体験していないことを語っています。
◆「荒野をさまよい凍てつく山野で食もなく,野犬か狼のエサになる」様を、「見る」ことはできない
~足手まといになった女はほっぽりだされ,荒野をさまよい凍てつく山野で食もなく,野犬か狼のエサになり骨はさらされた土になり~
⇒ まるで映画のシ-ンのような光景です。このような光景を「見る」ことは不可能です。どこからそのような光景をみることができるというのでしょうか。これは心象風景であって、現実の体験ではありません。
そもそも、城田さんは凍てつくような所にも、荒野が広がるような所にも行っていません。
おそらく、すでに出版されていた従軍慰安婦ものの本や、戦争文学と言われる分野の著作や、人から聞いた話、そういった後知識と自身の記憶が合体したイメ-ジを語ったものではないでしょうか。
以上から、「石の叫び」は心象風景を綴った「詩文」のようなもの、記憶の断片と後知識と悪夢が合体したイメ-ジを語ったものなのでしょう。「女の地獄」も心象風景の類であり、現実を語ったものではないとみなすのが妥当でしょう。
「女の地獄~」など、たいへんインパクトの強い文章ですが、第3者の手が加わっていると思えば、ある目的を持って幻想が作り上げられていた、という冷めた認識こそ重要だと思います。
もともと「石の叫び」の文章には何一つ具体的な記述~いつ、どこで、どんな体験をしたのか~といった、ある事実を証明する「証言」に必須の条件を満たした記述は1つもないのですから。
◆もうひとつの慰安婦の碑
城田さんの願いによってたてられた「噫従軍慰安婦(1986年)」の碑。(前身は「鎮魂之碑」。柱の基礎には、「従軍慰安婦」たちのために「贖罪」と刻んだ大谷石が埋められたとされる)。
この碑の建設より10年以上前に、城田さんの住んでいた館山市とおなじ南房総の鴨川市に、既に慰安婦の碑は存在していました。
決して「終戦後40年にもなるのに、日本のどこからも、ただの一言も上がら」なかったわけではありません。
1973年千葉県鴨川市の慈恩寺に二人の元兵士によって建てられた慰安婦のための鎮魂碑「名も無き女の碑」です。
慈恩寺というお寺に、元日本軍兵士によって建てられたそうです。
この碑がたてられた経緯は、二人の元日本軍兵士が、戦後、偶然同じパラオでの兵役とあっておおいに話が合ってもりあがり、慰安婦だった哀れな女性たちの末路に話が及び、
「軍人や軍属は戦死すれば、靖国神社に祀られるが、慰安婦であった女性は、何の供養もされない。是非、慰霊碑を建てて、その霊を慰めよう」と意気投合。様々な苦労の末建てられたものだそうです。石碑の表には
「名も無き女の碑 風雪にとざされし暗き道、春未だ来ぬ遠き道、されど春の来るをまちつつ、久遠にねむれ、汝、名も無き女よ」
と刻まれ、裏には、
今次の大戦に脆弱の身よく戦野に挺身 極寒暑熱の大陸の奥に又遠く食無き南海の孤島に 戦塵艱苦の将兵を慰労激励す 時に疫病に苦しみ敵弾に倒る 戦い破れて山河なく 骨を異国に埋むも人之を知らず 戦史の陰に埋る嗚呼 此の名も無き女性の為小碑を建て霊を慰む
と刻まれているそうです。
現在慈恩寺は無住の寺院となっていますが、碑の手入れは行き届いているそうです。
噫従軍慰安婦の碑のようにプロパガンダにまみれていないだけに、素朴で清らかな感じがします。
それにしても、この碑文、なんだか城田さんの石の叫びの文章の情景と重なるものがありますね。
●城田すずこさん関連記事。(いずれまとめ直してみたいと思っていますが・・)
元慰安婦城田すずこさんの証言①
元慰安婦城田すずこさんの証言②
元慰安婦城田すず子さんの証言③
元慰安婦城田すず子さんの証言④ 深津牧師「日本は世界一性倫理の低い国」
元慰安婦城田すず子さんの証言⑤ プロパガンダの虚実 「名乗り出た日本人元従軍慰安婦」から「朝鮮人慰安婦のやり手婆」まで
元慰安婦城田すず子さんの証言⑥ 田嶋陽子の歪曲
元慰安婦城田すず子さんの証言⑧「証言」という不確かさ
元慰安婦城田すず子さんの証言⑨ 年表と資料
参考文献;
『マリヤの賛歌』(日本キリスト教出版局 1971)城田すず子
『元日本人慰安婦を「性奴隷」にしたいやらしい面々』(正論2014/5)大高未貴
『占領と性 政策・実態・表象』(インパクト出版会 ) 恵泉女学園大学平和文化研究所編荒井英子「キリスト教界の「パンパン」言説とマグダラのマリア」
沢木耕太郎『人の砂漠』(新潮文庫 1980)
秦郁雄『慰安婦と戦場の性』(新潮選書1999)
吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書1995)
広田和子『証言記録 従軍慰安婦・看護婦』(新人物往来社1975)
山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争』(光人社 1991)
山田盟子『占領軍慰安婦』(光人社1992)
伊貞玉他『朝鮮人女性が見た「慰安婦問題」』(三一新書1992)
山下英愛「日本人慰安婦問題が投げかけるもの―城田すずこさんとの出会いと私の原点」(戦争と性第28号2009/夏 戦争と性編集局)
ドウス昌代『敗者の贈物/国策慰安婦をめぐる占領下秘史』(講談社文庫1995)
『日本のキリスト教会と戦争責任―日本基督教団の「戦責告白」を事例に』竹ノ下弘久
1986年TBSラジオ放送「石の叫び」(安房文化遺産フォ-ラム(館山まるごと博物館))(残念ながら削除)
(城田さんの「愛と肉の告白」と深津文雄牧師の「小さき者たちへ」は手に入らず、読むことができませんでした。残念。)
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