元慰安婦城田すず子さんの証言④ 、の続き。

城田すず子さんのことをブログで書き始めてから小さな変化がありました。1986年彼女の「証言」を放送したTBSラジオ番組の書きお越し
”「石の叫び」*TBSラジオ (NPO法人)安房文化遺産フォ-ラム が何気なく削除されました。

このTBSラジオ放送は、城田さんを「従軍(強制連行的に軍に連れまわされた)慰安婦」のごとく仕立て上げ、詐話師吉田清治まで登場させたヤラセ番組でした。

城田さん自身、パラオで慰安所の帳簿係やおかみをしていたのに、慰安婦をしていたものとして語っているというトンデモ放送でした。(詳細は正論2014/5月号大高未貴氏「元日本人慰安婦を「性奴隷」にした嫌らしい面々」に)

※放送での証言の概略はこちらにも掲載されています被害者の名乗り出の現状FIGHT FOR JUSTICE)

ここで、朝日新聞の慰安婦強制連行捏造記事よりさかのぼること5年も前に、ラジオ放送とはいえこのような番組があったことを銘記しておきたいと思います。

この番組によって寄付が集まり、木製の「鎮魂の碑」が石製の「「噫(ああ) 従軍慰安婦」と刻まれた碑に変わり、「名乗り出た日本人元従軍慰安婦城田すずこ」の物語を象徴するものとなったからです。

◆「慰安婦とされて生き地獄を味わい」、「戦後40年目にして告白」した日本人

それは今でも、「元慰安婦城田すずこさんの証言②で取り上げた琉球放送の例や、以下の東京新聞の記事のような形で語られています。 

橋下氏との対面拒否 ハルモニの消えない「痛み」(東京新聞:こちら特報部)
日本人元慰安婦 千葉に慰霊碑
慰安婦とされて生き地獄を味わった日本人
もいた。房総半島先端の千葉県館山市にある「かにた婦人の村」。売春防止法成立を受けてつくられた長期の婦人保護施設で、現在は知的・精神障害の女性69人が暮らす。

青い海を望む小高い丘には、天を突き刺すような形の石に「噫(ああ) 従軍慰安婦」と刻まれた碑が立つ。きっかけは93年に71歳で亡くなった入所者の城田すず子さん(仮名)の訴えだった。

84年に「従軍慰安婦だった」と告白
した。「終戦後40年にもなるのに、日本のどこからも、ただのひと言も上がらない。兵隊は祀(まつ)られているのに」と、施設の創設者だった故・深津文雄牧師に手紙で打ち明けた。

<兵隊用は1回50銭か1円の切符で、行列をつくり、私たちは洗うひまもなく相手をさせられ、死ぬ苦しみ。なんど兵隊の首をしめようと思ったか。半狂乱でした。

死ねばジャングルの穴に捨てられ、親元に知らせるすべもない有様(ありさま)です。それをわたしは見たのです。この眼で、女の地獄を…。(中略)

かつての同僚の姿がマザマザと浮かぶのです。私は耐えきれません。どうか慰霊塔を建ててください。それが言えるのは私だけです。生きていても、そんな恥ずかしいこと誰も言わないでしょう。>

深津牧師は言葉がなかった。天皇の軍隊が隣国の少女をも欺いて行った、極めて悪質な罪悪だが、誰もその責任を取ろうとしない」と記し、「日本男子たる者すべて、老いも若きも、直接関係した者もしない者も、これから再びこのようなことをしない決意表明が求められているのではあるまいか」と書き残した。

城田さんは親の借金の肩代わりで芸者屋に売られ、南洋諸島の慰安所で1日何十人もの兵隊を相手にした。慰霊碑の除幕式では、かつて慰安所があった南の方角に向かい「みんな帰っておいで」と慰安婦仲間に呼びかけ、号泣したという。
2013年5月25日 東京新聞 こちら特報部

http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2013052502000121.html

この東京新聞の記事は、自らの過去を赤裸々に克明に記した自叙伝を2冊(1971「マリヤの賛歌」、1962「愛と肉の告白」)も出版している日本人の城田さんですら、虚実の入り混じった物語が何の疑問も検証もなく語られている、いい実例です。

城田さんが、1日何十人もの兵隊を相手にした南洋諸島の慰安所とは、どこのことですか?と問いたいものですね。

城田さんの自伝には、パラオのコロ-ルで彼女が帳簿係をしていた慰安所に、朝鮮人慰安婦がいたことが書かれています。またその慰安婦たちが借金のカタで慰安所にやってきたことも、「女の子たちの借金の帳簿や戸籍簿」を城田さんが管理していたことから明らかです。

にもかかわらず、62年の「愛と肉の告白」からすれば20年以上経ってからの、城田さんの84年の「従軍慰安婦だった」という告白、だとか、その告白文に「朝鮮人慰安婦」のことなど一言も出てきていないのに、それに対する深津牧師の、「言
葉がなかった。天皇の軍隊が隣国の少女をも欺いて行った、極めて悪質な罪悪~」ということばは、極めて不自然です。

さらに、、「日本男子たる者すべて、老いも若きも、直接関係した者もしない者も、これから再びこのようなことをしない決意表明が求められているのではあるまいか」、に至っては、氏の個人的、宗教的信念であって、現実離れしたものです。なぜ無関係の者が罪(?)を背負わなければならないか、まるで説明がつきません。
このような宗教的な贖罪意識は、神学界で論争をすべきことです。

さて、城田さんのいた「かにた婦人の村」に、
1988年8月、韓国挺身隊問題対策協議会代表の尹貞玉(ユン・ジョンオク)
が訪れ、従軍慰安婦石碑を見て、おおいに評価、発奮したということです。そして、

1990年、韓国KBSテレビのドキュメンタリー「太平洋戦争の魂 従軍慰安婦」
という、「日本軍朝鮮人女性強制連行」告発番組につながります。この番組でも城田さんの証言が利用され、

最後に「噫 従軍慰安婦」の石碑の前で、深津牧師が石碑建立の経緯と韓国への謝罪の言葉を述べ、「従軍慰安婦」であった人が是非名乗り出てくることを願って、番組が締めくくられた
そうです。
正論2014/5月号大高未貴氏「元日本人慰安婦を「性奴隷」にした嫌らしい面々」参照)

尹貞玉は、
朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」―明日をともに創るために(伊貞玉他 三一新書:1992/8)、においてこんなことを書いています。(後日訂正、以下の文は伊貞玉ではなく梁澄子によるものです)

「日本にも私のような人がいますか?」

金ハルモニの問いに、千葉県かにた村に住む日本人元慰安婦城田すずこさんのことを 話すと、

「ほら、ごらんなさい。日本政府は私たちのことを、自分の国の人じゃないから知らないというけど、自分の国の慰安婦一人助けずに、そんな暮らしをさせているじゃないの」と怒りを露わにした。

もしもその人に会うことができたら、互いの打ち上げ話でもしたい。国籍は違っても、生死をかけて一緒に行った人だから、息子にも話せないような話をしてみたい~」p248

大笑いである。
「女版吉田清治(大高未貴氏)」の山田盟子氏が、「
占領軍慰安婦(1992)」において、なんと書いているか。

◆狩りこまれて連行された朝鮮人慰安婦たちのやり手婆 
深津氏が「ミイラ取りがミイラにということも」と、いうことは、パラオ島における「紅樹園」でのすずこを指した。

日本軍の餌食にされ、
狩りこまれて連行された朝鮮人慰安婦たちのやり手婆
として、すず子は生き、しかも内田(=紅樹園の経営者)の3号におさまっていたのだ。

その事実は、深津氏にも深く話したがらないすず子がいた
。彼女は慰安婦だっただけに、欺き、賺し、はったりで、慰安婦たちを凌ぐ女だった時もあったろう。

「今は生きているだけでも幸せです。一年前から祈ってますと、マザマザと同僚の顔が浮かぶのです。私は耐えられません。慰霊碑を建ててください。それが言えるのは、泥水をすすった、自分だけなのです。」

自らも騙しを喰らった者は、ときには人に欺きをくれても、その悔恨は優しいのかもしれぬ。
(第10章マグダラのマリア 女たちの痛恨)

金ハルモニと城田さんの対面とは、「狩りこまれて連行された朝鮮人慰安婦」と「やり手婆」の対面ということになります。実現していたら、さぞ面白い話が聞けたでしょうね。
(前述の東京新聞の記事のところで書きましたが、この慰安婦たちは借金のカタで慰安所に来ました)

この「占領軍慰安婦」は、内容全般が著者の主観にいろどられたもので、城田さんに対する描写もひどいものです。

しかし、パラオの慰安所で「慰安婦」でなく女将として働いていたことを明確にしていること、「売春婦城田すずこがキリスト教によって救われた」という物語をまるで信じていないフシがある点は、なかなか面白いものがあります。
また、(真偽は定かでないものの)、深津氏が、パラオの慰安所で城田さんが慰安婦でなく管理者側の人間として働いていたことを認識していたことを示唆している点も目に留まります。

「その事実は、深津氏にも深く話したがらない」という点も、実際、「マリヤの賛歌」では、パラオのジャングルで慰安所のおかみをしていたとき記述が、他の記述に比べて奇妙にすっぽ抜けている感がありますから、うなづけるものがあります。

ついでに、ブログ記事でみつけたもので、未確認なのですが、子供向けの岩波ジュニア新書「従軍慰安婦」にされた少女たち(石川逸子1993/6)、に城田さんの体験が以下のようにかかれているようです。

この石碑(「噫従軍慰安婦」の碑)ができたのは、日本人である城田すず子さん。
 --東京の大きなパン屋のおじょうさんだったが、没落して遊女に。
 南方の島の『従軍慰安婦』になったという。
 --戦後、クリスチャン関係の民間更生施設に。
 『かにた村』に入った城田さんは夢を見て、眠れず。
 --その夢は、南方のパラオ諸島にいっしょに死んでいった朝鮮人の少女たち
『カエリタイヨウ、兵隊コロシタイヨウ』って泣いているという。
 --あそこは地獄だったという。
 碑をたて慰めてあげたいという思いから建立されたという。

磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]さん
 
岩波ジュニア新書222 「従軍慰安婦」にされた少女たち2008年04月13日

ひどいですねぇ。妄想レベルですね。岩波ジュニアの程度が知れます。
呆れたことに、昨年、この妄想本が
復刻されているのです。ボロカスのレビュ-が並んだなかに、「日本人慰安婦については全く触れていない」とありますが、城田さんのことはカットされたのか?
復刻版にも城田さんの事が同様に書かれているのか、確認したいのですが―。

ともあれ、こんなふうに、城田さんについては、プロパガンダ屋たちといえども、「戦後40年目にして名乗り出た日本人元従軍慰安婦」から、「朝鮮人慰安婦たちのやり手婆」まで実に幅広い扱いとなっているのです。

では、1986年のTBSのインチキラジオ放送を、城田さんの名乗り出証言としてその経緯を掲載している「FIGHT FOR JUSTICE」では城田さんをどのように書いているのでしょうか。

◆「FIGHT FOR JUSTICE」の矛盾

昨年8月解説された「従軍慰安婦」プロパガンダサイト「ファイト・フォー・ジャスティス(FIGHT FOR JUSTICE)」(http://fightforjustice.info/)で城田すず子さんのことを、調べてみますと―


●城田すず子
連行地:台湾・サイパン・トラック島

連行方法:父親の借金の形に遊郭に売られ、台湾の「海軍御用」の慰安所に。その後、サイパン島の慰安所に。連行一覧


●城田すず子さんが名乗り出た経緯
公的に生の声で証言したというのは、城田すず子さんだけです
城田さんは戦後40年にTBSラジオの取材を受け、翌年、「慰安婦」だった当時の生々しい体験を語る城田さんの声が放送されました。本名で出演したその番組「ニューススペシャル 石の叫び」は、1986年1月と8月(再放送)に放送されました被害者の名乗り出の現状

などとあり、城田さんの「元慰安婦証言」を、1986年のTBSラジオ放送(その前年の取材時)としています。

このTBSラジオ放送では、城田さんは、台湾とパラオで「従軍」慰安婦をしていたことを語っていたので、「連行一覧」の、連行地=「台湾、サイパン、トラック島」と完全に矛盾しています。

慰安婦をしていた場所を「台湾、サイパン、トラック島」とし、「パラオ」を記載していないのは、彼女がパラオで慰安婦をしていなことをわかっており、これらの資料の元が、城田さんの自叙伝「マリヤの賛歌」であることは明らかです。
(いずれにしても、TBSラジオのやらせ放送を「証言」として扱っている時点で、終わっているようなものですが)

◆NPO法人の「従軍慰安婦教育」
このラジオ放送の書きお越しを掲載し、最近削除したサイトNPO法人安房文化遺産フォ-ラム」の、
地域と平和学習:「従軍慰安婦」をどう教えるか『地域の歴史と「かにた婦人の村」の「慰安婦」
もすごい。

教材に、ヤラセ番組のTBSラジオ放送「石の叫び」や岩波ブックレット「朝鮮人従軍慰安婦―証言 昭和史の断面」鈴木 裕子(1991/12)、挺対協に目を向けるというもの。
内容を見ると、疑問をさしはさむ余地もなく、「どう償うか」だけに誘導されていくのです。一種の洗脳ですね。「教育」とは教え育てること、「学問」とは学んで問うことではないの。

教材の「朝鮮人~」を読んだことはありませんが、アマゾンのレビュ-から察するに、天皇制否定、日本の民族としての未来永劫の罪を主張したもののようです。深津牧師の「信念」にも通ずるものがあります。

日韓基本協定や日本の対韓援助など、過去の日本のさまざまな努力を何も伝えず、精神的な贖罪感だけでは何も解決しません。挺対協もそうですが、こうした狂信的な「従軍慰安婦プロパガンダ教徒」がこの問題をこじらしていることは明らかです。

ところでこのNPOが発行している『あわ・がいど①~戦争遺跡』 という冊子に、城田すずこさんの「石の叫び」が掲載されており、その文章というのが、

”深津先生へ ・・・軍隊がいるところには慰安所がありました。看護婦とみまがう特殊看護婦になると将校相手の慰安婦になるのです~”

というふうに始まっているもののようなのです。これは、これまで見てきた石の叫びにはなかったものです。
「特殊看護婦」とは一体なんなのでしょうか。
 
つづく