元慰安婦城田すずこさんの証言②の続き
ここで、城田さんのパラオでの状況を「マリヤの賛歌(1971)」のなかのパラオでの生活をつづった「砲弾の下の女たち」の章を簡単に整理してみました。
彼女が「従軍慰安婦」であることを告白したとされる「石の叫び」にでてくる、「女の地獄」に直結する章です。
さらに、大高氏が指摘する「愛と肉の告白(1962)」に書かれているのに、マリヤの賛歌では削除されている箇所―慰安所の具体的記述―を、(私はこの本を読んでいないので)、氏の記事から一部引用させていただいて、付け加えました(青字箇所)。
●パラオへ
トラック島で2号になった鰹節工場の社長から、戦況も怪しくなってきたので「また戻ってもいいから一度東京に行って様子を見てきなさい」といわれて一旦東京に戻ったものの、「とにかく南洋に帰りたい一心」で船便を探した。パラオまで行って別便でトラック島に渡るつもりでパラオ行きの船に乗船。
パラオ行の船には、パラオ、コロ-ル島海軍特別慰安隊の名目の若い女の子が20人程乗っていた。
船のまわりを駆逐艦などが包囲してくれて、ジグザグ航路でやっとパラオ入港。
●慰安所帳簿係に
紅樹園という特別料理屋兼旅館に宿泊。トラック島に行く便もなく、1週間経つ。
所持金が尽きてきたので、働き口を紅樹園の女将(経営者の2号さん)に相談。
おかみから城田さんの話を聞いた経営者が、「船でいっしょだった女の子たちの家ができたから、そこの帳簿係と世話係をやってもらえないか」、と言ってくれたので、渡りに舟と受ける。(経営者も含め、パラオには沖縄の人が多かった)
●慰安所の様子
特要隊の女の子は朝鮮と沖縄のひとばかりで、内地の人はいなかった。慰安所は、マッチ箱のような部屋が並んでいて、20人の女の子は番号が決まっていて、お客は「何番をください」といって切符を買った。
(愛と肉の告白)~5番の妓は朝鮮出身だった~この間の日曜日には43人のお客をとったといって、おかみさんから、1円札を何枚か手渡されてほめられていた~
●爆撃
戦況厳しくなり、サイパンが艦砲射撃を受けたというラジオ放送もあった。
パラオも爆撃があると覚悟を決めた。「(帳簿係の)責任として特要隊の女の子の借金の帳面と戸籍など、パラオに来ているという証拠書類だけは、風呂敷に包んでいつでも持ち出せる用意をしていました」
「パラオとコロ-ル島と本島を結ぶアルミズ水道が爆撃。防空壕に退避することが毎日で、商売どころではなくなる。ある時、爆撃から逃れるため水の枯れた下水に逃げ込んた。特要隊の人達が避難しているところに、小さな爆弾が落ちてきて、女の子三人が即死。自分も一緒に埋もれてしまったが、助け出される。「3人と一緒に死にたかった」
城田さんは心細さもあって、紅樹園の主人の3号になる。
ある日、30~40機ではきかない大編隊がパラオを爆撃。紅樹園の防空壕に逃げ込む。コロ-ルの街は全焼したが、防空壕だけ無事だった。
●洞窟暮らし
生き残った6~7人で岩山に避難。洞窟に潜り込む。紅樹園の男たちが町の焼け残りの空き家から食料を調達。ほとんど毎日爆撃。3~4か月そこで暮らす。
洞窟の上は陸軍の高射砲陣地だった。そこが爆撃されたとき、40~50人の兵隊が一人を除いて全滅。
「兵隊さんの肉がぱらぱらに散らばっており、目も当てられなかった。誰の骨とも誰の肉ともわからないものが、ばらばらになってくっついていました。それを見たとき、私は気を失ってしまいました。」
伝保部隊が他のところから遺体を片付けにきたとき、紅樹園の人達は積極的に手伝った。(女性は炊き出し等をした)この働きが認められ紅樹園の人だけコロ-ルに残って農耕をしてもよいことになった。
●ジャングルに移動
洞窟を出て、空から見ても(爆撃機に)わからない深いジャングルに移動。
紅樹園農耕班をつくり、「伝保部隊の兵隊さんと一緒にとうもろこしやさとうきびをつくりました。」
タバコが貴重品で、紅樹園の主人は、「農耕班50余人」のために、1週にひと箱もらった。島民からこのたばこと引き換えに大量の食糧を調達することができたため、「紅樹園の人達だけは餓死をしないで済みました」。
1945年お正月には、とっておきの油でから揚げをつくった。
●ジャングルに慰安所開設
陸海軍の生き残った兵士や、高級な技術を持った軍属のために、「慰安所を開こうという話が部隊からでました」。
「そうして、紅樹園の支店のようなものができることになりました。ジャングルの木に鉋をかけるわけではなく、枝を払って組み立てただけの野趣満々の家が軍属の工作班によってたてられましたが、地面が平らでないので、女の子の部屋は上の方になり、谷川に近い方に炊事場、お風呂などが作られました。別にお客さんのための部屋があり、私は支店のおかみさんとしてそこに寝ました。」
「紅樹園のおやじさんがコロ-ルに行っている間は女手だけでそこにいました」
(愛と肉の告白)
~掘立小屋のような慰安所~喜々としてやってくる兵隊や軍属の”便所”の管理人、それが私なのだ。慰安婦たちも、ただ呼吸するのがせいいっぱいなのだ。目がくぼんで痩せ衰えた彼女たちの上に、兵隊たちは野獣のようにのしかかる~兵隊や軍属は朝早くから行列して自分の順番を待っていた。夕方、兵士たちが帰ってしまうと、夕食をする間もなく将校やえらい軍属たちがたくさん集まってきた~
●引き揚げ始まる
敗戦。ジャングルを出る。農耕をしながら年があけ、引き上げの話が出る。
日本人は全員パラオには残れないという命令で、内地の人は内地へ、沖縄の人は沖縄へ帰るのが原則だったが、紅樹園の経営者は内地に帰ることを希望。
内地への引き上げが始まったものの、沖縄に帰る船はなかなか来ず、不安になった沖縄の人は、「内地の人だけが返り、沖縄の人はここに残して奴隷のようになるのではないか、というので暴動を起こしました」
米軍、南洋庁の人が来て、血を流すことなく騒ぎはおさまった。
その後沖縄へ帰還も進み、城田さんたちも南洋庁の人達と一番最後の船で帰還することになる。
パラオ本島の山の中にあった病院では、一人一人のお墓を作ることができず、10人くらいずつを大きな穴に埋めて土を少しかけてあるだけで、スコ-ルが来ると死体が見えるというありさまであった。
日本に帰る船に乗る直前に、南洋庁の長官の主宰で、戦没者と民間人のために祭壇を作ってお別れをした。
●帰還を拒んだ娘たち
乗船してから一昼夜は出航せず、日本人が残っていないかと、島中探した。
食べることに困って、島民と一緒になっていた徳野屋という料理屋で働いていた女の子が3人みつかった。一人は子供が生まれていた。彼女らは南洋庁の役人に、泣いて日本への帰還を拒んだ。
「私たち女は、『馬鹿だな、今そんなことを考えても内地の生活が待っているのに、もう一度行って連れてきて』と頼みましたが、もうアメリカ軍の出航の準備ができていましたので、そのまま帰ることになってしまいました。昭和21年3月のはじめ頃でした」
●パラオとの別れ
「だんだんとパラオ島が遠ざかるとき、皆で甲板に出て、~『思い出のパラオ島よ、さようなら。愛し愛された妻よ夫よ、土に埋もれてもどうぞ恨まないで』という歌を皆で歌いました。甲板に出ている人は皆泣きました。~
すると晴れていた空が一面に曇って、パラオの島が見えないぐらい激しいスコ-ルがきました。『残されてうずめられた人が最後に泣いているんだよ』。残された人の名をあげたりして劇的なシ-ンでした。
「砲弾の下の女たち」という章題のとおり、すさまじい状況で生き延びたことがわかります。現地の人と一緒になっていた女の子たち3人を置き去りにしてしまった心残り、亡くなった方たちをまともに弔ってあげることもできず帰還する無念さがあふれています。
ただ、城田さんと行動を共にした人々の具体的な人数などが、はっきりしません。凄まじい体験なので、記憶が断片的になるのも致し方ないのかもしれません。慰安所の記述を中心に見ていきます。
■慰安婦たちはどうなった?
●戦況悪化の一途にもかかわらず、慰安婦となるために若い女の子が20人パラオに連れられて行ったこと、「特要隊の女の子の借金の帳面と戸籍など、パラオに来ているという証拠書類」という記述からは、彼女らが借金のカタに売られてきたことが分かります。
●その20人は沖縄の人と朝鮮の人(内訳不明)。朝鮮出身の一人は一番の売れっ子だった。そして爆撃で少なくとも3人死亡。
●慰安所は「マッチ箱が並んだ」ような粗末な作りで、女性たちは「番号」で扱われており、お世辞にもその環境は良いとはいえそうにありません。ただ、爆撃のためあまり商売にはなっていなかったようではあります。
●コロ-ルの町が全焼したとき、慰安婦に犠牲者が出たのかどうかは不明。
●ジャングルの慰安所の環境は「~告白」の記述を見る限り、これだけでも「女の地獄」と呼んでもよさそうな状況です。
ジャングルに移動してからは、死者は出ていないようですが、ひょっとしたら慰安婦のなかに亡くなった人がいた可能性もあります。
慰安所の主人が来た時以外は「女所帯」だったとありますから、休む間もなく兵士の相手をしている栄養失調の女たちとおかみの城田さんだけでは、例え誰かがなくなっても穴を掘って埋めることすらロクにできなかった、としても何の不思議もなさそうな状況です。
そのあたりのことを書いていない可能性も、ないとは言い切れません。
●気になるのは、日本に帰還するにあたって、内地の人は内地へ、沖縄の人は沖縄へ順次帰るのですが、朝鮮人のことが一切出てきません。
この時点で、朝鮮人の慰安婦は皆亡くなっていた―朝鮮人慰安婦は全部で3人で、爆撃で死亡した3人がその人たちだった―のでしょうか。それとも、ここにいた朝鮮人は皆日本の内地に住んでいたから、内地に帰る人々の中に含まれていたのでしょうか―?
■深津牧師は「石の叫び」の何に衝撃を受けたのか?
さて、城田さんは2つの自叙伝で、自分のそれまでの人生を赤裸々に語っています。パラオの慰安所の様子も、「~告白」の記述を考慮すれば、自身が慰安婦をしてはいなくとも、おかみとして「女の地獄を見た」と言ってもいいくらいの状況です。
この内容を知っていれば、彼女の1984年の告白文とされる「石の叫び」の内容に、
石の叫び
「終戦後40年にもなるのに、日本のどこからも、ただの一言も上がらない。兵隊さんや民間の人のことは各地で祀られるけれど、中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、散々弄ばれて、足手まといになったらおっぽりだされ、荒野をさまよい、凍てつく山野で食もなく、野犬か狼の餌食になり、骨はさらされ土になった。
・・・・南方の島々に行った女たちも、それに負けない非道い目にあった。
・・・・軍隊が行ったところいった所、慰安所があった。
・・・・兵隊さんは1回50銭か1円の切符で列を作り、私たちは洗う暇もなく相手をさせられ、死ぬ苦しみ。
・・・・何度兵隊の首を絞めようと思ったか、半狂乱でした。
・・・・死ねばジャングルの穴に捨てられ、親元に知らせるすべもない有様です。それを私は見たのです、この目で、女の地獄を。
一年ほど前から、祈っていると、かつての同僚がマザマザと浮かぶのです。私はたえきれません。どうか慰霊塔を建てて下さい。それが言えるのは私だけです。生きていても、そんな恥ずかしいことを誰も言わないでしょう。」
(彼女が慰安所のおかみという立場か慰安婦か、という視点の違いはあるものの)、さほど驚くこともないような気がします。
では、深津氏はこの告白文を読んだ時、どのような「衝撃」を受けたのでしょうか。
これについては残念ながら、確かな情報がみつかりませんでしたが、とりあえずネットで、以下のようなものを見つけました。
①(従軍慰安婦だと手紙で告白を受けた)深津牧師は「言葉がなかった。天皇の軍隊が隣国の少女をも欺いて行った、極めて悪質な罪悪だが、誰もその責任を取ろうとしない」と記し、
「日本男子たる者すべて、老いも若きも、直接関係した者もしない者も、これから再びこのようなことをしない決意表明が求められているのではあるまいか」と書き残した。
慰安婦問題 真の問題とは何か? 自虐史観vs自由主義史観 左翼vs右翼 不都合な真実 26/60
日本女性にも経験者 手紙で「地獄見た」
②天羽修道女は「深津牧師は証言を聞き衝撃を受け、1年間眠ることができないほどだった」と話した。
[このひと] 慰安婦被害 初証言 城田 をご存知ですか 2010.08.23 12:36
①は明らかにおかしいでしょう。「石の叫び」には「隣国の少女」などという話は全然出てこないのですから。それに、朝鮮人慰安婦がいたことは、自叙伝に既に書かれているのですから。
② 1年間も眠れないほどの衝撃・・・?
どうにも、信ぴょう性に欠けるようです。
なお、大高氏は、出所不明の「石の叫び」に対する疑問や、その他の考察から、城田さんは「石の叫び」にあるような「女の地獄」を本当は見てはいないのではないか、という見解を示しています。
その上で、「城田さんを”性奴隷”のようにみせかけ、マリヤの賛歌に”女の地獄”という謎の言葉を記した」深津文雄牧師とはいかなる人物なのか、と深津牧師に目を向けます。
そして、彼の戦後のキリスト教徒としての活動などに触れ、親北・反米・反日活動家等との接点を見出し、彼もまた従軍慰安婦の基礎を固めるために、城田さんを政治目的に利用したのではないかと結論付けています。
この深津牧師に関する考察は、いささかネットネタ的で、強引な感が否めませんが、深津氏個人の思想信条を垣間見ると、いささか驚かされることは確かです。
つづく 元慰安婦城田すず子さんの証言④ 深津牧師「日本は世界一性倫理の低い国」
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現在でもそのメモは「かにた村」の施設長室のダンボールにおさめられている。
94年ころ、城田さんの夢まくらに立った慰安婦の霊は、朝鮮人慰安婦だった。それを牧師に話していたので、牧師は「隣国の少女」と表現したのだ。
実際、石碑は主に朝鮮人慰安婦を慰霊するためのものだった。
大高の文章は昨日今日研究しただけなので、参考にはならない。
> 城田さんには、これらの著作の他に、鉛筆やペン書きのメモがたくさんあり、それはWAMに展示されていたし、写真がある。
wamの”日本軍「慰安婦」問題全ての疑問に答えます”に掲載されていますね。
> 現在でもそのメモは「かにた村」の施設長室のダンボールにおさめられている。
> 94年ころ、城田さんの夢まくらに立った慰安婦の霊は、朝鮮人慰安婦だった。それを牧師に話していたので、牧師は「隣国の少女」と表現したのだ。
94年・・・城田さんはお亡くなりになってますが・・・
それはともかく、”城田さんの夢まくらに立った慰安婦の霊は、朝鮮人慰安婦だった。”というのは、マリヤの賛歌の記述からも不自然ではありませんね。
”それを牧師に話していたので、牧師は「隣国の少女」と表現した”という証拠となるメモは「施設長室のダンボ-ルの中」ということですね。
> 実際、石碑は主に朝鮮人慰安婦を慰霊するためのものだった。
それが事実とすれば、慰安婦を朝鮮人と日本人で区別をしていたことになり、残念なことですね。城田さんのマリヤの手記などからはそういう区別感覚は全く感じられませんでしたが。
> 大高の文章は昨日今日研究しただけなので、参考にはならない。
大高さんの記事だけを参考にしてはいませんが。