「もののけ姫」の世界が八ケ岳の山麓に? キャラ名と一致する地名、人間とオオカミの攻防… 長野県富士見町
「乙事(おっこと)」、「烏帽子(えぼし)」「甲六」…。これらは全て、長野県富士見町にある地域や川の名前です。どこかで聞き覚えがありませんか?そう、宮崎駿監督のアニメーション映画「もののけ姫」に登場するキャラクターたちの名前と一緒なんです。
八ケ岳の裾野に広がる富士見町には宮崎監督の別荘があり、滞在することも多いようです。そのため、映画に登場するキャラクターの名前は、富士見の地名に由来するのでは?と推測するファンもいます。真相はどうなんでしょうか?興味をかきたてられ、もののけ姫と富士見町の関係を調べてみると、町内にはオオカミ(山犬)を捕らえるために江戸時代の人たちが掘った巨大な穴「狼(いぬ)落とし」があることが分かりました。
森と里の境目を巡るオオカミと人間の攻防…これはまさに、もののけ姫の世界!富士見町に向かい、さらに取材を進めました。(伊吹あすか)
■富士見町の地名に由来する「もののけ姫」のキャラクター
もののけ姫は、人間と自然の関係が大きなテーマで、森を開発する人間と、森の神々との戦いが描かれています。
今回の取材で、過去に宮崎監督が町内で講演した際の資料を入手。それによると、宮崎監督は講演で「乙事という字が、おもしろいですね。ぼくはある映画で巨大なイノシシに乙事主(おっことぬし)という名前を勝手につけちゃいましたけど」と発言しています。
イノシシ神の「乙事主」は富士見町の地名「乙事」に由来する説―は正解でした。どうやら、町内の烏帽子という地名は「エボシ御前」の名前と関係がありそうです。そして、ちょっぴり頼りないけど憎めない「甲六」は、町と山梨県の境を流れる甲六川が名前の由来ではないかと思われます。
■人間と森の生き物 攻防の痕跡「狼落とし」
地名以外に結び付くものがないか調べると、富士見町には、オオカミを落とすための穴「狼落とし」が江戸時代にあったことが分かりました。人間と森に住む生き物の攻防の痕跡そのもの。そこで、狼落としに詳しい同町井戸尻考古館の小松隆史館長(52)に話を聞きました。
小松さんによると、同様の穴は東北地方などにあると伝わるものの、調査で現存が確認されたのは同町の2ケ所だけだそうです。そして、同町には、古代の終わりから中世にかけての製鉄遺跡があることも教えてもらいました。鉄とオオカミ…。富士見がますますもののけ姫の世界に見えてきました。
■オオカミに殺される…恐れた村人たち
江戸時代の富士見町のオオカミ被害について、小松さんが用意してくれた資料にはこう書かれていました。
「小六新田九郎左衛門の子供二人は、畑仕事中に狼に襲われて、十三歳の弟は喰(くい)殺された」(1702年)
「半左衛門は、広原山の神付近にて馬に乗って居る所を狼に襲われて、顔に疵をうけて、この怪我が元になって(中略)死亡した」(1806年)
村人たちの怒りはいかばかりだったでしょうか。そこで村の人たちは1822(文政5)年に藩の指導で落とし穴を二つ作りました。その結果―。「これに掛かった狼はなかった」そうです。
村人の苦労は報われなかったようです。確かに、映画で石火矢の弾さえよけて疾走する山犬の姿を思い返すと、彼らがたやすく穴に落ちるとは到底思えません。
■落とし穴の背景には「オオカミを尊重する気持ち」も
小松さんは「本気で駆除するなら鉄砲で撃ったはず」と話しました。実際に、富士見町を治めていた高島藩が鉄砲打ちにオオカミを駆除させた―との記録も残っています。一方、町内には、退治したオオカミの霊を祭ったほこらが残っています。
江戸時代の人々はオオカミを恐れていただけでなく、畏敬の念を持っていたようです。撃ち殺すのではなく、穴に落とす―。この発想について、小松さんは「落とし穴は生け捕りのニュアンスが強い。緊張関係がありつつも、相手を尊重する気持ちもある」と分析しました。
■「自然と人の境目」にある2ケ所の狼落とし
狼落としの一つは、なんと乙事にありました。穴の大きさは幅12メートル、深さ2・8メートル。小松さんの案内で現地を訪れると、穴は埋め戻されていて現在は草木が生い茂るのみ。ただ、へこんでいる一帯があるため、そこに穴がある雰囲気はありました。
小松さんによると、穴の底の中央部分には山の形に土が掘り残されていたそうです。「山があるとオオカミが助走できず、はい上がれない」(小松さん)。江戸時代の人の知恵が詰まっていました。
もう一つの狼落としは立沢という地域にあり、幅約4メートル、深さ約3メートル。上がすぼまった巾着型で、はい上がれない構造です。ただ、こちらも現在は埋まっており、標柱がなければそこに穴があったとは分かりません。
2ケ所とも、江戸時代は人里から離れた場所で、炭焼きや材の手入れなど、山を利用する際に人が入っていた場所だそう。「狼落としは、自然と人との境目として象徴的ですね」と小松さん。オオカミにここからは人間の領域だ―とアピールする効果があったのかもしれません。
宮崎監督は狼落としの存在を知って、もののけ姫を描いたのでしょうか。想像は尽きませんが、取材を通じ、映画で表現された人間と自然の緊張関係を肌で感じたのは事実です。もののけ姫の世界は、富士見町に確かにあると信じたいと思います。