十勝の鹿追町 聖書と人生のいろいろ

「NBUSを憂慮するキリスト者連絡会」を心から憂慮する

 
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2016年9月に、十勝鹿追町オープンした小さな教会です。,Voluntarily(自発的に),Open(開放的に),Logically(論理的に),聖書を学んでいます。史上類をみない大ベストセラー、聖書について、一緒に学んでみませんか? 執筆者は、牧師:三浦亮平です。

1. NBUSを憂慮するキリスト者連絡会からの抗議

先日、私が書いた記事に、「NBUSを憂慮するキリスト者連絡会(以後、「憂慮する会」と略します)」から公式に抗議が来ました。

抗議を送ってきた担当者は、私の知っている人で、LGBTQ当事者でした。友人と呼びたいけれど、お互いの関係は、微妙なところかもしれません。直接の連絡は、10年ぶり以上だと思います。

抗議の内容を私的にざっくり要約すると、

“今後一切、記事に手を加えるな、記録もとってるぞ、訂正と謝罪を別のページで挙げろ。“

実際の文章は、もうちょっと丁寧ですが、オブラートを引っぺがして、身も蓋もなく言えば、そんな感じでした。

 

最初、何のことを言われているのか、よく分かりませんでした。ただ、敵意というのは、伝わるものです。

この手のことには、わりとなれている身ではあるのですが、すごい圧力を感じて、少なからず動揺しました。

一般の方が、「差別発言したな、消すな」とか言われたら、それこそ動揺して消してしまうと思うのですが…。

 

気持ちを落ち着かせて、改めて自分の書いた記事を見直したところ、私の認識ミスで、「憂慮する会」のホームページで、削除されたと思っていたのが、そうではなかったことに気づきました。

問題を指摘した本文をホームページ上で見つけられなかったので、削除されたものと思い込んでしまっていたのです。

(※本文のリンクのボタンが、私には、とても見つけづらかったです。昭和の香り漂うHPが悪いとはいいませんが、多様性を尊重しようとか言われているのですから、ユニバーサルデザインという視点はもう少し持っていただいてもよいのでは、と思います。)

とにもかくにも、こちらに過失があったことは確認しましたので、「大変失礼しました」と訂正を加え、今後間違いのないようにと、原文へのリンクも貼りました。

 

釈然としない思いが残りました。とりわけ違和感があったのは、訂正の仕方まで指示されたことです。

先方に、「とても抑圧的、支配的だと感じました」とお伝えしました。

すると、「憂慮する会」の担当者から、自分たちは、「日頃、抑圧にさらされている」のだから「ご承知おきください」と返答がきました。

「日頃、抑圧されているから、抑圧しても仕方ないということになるのですか?」と尋ねましたが、返答はありません。

(※前述の私が書いた記事に関しては、大意はつかんでいるので、そのままで問題はないと判断しました。)

 

2. 憂慮する会の抗議の本質

鹿追教会のブログは、独自にドメインを購入し、サーバーをレンタルして運営しています。

無料のサイトだと、表示される広告の内容まで責任持てないな、ということでそうしています。

言ってみれば、このブログは、公共の広場ではなく、賃貸マンションの個人宅のようなものです。

 

「憂慮する会」の行ったことは、個人宅に土足で上がり込んで、「動くな、この瞬間からすべて差し押さえるぞ、手を付けるなよ。言いたいことがあるなら、裁判で言え」というようなことです。

民主主義国家でこのようなことをゆるされるのは、しかるべき手続きを経て、裁判所の許可を得た検察官や警察官ぐらいのことです。

自分たちが裁判所であり検察。彼らは、国家権力以上のことを行使しようとしています。恐ろしいことです。

それを正当化する理由が、自分たちは、日頃、抑圧されているのだから、これくらいのことは仕方ない、というのです。

 

3. 差別を叫び、力に訴える人々

誤解されないように最初に言っておきますが、「憂慮する会」の主張やありようは、決してLGBTQ当事者を代表するものではありません。

ましてやクリスチャンを代表するものではありません。

「憂慮する会」のようなありようを、それこそ憂慮している人は、LGBTQ当事者の方々にも、また、福音派が、リベラルと呼ぶクリスチャンの中にも、少なくありません。

むしろ、彼ら、彼女らは、少数なのですが、しばしば暴力的なやり方で、影響力を発揮しているのです。

 

それがよく現れているのは、彼らのホームページに集められた署名数です。69名にとどまっています。(9/14現在)

近しいところに身を置いていても、正直、この人たちとは関わり合いを持ちたくない、という人は少なくないだろうと思います。

私が以前属していた教団では、彼らのような立場は、一般に「社会派」と呼ばれていました。

「社会派」でも、さらに最左翼、最も過激なグループという立ち位置になると思います。

 

「憂慮する会」の賛同者には、知っている名前もいくつかありました。

「差別発言だ、撤回しろ」と言って、自分たちの要求が通るまで、手段を問わず圧力をかけ続けるのが彼らの常套手段です。

実際に、その教団の総会では、差別だと叫ぶ傍聴者が、議長席まで詰め寄るような場面が度々ありました。

その教団のある教区では、「ヅラ」と身体的なことをあげつらってヤジを飛ばした人までいます。

そんな人たちが、人権や平和を訴えているのですから、悪いジョークです。

 

4. モラル信任効果

なぜ、人権や平和を訴える人が、自分たちの暴力は見過ごし、むしろ助長してしまうということが起きるのでしょうか。

社会心理学で、「モラル信任効果」と呼ばれることがらがあるそうです。

“私は社会的に意義ある活動をしているのだから、少しくらい非倫理的なことをしてもいいだろう。“

そういう心理が働いていると言うのです。

すごくマッチョに言えば、“おれは戦ってるんだ、つまんないことで、つべこべ言うな”という感じでしょうか。

 

前述した「憂慮する会」の担当者がまさにそうです。

「日頃、抑圧されているのだから」、他者への抑圧は、「ご承知おきください」と言われるのです。

多数者、少数者という立場は、状況や時代によって変わります。

社会的にはマイノリティでも、誰かを取り囲んで罵っているときには、マジョリティの立場にあるわけです。

 

「憂慮する会」が、一般向けに呼びかけた署名では、すでに1万8千通が集まったそうです(9/8現在)。

クリスチャン内で支持が広がらないので、戦略を一般向けに変更したら、奏功したわけです。

今の社会の現実が、よく現れているな、と感じました。

これによって、キリスト教界に、いわば外圧をかけようということなのでしょうか。

数という力をもって、「憂慮する会」の暴力性がさらに増長されないか、非常に憂慮しているところです。

「NBUSは、非人道的な転向療法を推し進めている、あなたを強制的に変えようとしている」と、NBUSの側が言ってもいないことで訴えて賛同を集めているのですから、まさにデマゴーグそのものです。

 

5. たたかいの本質

そんな人たちがクリスチャンなのか。と驚かれた方は多いと思います。問われるところでしょう。

私は、何度か、彼ら、彼女らとネット上で議論をしたことがあります。ようするに、SNSで炎上したということですが…。

私の信仰に対して、差別だと訴えられ、やりとりを交わしました。

 

そもそも「罪」についての認識が違うのだから…と、福音派の立場を伝えようと再三試みましたが、相手は、理解しようという気がハナからないのですから、話になりません。

最後に私は、「イエス・キリストが、あなたの罪のために、十字架にかけられ、死んで葬られ、復活したことを信じているのですか」と尋ねました。

返答はありませんでした。同じようなのやりとりをデジャブのように何人かとしましたが、結果は同じでした。

ここからはっきり言えるのは、福音を信じていない、この人たちは、聖書に立てば、クリスチャンとは決して呼べないということです。

 

しかし、一方で、当人たちは、自分たちこそクリスチャンだと認識しているわけです。

何をもってか、というと、自分たちの正義によってです。

自分たちの正義に同意する人が、本当のクリスチャンであるということです。

「憂慮する会」からすれば、NBUSを支持する者たちこそ、「神の名をかたる」、にせのクリスチャンということになります。

私は、実際に、過去のLGBTQに関する記事で、「裁かれるぞ」という内容のコメントやメールを、同様の立場の人からいただいたことがあります。

 

冒頭に記した「憂慮する会」の担当者は、脅しのような文面の最後に、「祈りのうちに」と記していました。

一体何を、誰に祈ったのでしょうか?

 

「憂慮する会」の訴えの最後に、「変わらなければならないのは…(LGBTQを)変えようとする人たちなのです」とあります。

「変わらなければならない」とは、NBUSのホームページには一言もありません。

人が変わるのがどんなに困難かを身をもって知っているのが、クリスチャンだからです。

しかし、「憂慮する会」は明確に、「変わらなければならない」と告げています。

意に添わない相手を力づくでも「変えよう」とする。それこそ、「憂慮する会」の本質です。

「NBUSは、LGBTQを強制的に変えよう」としているというデマには、まさに、「憂慮する会」の本心が投影されていると言えます。

 

「憂慮する会」に集う「キリスト者」が、実際に拒絶しているのは、NBUSの主張そのものではありません。

“すべての人は罪人であり、ただ、イエスの十字架のあがないと復活を信じて救われる“という、福音です。

「憂慮する会」が変えようとしているのは、彼らが「原理主義者」と呼ぶ私たちの信仰そのものなのです。

 

これは、信仰のたたかいなのだと、認識を新たにさせられます。

私たちのたたかいの中心は、血肉によるものではありません。ただ一つの宣言であることを心に刻みます。

「主イエス・キリストは、あなたの罪のため、十字架にかけられ、死んで葬られ、死を打ち破って復活された」

 

さいごに  ~ LGBTQ+のあなたへ~

レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、トランスセクシャル、クイア、あるいは、いまだにどこにも入れてもらえていないけれど、苦しみ悩んでいるという、あなたへ。

もし、あなたが、孤独で、どうしようもない命の危機に直面したときにには、ぜひ、NBUSの呼びかけ人や賛同者のところに、助けを求めてください。

 

極右でしょ!! 原理主義者でしょ!! まさか!! と思われるかもしれません。

しかし、わたしは、その「原理主義者」こそ、時に身を挺してでも、あなたに寄り添い、あなたを守ってくれる人だと信頼しています。

 

わたしは、以前には、「憂慮する会」の人々と同じ、リベラルなクリスチャンの社会派の最左翼にいました。

さまざまな立場を経てきて、今は、ある人々には「極右」と切り捨てられるような、「原理主義者」の立場にいます。

そのわたしの実感は、キリスト教、クリスチャンにおいては、徹底した「原理主義者」こそ、最も寛容で、謙遜で、心優しい人々だと言うことです。

 

告白しますが、わたし自身、性自認について、一時期、真剣に悩んでいたことがあります。

妙に内情を知ってるな、と思われた方がいるかもしれませんが、わたし自身、当事者の一人(とは認められないかもしれませんが)として、「憂慮する会」のような活動に参加したり、小さなコミュニティに関わったりもしていました。

この外見をどうにかできないものかと試行錯誤を繰り返していたものです。

以前のわたしの写真を見た人は、今との違いに、びっくりするかもしれません。

…「たいして変わらないじゃん」と言われたら、あの頃のわたしはがっくりするでしょうが…。

 

もちろん、誰しもが人間的な弱さを抱えているわけですが、わたしが出会わされたLGBTQの人々は、それぞれに歩まれてきた辛い経験のゆえに、むしろ、心優しく、感受性豊かな、愛すべき人々でした。

寄り添うように弱い立場に置かれた人々が集う、小さなコミュニティの中で、わたし自身、深い慰めや、力強い励ましを、どれだけもらったことでしょうか。

 

わたしは、あなたを愛します。

神が、あなたを愛されているからです。

わたしは、主イエスによって、愛されて、今を支えられ、生かされているからです。

 

わたしは、ある瞬間に、この世界と、すべての命を造られた、神の愛を知らされました。

神は、ご自身の分身のような、愛するひとり子、イエス・キリストを、わたし、あなたの罪のために、十字架にかけられました。

キリストが、十字架上で味わわされたのは、父なる神と完全に断絶された、これ以上ない孤独の闇でした。

人々に蔑まれ、侮られ、とことんまで辱められて、死んで葬られたイエスは、

しかし、三日目に、死を打ち破って蘇られました。

 

100%人となられたイエスだから、わたしの、あなたの罪のために死ぬことができました。

100神であられるキリストだから、死を打ち破って、栄光の体で復活することができました。

 

このイエス・キリストの、十字架のあがないの死と、葬りと復活を、わたしのためだったのだと受け入れて、イエス・キリストに個人的な信頼を寄せたその瞬間に、あなたは救われます。

過去、現在、未来まで、あなたの罪のすべてはゆるされて、あなたは二度と、神に手放されることはありません。

あなたは、永遠に神のもの。神の家族とされたからです。

 

この福音を本当に、心の底から信じた瞬間、わたしは救われました。

信じた者に約束されているのは、神の国の永遠の命です。

神の国、天国とは、どこか遠くにあるんだか、ないんだか分からない、そんなふわふわした場所ではありません。

復活し、天に昇られたイエス・キリストが、王の王として、この世界に戻ってくる時がくる。

「King of Kings(王の王)」「Lord of Loads(主の主)」と、ハレルヤコーラスで、何度でも歌われているのが、その方です。

 

王の王として、再び地上に戻られた再臨の主イエス・キリストは、地上の悪をすべてきよめて、世界をあるべき姿に回復させられます。

それが、神の国です。

神の国で約束されているのは、ただ福音を信じて救われたすべての人は、復活の、つまり、天の国の物質でできた天の国の体で、永遠に、悲しみも涙もなく、よろこびの内に生きるということです。

人はすべて、神の完全な愛と光の内におかれ、もはや、めとることも、嫁ぐこともなく、天使のようにされます。

性にまつわる苦しみのすべても解消されます。

 

このことが、すとんと胸に落ちたとき、性自認についてのわたしの苦悩は解消されました。

この地上生涯だけの肉体であるのなら、囚われる必要もない。むしろ、与えられたものを喜べばいい。

生えてくるものなら生やしてみるか、と髭を伸ばし始めたのも、その頃です。

今、わたしは、与えられた自分の性を、体を。三浦亮平という、一つの個性を、存分に味わい楽しんで生きてます。

 

わたしには大切な家族がいます。

一人は愛する妻です。かけがえのない、尊い人生のパートナーです。

かつて、妻は、バイクで北海道を旅していたときがありました。わたしは自転車。乗り物の違いが、性格の違いをよく表していると思います。

もし、クラスで一緒だったら、わたしのような存在には、見向きもしなかっただろうと妻は言います。

わたしも、こういう女性に憧れてたなぁ、と思い起こしますが、確かに、見向きもされなかったでしょう。

出会いとは、面白いものです。

結婚したとき、妻には、いわゆる連れ子がいました。それが、娘です。

だから、娘とは血のつながりはありません。…でもなぜか、よく似てますね、と言われます。

歌を愛し、声楽家の道を歩みつつ、歌を通して、神様を愛と伝えています。

妻との間に産まれてきた子は、ダウン症でした。IQ24、重度の知的障害と診断されます。

でも、聖書を読んで書くのは大好きで、暇を惜しんでは、せっせと聖書の言葉を書いています。

争いごとが大の苦手で、誰かが泣き出すと、ぽろぽろ涙を流す、平和の子です。

声楽家であるお姉ちゃんの賛美が大好きで、毎日聴いて歌っています。

 

妻は、日常生活では、愛着のある通称名で、以前の姓を名乗っています。

娘は、別に籍を造って、以前からの姓で生活しています。愛着があるのと、音楽活動上の利点も大きいからです。

多様なありようの家族の、一つの形を、私たち家族も作っていると思います。

 

原典において、聖書すべてをそのまま神の言葉として信じる、という立場にわたしは立っています。

聖書を聖書にこだわって読む中で気づかされたのは、いわゆるジェンダー、性役割に関することは、実は、すごく少ないということです。

それぞれの家の家長である父・夫に課せられた最大の役割は、神を第一として、家族教え導くこと。

それ以外の性役割、例えば、誰がご飯を作るとか、家畜の面倒をみるとか、なんてことは、ほとんど何にも記されていません。

たとえば、我が家では、平日は基本的にわたしがご飯を作ってます。妻は料理にストレスを感じるたちで、わたしは、大好きなので、自然とそういう形になってます。

こういうことは、それぞれの家庭で自由に決めたらいいわけです。

 

「妻は夫に従いなさい」と聖書に書いてあると言うと、ぎょっとする人がいるかもしれません。

でも、実は、「夫は、妻を従わせなさい」とは一言も書かれていません。

夫に命じられているのは、「夫は、妻を愛しなさい」ということだけです。

つまり、夫にできるのは、自発的に「妻を愛すること」だけ、妻にできるのは、「夫に仕えることだけ」なのです。

さらには、聖書において、愛するということと、仕えるということは、どちらも同じことなので、結局のところ、夫も、妻も、相手を無理矢理従わせるなんてことは、ゆるされていなくて、命じられているのは互いに愛することだけなのです。

 

わたしの本質は、あの頃と何も変わらないどころか、むしろ、どんなときよりも輝かされています。

わたしは、自分史上最高に、今、わたしらしく生かされています。

これからもっと、わたしは、わたしらしくされていくでしょう。

 

栄光の体、天の国の体とは、どんな体なのだろうと想像します。

きっと姿は大きく変わっているのでしょうが、合った人は、合った瞬間に、まぎれもなく、わたしだと分かる。

一人一人の個性がすばらしく輝いていて、なお完全に一致していて、互いに愛で満たされている。

今の私たちには、想像もし得ない、私たちの姿がそこにあるのだと思います。

神様が、最初から予定されていた、最高のわたし、最高のあなたが、そこにいるのです。

 

 

本当に真剣に聖書に立つ「原理主義者」のクリスチャンは、決してあなたを変えようとはしません。

なぜなら、人には、人を変えられない、ということを、よくよく知っているからです。

人に人は変えられない。自分に自分は変えられない。

他人も自分も変えられない人間に、世界を変えることなどできやしない。

だから、世界を造られた神の示された、たった一つの救いの方法にすがるしかない。

それが、聖書に向き合う時に否応なく示される、たった一つの道なのです。

 

人に人は変えられません。

自分すら変えられないわたしに、あなたを変えることなどできません。

もし、あなたを変えることのできる方がいるとしたら、それは、世界を造った神様だけです。

あなたのために、十字架にかけられ、死んで葬られ、死を打ち破って復活された、イエス・キリスト、この方だけです。

どうか、この方に信頼してください。

つまるところ、「原理主義者」と呼ばれる私たちが、あなたに、そして、すべての人に願うのは、ただそれだけのことなのです。

 

神を信じるというのは、神とあなたの個人的な関係の中のできごとです。

誰も、神とあなたの間に、介入することはできません。

信仰に関する自由を、誰も妨げることはできません。

ですから、安心して、イエス・キリスト、この方に向き合っていただきたいと、切に願い、祈っています。

 

あなたに、誰も決して手出しできない、神の平安が、とこしえに与えられますように。

主イエス・キリストのお名前を通して、お祈りします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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