ジャン・リュック.. | チャップリン | 小津安二郎 | ヒッチコック | ジャッキー・チェ.. |
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1976生/最初のペンネームは「きめこめ」。2022/08/11 | |
URL | eigaoboegaki.hatenadiary.com/ |
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1436 | コメント | 223 |
7 | あらすじ | |
2 | POV |
Comments
最近のコメント 10 | |||
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シン・ウルトラマン(2022/日) | 太陽は50億年後に膨張して、地球はその膨張に呑み込まれて消滅する。 [review] | [投票(1)] | |
マイスモールランド(2022/日=仏) | 主人公演じる少女は頑張っていたと思う。ふと、こんな子がこんな顔でこんな状況を実際に生きているのかも知れない、などと感じさせられる瞬間はある。 [review] | [投票(1)] | |
偶然と想像(2021/日) | 演劇ワークショップ三様…みたいな。 [review] | [投票(2)] | |
アメリカン・ユートピア(2020/米) | 何も知らない。しかし面白い。お客様は神様です、ならぬ、神様がお客様ですという、舞台と客席の彼我の懸隔、その不即不離な相関の機微は、言わば映画そのものの機微ではないか。見られる、見ている、その相関は、一方が一方を呑み尽くすものであってはならない。視覚と聴覚のシンクロが映画の虚構として現前する時、それは映画の真実を生き始める。 | [投票] | |
きみと、波にのれたら(2019/日) | 人物が人間ならぬ作劇の為の人形にしか見えてこない。肉体の線ではなく衣服の線で描かれる人物の、その衣服のヒダや膨らみも決してその心のヒダや膨らみには見えてこない。歌のユニゾンはアイデアだったかも知れないが、繰り返し喚かれれば無神経さにうんざりせざるをえなくなる。情理の結節点を欠いた脚本は説明を垂れ流すだけに見えた。 | [投票] | |
ザ・ハント(2020/米) | どこのだれなのか判るようで判らないかの人の、しかし終始宙ぶらりんで当てどもないようなその肖像の示す当惑、困惑の感だけは、分からないようで妙に分かる。そんな肖像を画面の中の実存として捉まえられれば、それだけでもかろうじて映画は映画足りえる。そしてかの人は息を吹き返すかのように笑う。そりゃあ、そうだ。 | [投票(1)] | |
ミッドウェイ(2019/米=中国=香港=カナダ) | 1937年、日米開戦以前の日本から始まる。 [review] | [投票(3)] | |
イップ・マン 継承(2015/中国=香港) | 子は親の背中を見て学ぶ、という映画。親は子を、子は親を「見て」いるし、また夫は妻を、妻は夫を「見て」いる。夫妻は正対して向き合うよりはむしろ並んで立ち(身長差!)、座り、そして背中を預け合う。ごく些細な所作や表情、人物同士の位置関係、時間的・空間的な意識ありきでこそ演出は単なる映像ケレンにとどまらないものになる。見て学ぶ、これこそ映画。 | [投票(1)] | |
風の谷のナウシカ(1984/日) | 画面の内外が絶え間なく断続する編集のキレを見せつけられるにつけ、編集とは削る作業だと感じさせられる。流動する世界そのものの全体の中から削り出すべきところだけを削り出し、その一連の断続が広大な世界の断片に宿るなけなしの真実の姿を黙って映し出す。皆が皆、生存圏=生存権を脅かされることで否応ない修羅場が生まれる。それでも一寸の蟲にも五分の魂を見出してしまう感受性ありきの世界。 | [投票(3)] | |
ガルヴェストン(2018/米) | 「棄民」という言葉を思い出す。これでもか、というくらいに手元に口元に弄ばれる煙草と酒。「今此処」に居た堪れないという体で行動に駆り立てられる人間。その「地獄」はその場所だけのものに非ず。「今此処」に逼塞させられてあることには必ず由縁はある。逃げ続ける映画、逃げ続ける画面。〔3.5〕 | [投票] |
Plots
最近のあらすじ 5 | |||
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幸福 Shiawase(2006/日) | 白夜の季節の北海道・勇払。その田舎町の無人駅に一人の男(石橋凌)が降り立った。男はさすらう風にその誰もいない田舎町の道を歩き、やがて小さな公園で倒れてしまう。かたや同じ田舎町の道を一人の女(桜井明美)が歩いていた。女は町角で見つけた募集告知に引き寄せられてある場末のバーの女給になる。そして女は、行きずりに男を拾う。行く当てのなさそうにしている男を、女は自分の部屋に呼びいれる。男にしがみつく女。そして一夜を共にした二人は、その日から奇妙な共同生活を始めることになる。〈106分〉 | [投票] | |
タルチュフ(1926/独) | 偽善を働く家政婦に騙されて、財産を家政婦に譲ってしまおうとしている老人がいた。老人には俳優をやっている孫がいたが、財産を狙う家政婦に偽りの不行跡を吹き込まれて、すっかり信用をなくしていたのだ。そこで孫は家政婦の偽善を暴くべく一計を案じる。それは映画の興行師に変装して祖父の家を訪ね、そこである映画を上映して見せるというものだった。そしてその映画こそは、偽善を働く似非聖職者タルチュフがその悪事を暴かれる映画、「タルチュフ」だった。モリエールの戯曲を、映画中映画という入れ子構造の手法で映画化したムルナウの作品。〈71分〉 | [投票] | |
路上(1996/日) | 重い外套を羽織って新宿の路上を独り彷徨する女の映画。神代辰巳のもとで助監督を勤めた経歴のある鴨田好史が、その遺作『インモラル 淫らな関係』の残フィルムで撮影した、言わば神代辰巳への鎮魂のフィルム。〈42分〉 | [投票] | |
アフリカへの想い(2002/独) | かつての伝説的映画監督レニ・リーフェンシュタールが、長い沈黙を経て1973年に発表した写真集「NUBA ヌバ」は、一部にはファシスト的との評も受けながら、大きなセンセーショナルを呼び起こした。それから30年、かつて生活を共にし、友愛を育んだヌバ族の人々と再会するため、レニは再びアフリカの地へと旅立つ。今は内乱続くそのスーダンの地で、果たしてレニはヌバ族の人々と再会できるのか。当時100にも近い年齢を重ねて尚盛んな活動力と生命力を見せていた女傑の、その旅の過程を追跡したドキュメンタリー。〈60分〉 | [投票] | |
呪われた森(1980/米=英) | 音楽家の父親をもつアメリカ人の一家がイギリスへとやってくる。一家は新居として紹介された鬱蒼とした森の中に建つ大きな館にやってくるが、その家主であるエルウッド夫人(ベティ・デイヴィス)は気難しげな表情で一家を眺め、そして長女のジャン(リン・ホリー・ジョンソン)に目を留めて、一家を受け容れることを告げるのだった。やがて館に住み始めたジャンはじめ4人の一家だったが、住み始めたその日から、ジャンのまわりには奇妙な出来事が起こり始める。そしてやがてジャンは、そのことがエルウッド夫人の30年前に失踪した娘、カレンの存在と関係があるらしいことに気がついていくのだった。〈84分〉 | [投票] |
Points of View
ジャンヌ・ダルクの映画 | [投票(1)] |
ジャンヌ・ダルクを描いた映画。ランクは年代順。 | |
宮沢賢治と日本の映画 | [投票] |
A:宮沢賢治の生涯、B:宮沢賢治の原作。原作作品は、やはりアニメーションが多い。 | |
ケルベロスもの | [投票] |
押井守の趣味世界。 | |
アントワーヌ・ドワネルもの | [投票] |
フランソワ・トリュフォーの自伝的連作。 | |
勝手にしやがれ!!シリーズ | [投票(1)] |
黒沢清の95年から96年にかけての連作。ハードボイルドより軽妙洒脱な“ハーフボイルド”・シネマなんだとか。この連作はその後の『CURE/キュア』以降の作品への助走とも言える。 |