かつて岐阜県不破郡関ケ原町にあった遊園地「関ケ原メナードランド」。1972年11月に日本メナード化粧品(名古屋市)が、乗馬とアーチェリーの施設としてオープンした。東海地方最大級の屋外スケートリンク「関ケ原メナード国際スケートセンター」を併設し、オープン後にジェットコースターや大観覧車、迷路、ゴーカートなどの遊戯施設を増設。春は山桜、夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪景色と四季折々に変化する自然豊かな18万平方メートルの敷地に、20種ほどのアトラクションがそろっていた。
最盛期の89年には、年間約24万人の入場者でにぎわった。近くにある老舗喫茶店「こだま」の店主の女性(70)=関ケ原町玉=は「すごい人出だった。大阪や名古屋から団体旅行のバスが連なり、当時たくさんあった民宿は夜中まで忙しそうだった」と振り返り、「昆虫展や写生大会、ヒーローショーなど多彩な催しがやっていて、子どもと何度も訪れた」と笑顔で懐かしんだ。同ランドの従業員にも親しまれ、「たくさんのスタッフに利用してもらった。一緒に潮干狩りに行ったことも良い思い出」と話す。
「メナードランドで青春を謳歌(おうか)した」と語るのは、スケートリンクで指導員のアルバイトをしていた男性(77)=同所=。遊園地は子ども向けだったが、スケートリンクは若者のデートスポットだった。流行歌が流れ、週末は深夜営業もやっていたという。「多いときは6千人がリンク内にいて、歩くことしかできない芋洗い状態。だけど、みんな男女の出会いの場として楽しんでいた」
当時、大学生だった男性もリンク上でお見合いをしたり、スケート教室で出会った女性と後日デートしたりしたという。「稼いだアルバイト代で、トヨタ車のパブリカを買ったよ。当時メナードガールだった女優の岡田奈々さんを、車でいろんな場所に案内したこともある」と照れ笑いを浮かべた。
老若男女に愛された同ランドだが、95年ごろから入場者数は低落傾向に。2000年には15万人前後にまで減少し、同年10月に休園した。ファミリー層向け施設への全面改装を計画したものの、翌年1月にそのまま閉園。一部施設が残されていたが、現在は全て解体され、更地になっている。
地元、玉区長の澤居久文さん(74)は「不況の影響に加えて、レジャーも多様化していた頃。地域の子どもも減ったし、メナードランドの客層もだんだん高齢化していた」と話す。それでも人気ロックバンドのシャ乱Qや野猿(やえん)のコンサートなど大規模なイベントが開かれたことを覚えており、「メナードランドのおかげで一帯が活気づいていた」と感謝する。「今も再整備や再利用を求める地元の声は少なくない。持続可能な町であるために、また当時の活気が戻ってくれれば」と願った。