第七章59B 『フロップ・オコーネル』
「――自分の命を大事にしろよ、フロップ。自己犠牲なんて大馬鹿のするこった」
そうフロップに忠告したのは、劣悪な環境から連れ出してくれた恩人のマイルズだった。
フロップとミディアム、幼い時分に二人が身を寄せた孤児院というのは、どうやら思っていたよりもずっと性質の悪い施設であったらしい。
家族も、行く当ても頼る相手もいないみなし子たちを集め、その子どもたちに屋根と壁のある生活を提供する孤児院、大人たちは口癖のように言っていた。
「食べるものも仕事もない奴が溢れている中、お前たちは恵まれている」と。
実際、そうなのだと思っていた。
妹のミディアムと二人、家族に捨てられて泥水を啜りながらの生活は辛かった。食べ物と言えば草や虫、たまに兎の類が捕まれば大騒ぎで、ひどいときには土や苔を齧って飢えをしのいだこともあった。
それらと比べれば、孤児院での生活はずっと恵まれていた。
薄くてボロボロでも毛布を与えられ、味のしないスープと一欠片のパンでも食事はちゃんと提供された。数がモノを言う単純作業という仕事を宛がわれ、大人に気紛れで暴力を振るわれるのも、毎日というわけではないぐらい。
外の世界の方がよほど辛いと、そう言い聞かせる大人の言葉にも一理あった。なら、逃げようなんて考えは芽吹くことすらしない。
とはいえ、大人たちの殴る蹴るにミディアムや、他の子どもたちが晒されるのは忍びなく、フロップはできるだけ朗らかに、大人の目に留まるよう振る舞うことを覚えた。
毎日、大人たちの注目を一番集めるのが自分の役目と、フロップはそう心に決めた。
目立つフロップが気に入られれば、大人たちの他の子への態度も軟化する。大人たちの機嫌の悪い日があっても、最初に矛先が向くのは目立つフロップだ。
目立つ、というのはただそれだけで武器になる。
声と身振りを大きく、表情と仕草を大げさに。幸い、それらを癖にするのはさして難しくはなかった。人目を惹くことに関しては天稟があったらしい。
――年少の子に向かった怒りの矛先をずらし、半殺しの憂き目に遭ったフロップの傷を一晩中ミディアムが撫でていた夜、それを確信した。
これが、この場所で自分が果たさなくてはならない役割だ。
気が遠くなるような痛みの中で、フロップは自分にそう言い聞かせて――、
「んなわきゃねえだろ、トンチキめ」
「え……」
「何年かぶりに面出して見りゃ、相変わらずのムカつく我が家で、しかも馬鹿なガキが馬鹿な真似してやがる。イカレ坊主なんてバル坊だけで十分だってのに」
役割を自認し、孤児院の負の側面を一手に担う覚悟を決めたフロップ。
だが、そんなフロップの目論見は、ある夜に唐突に打ち砕かれることとなった。
飛竜に跨って現れたその人は、お世辞にも見目の整った人物ではなかった。
粗暴な育ちの悪さを隠さず、苛立たしげに灰色の髪をガリガリと掻き毟る姿は、子供心にあまり関わりたくない類の相手。どことなく、卑屈な鼠を思わせる顔立ちもその印象を助長し、普段なら殴られないように頭を低くして接するべき存在だ。
そんなフロップの失礼な印象を、その人――マイルズはとても億劫そうに裏切った。
「元々、オレもお前らと同じこの施設の出だ。まぁ、オレのときもひでえ場所でよ。だからとっとと逃げ出して、泥水啜って生き延びたわけだ」
夜、就寝中に逃げられないよう、子ども部屋の扉には無骨な鍵がかかっていた。
その鍵を荒っぽく壊して中を覗いたマイルズは、狭い部屋に二十人近くも押し込まれた子どもたちを見て、とてもとても苛立たしげに舌打ちをしたものだ。
それから彼は、知らない大人の登場に驚きと怯えを抱く子どもたちを部屋の外に出し、「待ってろ」と一言残して大人たちの部屋に向かった。
そして――、
「死ぬの死なねえの、そんな毎日の繰り返しだったが、オレはどうにか運を拾った。で、何年か経って、ふと忌まわしの我が家を思い出してみたら……これだ」
縛り上げた大人たちを部屋の床に転がし、恩知らずと罵る彼らの顔を蹴飛ばしながら、マイルズは下卑た笑みを浮かべ、「ざまあみろだ」と唾を吐く。
よほど大人たちに辛い目に遭わされたのだろう。とはいえ、そこまでしていいものかとフロップは首を傾げざるを得なかった。
そんなフロップの方を振り向いて、マイルズはその薄い眉を上げると、
「なんだ、お前もやりてえのか? なら仕返ししてやれ。百倍返しだ」
「え、そんな、僕は……」
「――やるっ!!」
マイルズの悪魔めいた囁きに、フロップは答えを躊躇った。
が、そのフロップの後ろから飛び出したミディアムは、拾った木の枝で縛られた大人の頭を躊躇なく殴りにいった。――否、ミディアムだけではない。
呆気に取られたフロップを除く、全ての子どもたちが怒れる反逆者となったのだ。
「いつも痛かった!」
「大嫌い!」
「あんちゃんの仇!」
やめろやめろと、縛られて抵抗できない大人の悲鳴が子どもの怒声に呑まれる。
彼らは大人の顔に爪を立て、その頬を叩き、ついには小便をかけて、日頃の溜め込まれた怒りを爆発させた。
「ぶはははははは! 見ろ、あいつらの面! 傑作だな!」
呆然と、妹たちの反逆を見ているフロップの横で、マイルズが下品に大笑いする。
とてもではないが、フロップはそれを笑う気にはなれなかった。ただただ、大人たちをこんな目に遭わせて、それで自分たちはどうなるのかと目を回しているばかりで。
「さて、あとは好きにしろ……と言いてえところだが、それで放り出すなんてしたら、ドラクロイ伯になんてどやされるかわからねえ」
感情のままに反逆を終え、施設の外に出てきた子どもたちを見回しながら、マイルズはその幼い後輩たちに「だから」と言葉を続け、
「ひとまず、伯のとこに連れてってやる。そこからの身の振り方は自由にしろい。別にオレについてこなくたっていいがな」
マイルズのその大雑把な誘いを受け、子どもたちは顔を見合わせた。
その顔に浮かぶのは不安と困惑だ。ついてくるかどうか、それすら自由だとマイルズは言ったが、それはこれまでのフロップたちにはなかった『選択肢』だ。
これまでずっと大人の指示に従ってきた子どもたちに、何かを選ぶ権利なんてなかった。だから、いきなり権利を手渡され、それを持ったままわたわたしてしまう。
そんな子どもたちの様子に、マイルズは「おいおい」と肩をすくめ、
「今さらなんだ、情けねえ。――もうあいつらにやり返したあとだろうが。お前らは、なんだって選べるんだよ」
そうマイルズに言われ、子どもたちは初めて気付いた。
もうすでにマイルズの言う通り、自分たちは反逆することを選んでいたのだと。
――結局、孤児院を出ない選択をした子どもは一人もいなかった。
もちろんフロップも、加担していなかったとはいえ、あれだけのことをしでかした孤児院に残るなんて言い出せない。そもそも、ミディアムはいち早く「いく!」とマイルズの誘いに乗り、「いこう!」とフロップにも呼びかけていた。
ミディアムの願いを叶えないことも、妹と別れ別れになる道を選ぶこともありえない。そんな、いくらか他の子と比べて消極的な理由でフロップは施設を離れた。
とんでもないことをしてしまった。
あるいはとんでもないことに巻き込まれてしまったと、後悔の念が胸を苛んだ。
しかし――、
「おやすみ、あんちゃん」
マイルズの主人とやらの下へ向かう道中、屋根のない場所で、施設から持ち出した毛布に妹と一緒にくるまって眠るとき、その言葉が胸を突いた。
安堵したように身を委ねてくる妹と、庇や壁という名の牢獄のない外の景色。
もう、殴られる心配も、妹を泣かせる不安も抱えなくていいのだと、気付いた。
「――ふ」
気付いて、フロップは泣いた。
泣いて泣いて、泣きじゃくって、塩辛い自由の味を噛みしめたのだった。
△▼△▼△▼△
――遠く、翼をはためかせ、飛竜が灰色の雲に覆われた空を遠ざかっていく。
それが次なる攻撃の予備動作ではないと、遠のく影が豆粒ほども小さくなるまで警戒を続け、それからズィクルは体の緊張を解いた。
理由は不明だが、飛竜の群れは撤退した。都市庁舎が完全に陥落していない以上、撤退理由の可能性は二点――作戦目標の達成か、達成困難と判断したかの二極。
ズィクルの視点からすれば、前者である方が望ましい。
ほんの一時間ほどの激しい攻防の中、起こった劇的な出来事の数々を拾っても、客観的に前者の可能性が高いのではないかと考えられた。
「急激な気温の低下と、都市南部の壊滅的被害……」
豊かに茂る自身の髪に手を入れて、ズィクルは判断のつかない二つの異変に触れる。
戦いの最中、城郭都市の気温がみるみるうちに下がり、ついには白い雪がちらつき始めたときには自分の目を疑った。高い高い山の上では雪を見ることもあるそうだが、ヴォラキアで雪を見ようとするなら天変地異の類に期待するしかない。
つまり、戦闘中に起こった降雪は天変地異に他ならなかった。
もっとも、それ自体はズィクルたちに幸運に働いた。
急激な気温の変化、特に寒さに飛竜は弱く、厄介な飛行戦力が目に見えて低下した。それがなければ、被害はもっと大きく深くなっていたことだろう。
ただし――、
「あの、白い光はいったい……」
手の付けられない絶望的な破壊、それが都市の南部を平たく消し飛ばした。
それは天変地異という言葉ですら生易しい、ある種、この世の終わりの光景の一つ。あとに続く被害こそなくとも、その一発で十分に都市は痛手を被った。
指揮系統も混乱し、戦況判断も停滞。もしもそのまま飛竜に押し込まれれば、なし崩しに都市は陥落していたかもしれない。
それだけに、飛竜の群れが撤退したのは僥倖であり、おかしかった。
故に、ズィクルは攻め手の敵側に何かがあったのだと推測する。
都市の防衛に手を割かれるズィクルたちに代わり、誰かが敵に痛打を与えたか。その場合、候補に挙がるのはシュドラクを率いるミゼルダか、一将であるアラキアを退けた実績のあるプリシラが有力だ。
そのいずれがやってくれたにしても――、
「やはり、女性は素晴らしい。が、女性の陰で守られる恥を当然と思いたくはない」
女性が優れたる存在であることは、ズィクルが劣っていい免罪符にはならない。
女性の素晴らしさは敬い愛でつつも、自らの咎は戒めとすべし。
ともあれ――、
「これほどの猛攻に晒されるとは、事前の備えが活きましたな」
「……城郭都市の攻略ならば、飛竜を使うのが定石だ。とはいえ、飛竜隊ではなく、『飛竜将』が送られてくるのは予想して然るべきだった」
負傷し、頭から血を流した参謀官の言葉にズィクルは首を横に振る。
見通しが甘かった。飛竜への備えとして用意した攻竜兵器も、帝都からの攻撃を予期して西の城壁に多く配置したが、飛竜の群れは四方から襲ってきた。
一将であるアラキアの撤退後、次の一将が派遣されるには時間がかかると踏んだが、これも読み違い――状況を思えば、それも当然と言えよう。
これは一都市の反乱ではなく、もっと大きな大政変の先触れなのだ。
その事情を把握している帝都の奸臣からすれば、火種の小さいうちに反乱の火を消そうと全力を注ぐはず。連続した一将の投入も視野に入れておくべきだった。
「いいや、反省は後回しだ。城壁が崩された以上、飛竜でなくとも都市の攻略は容易い。被害状況の確認だ。壁の修繕が可能か確かめ……」
「――今すぐ武器を下ろせ! これは命令だ!」
「む」
反省要因を速やかに抽出し、思考の端に蓄えるズィクル。
そのまま被害の確認と、今後の対応に頭を割こうとしたところで、緊迫した鋭い声が冷え切った空気を揺すぶった。
見れば、飛竜の襲来を退けた都市庁舎、指揮所として利用されたその場所で、守備兵たちに囲まれている人影が一つ。
それまで飛竜に向けられていた武器と警戒を一身に集めるのは、態度悪く周囲の面々を睥睨する男だ。その両手には長剣が握られており、剣先から血が滴っている。
ただし、それは人間の血ではなく、飛竜の血だ。
「あれは……」
「飛竜への対策に、地下から出した兵の一人です。双剣の使い手で……」
「ああ、私も見ていた。一騎当千の戦いぶりだったな。――おい、やめろ!」
参謀官の指摘に頷いて、手を広げるズィクルが部下たちにそう命じる。そのズィクルの指示に、部下の一人が「二将!」と声を高くし、
「危険です! 事態が事態だけに、牢から出しましたが……」
「飛竜の脅威が去れば、それですぐに牢に戻すと? それでは納得するまいよ。そのために払う犠牲の方が問題だ」
緊迫する部下にそう応じ、ズィクルは囲まれる男へと歩を進めた。
双剣の使い手の実力、それは一般的な帝国兵と比べてかなり高い。事実、彼の奮迅の活躍がなければ、都市庁舎を襲った飛竜の群れを撃退できた確証はなかった。
その剣がこちらへ向けられれば、相応以上の被害が出るだろう。
「無論、そうした暴挙に出られれば、そちらの命もない。だから……」
「だから、なんだ?」
「――――」
切り出したズィクルに、男が刺々しい声と態度でそう応じる。どころか、彼は手にした二本の剣の片方をズィクルへ向け、猛々しく「はっ」と笑うと、
「オレに大人しく投降しろってか? それじゃ、他の連中と言ってることが変わらねえだろ、『女好き』の二将殿」
「貴様! ズィクル二将を愚弄するか!」
不名誉に聞こえる肩書きを誇りとするズィクルだが、今の男の発言には肩書きを嘲弄する明確な意図が感じられた。そのため、部下たちはいきり立って敵意を増したが、ズィクルは改めて彼らを手で制しつつ、
「投降は歓迎するが、そうではない。貴君の働きは見事だった。立場は違えど、都市の防衛に貢献した事実は薄れない。故に、貴君を解放する」
「――。本気か?」
「信賞必罰はヴォラキアの掟であり、皇帝閣下のお望みだ」
そのものの実力と働きを以て評価するヴォラキアの皇帝、その在り方は帝国の実力主義の規範であり、ズィクルもまた尊敬の念を抱く忠節の根幹だ。
しかし、そのズィクルの答えを聞いた途端、男の態度が露骨に刺々しくなる。
その全身から溢れ出す鬼気と、その眼光――眼帯で右目の塞がった男は、左目に自分の感情の全部を込めてズィクルを睨みつけた。
「その皇帝閣下と帝国を裏切って、敵側についた反乱の『将』が恥ずかしげもなくよく言えたもんだな……! オレなら、その恥知らずさに耐え切れずに腹を切るぜ」
「――――」
強烈な敵意、その源泉が帝国への忠義にあると窺わせる男の発言に、ズィクルはわずかに息を詰め、それからじっと男を見つめた。
地下牢に入れられたこの兵は、ヴィンセントが策によってグァラルを攻略した際、投降の指示に従わず、最後まで抗った一人のはずだ。すなわち、とびきり強い帝国主義への帰属意識を持っている人物と言える。
ならば――、
「もしも、私が貴君と同じく、帝国と皇帝閣下に変わらぬ忠義を誓っていると言えば、貴君は私の話に耳を傾ける気になるだろうか」
「ああん?」
ズィクルの問いかけに、男が左目を見開いてガラの悪い声を漏らす。が、その眼光に怯まないズィクルの様子を見据え、しばしの間をおいて、彼は剣を床に投げ捨てた。
甲高い音を立てて転がる剣、無手になった男は両手を上げる。
「話を聞く、という意味に受け取っても?」
「ひとまず、玉砕覚悟で暴れるのはやめてやらぁ。本気でやれば、裏切りの『将』の首ぐらいは取れそうだが……」
ぐるりと周りを見渡して、男が挑発的にズィクルの部下たちを見る。その視線に彼らの警戒は高まるが、男は「へっ」と鼻で笑うと、
「やめといてやらぁ。ただし、つまらねえ話なら……」
「相応に興味の持てる話のつもりだ。……時に、貴君の名前は?」
武器を下ろしたことで歩み寄れたと、ズィクルが男に名前を聞く。一瞬、男はその質問に答えるか迷ったが、誤魔化す意味もないと自分の頭を掻きながら、
「――ジャマル・オーレリー。上等兵だ」
と、自分の名前と階級を述べた。
その姿勢を受け、ズィクルも深々と顎を引く。
「ジャマルか。知っているだろうが、私はズィクル・オスマン。帝国二将の地位を与えられ、『女好き』とも呼ばれている。もっとも」
「あん?」
「今の私は『臆病者』と呼ばれる方が奮い立つのだがね」
かつては恥と思ったその異名は、ズィクルの中で特別な輝きを放つものとなった。
そのズィクルの答えを聞いて、男――ジャマルは無理解に顔を歪める。腕は立つが、頭を使うのもひねるのも得意ではない性質と見た。
それならそれで、義を説けばこちらの話に耳を傾けるかもしれない。
そこへ――、
「――すみません、この都市の代表の方はこちらでよろしかったですかね?」
ジャマルが投降し、弾けそうな緊迫感から解放される都市庁舎。そこへ、割り込む機を見計らっていたような声が滑り込んでくる。
静かで柔らかなその声色は、聞くものの安堵を引き出すように鼓膜を打つものだ。
とはいえ、聞き覚えのない声にズィクルは振り向き、その丸い眉を顰める。
声の主が姿を見せたのは、指揮所となった最上階と階下を繋ぐ階段だ。両手を上げ、敵意がないことを示しながら、その灰色髪の男は視線を巡らせ、
「そちらの方が、『将』のズィクル・オスマンさんですか?」
同じ赤い制服を纏ったものの中から、躊躇なくズィクルを『将』と見定めてきた。
無論、羽織ったマントや肩口の階級章があるのだから、ズィクルをこの場で最も位の高いものと見抜くのは簡単だ。――問題は、それを指摘する度胸である。
直前まで戦闘があった指揮所に顔を出し、見知らぬ指揮官を指名する胆力。控えめながらも怖じていない男、その所属をズィクルは訝しんだ。
都市の住人に見当たらなかった以上、戦いの最中に紛れ込んだと考えられる。
その場合、最も適当なのは――、
「帝都の使い……我々への伝令だろうか」
「え? あ、いやいや、全然違いますよ! 僕たちはもっとこう、説明するのがややこしくて複雑なんですが、帝都の関係者とかではないです」
上げた両手を横に振り、青年は慌ててズィクルの疑念を否定した。それを鵜呑みにするならば、ますます青年の立ち位置がわからない。
そう眉間の皺を深めるズィクルに代わり、ジャマルが「てめえ」と歯軋りし、
「こっちが先約入ってんだ! あとから入ってきてうだうだと……ぶっちめるぞ!」
「それに関しては申し訳なく思ってますよ。僕も現時点で落ち着いた話ができるとは思っていません。なので、許可だけもらえれば」
「許可ぁ? 何の許可だよ」
「負傷者の治療や、このあとの都市の修繕……言うなれば、戦後の処理のお手伝いになりますかね。多少なり、僕と同行者たちはお役に立てるはずなので」
頬を歪めるジャマルに答え、青年は「もっとも」と嘆息する。疲れたような呆れたような、どことなく脱力した様子の青年はわずかに頬を緩め、
「すでに始めてしまっているので、一部は事後承諾なんですが」
「――。申し出自体はありがたいが、それは……」
「難しい話ではないゾ、ズィクル。その男の話に嘘はなイ」
ズィクルが質問を重ねる前に、聞き惚れる凛々しい声がそれを遮った。
床に杖をつくような音が鋭く響いて、階段を上がってくる影が青年に並ぶ。それは勇ましい全身に血を被り、その猛々しい美貌を増したミゼルダだった。
見たところ、その美しい体を汚した血は全て返り血であるらしく、先だって損なわれた足以外に目立った外傷はない。無事戻った彼女に安堵する。
そうして戻ったミゼルダは、青年の細い肩を親しげに叩くと、
「このものの連れがすでに仕事を始めていル。私モ、保証しよウ」
「ミゼルダ嬢、ご無事で何よりです。彼は?」
「知らン。私たちの敵ではなク、顔のいい男だから通しタ」
「ミゼルダ嬢……」
いささかズィクルとは物の見方が異なるミゼルダの審美眼、確かに彼女の言う通り、青年の見目は優しげに整っていると言えるだろう。
漂う雰囲気はどことなく中性的で、しかし眼光には妙に強い一本の芯を感じる。
悪い人間ではない、とはズィクルも思う。ただ、腹に一物抱えてもいるだろうと。
「この状況で、見返りを求めない助力があるとは思わない。君は、何者だ?」
「さっきも言いましたが、説明するのがややこしい立場のものです。ただ、あなた方と敵対するつもりはありませんよ。――探し人があるだけで」
「探し人……」
そう重ねたズィクルの一言に、青年は「ええ」と頷いた。
それから彼は被っていた緑色の帽子を外し、自分の胸に当てて一礼、帝国風ではない礼節だが、こちらに敬意を払う姿勢を見せながら、
「オットー・スーウェンと申します。――友人と、友人の妹さんを探していまして」
と、油断ならないハイエナのような目で目的を語ったのだった。
△▼△▼△▼△
――マイルズの主人、セリーナ・ドラクロイ上級伯は苛烈な女傑だった。
若くして帝国貴族の上流で鎬を削る彼女は、帝国主義の表れたる鉄血の掟に従い、能力のあるものを取り立てる実力主義に重きを置いていた。
その一方で、強者が弱者を意のままに辱めることを良しとしない高潔さも持ち合わせており、それ故にマイルズの連れ帰った子どもたちは悪しく扱われなかった。
「報告は受けている。面倒を避けるマイルズが連れ帰るほどだ。よほど、お前たちの境遇を不憫に思ったのだろう。私の領地では好きに過ごせ」
フロップら子どもたちを迎え、そう応じたセリーナは鷹揚に笑う。
身の丈以上に巨大な存在を前にしていると、子供心にひれ伏したくなる威圧感、そして初めて見るような華美で大きな屋敷の内装に、フロップは圧倒された。
「伯みたいに余裕があるお人は、わざわざ下々のもんをイジメる理由がねえ。結局、ガキを殴る大人ってのは、自分がガキの頃に殴られた大人なのさ」
熱い湯を浴びせられ、腹が膨れるほどの食事を貪り、清潔でいい香りのする服に着替えたフロップたちに、マイルズは常の通りの粗雑さで答えた。
その見るもの触れるもの全部が新鮮な世界に目を回しているミディアムたちと違い、フロップは自分の知らない世界、考え方にたくさんの感銘を受けた。
特に、マイルズが何の気なしに告げる哲学から受けた影響は大きい。
フロップが考えもしなかった物の見方が、捉え方がこの世には存在するのだと、彼が外の世界へ連れ出してくれなければ知りようがなかった。
何より――、
「おお、ご同輩でやしょう。そちらさん方も、マイルズ兄ぃの拾いもんで?」
自由を与えられ、屋敷を駆け回る妹たちの背中を追いながら、広大な敷地の中にある美しい庭園に足を止めたフロップ。
大輪の花々が凛と咲き誇る光景に圧倒される背へ、そんな柔らかい声がかかった。
驚いて声の方を探ってみても、庭園に相手の姿が見当たらない。そのことにフロップが首を傾げると、
「こっちでやすよ。すいやせんね、ちょいと下から失礼をば」
「うわあ!」
「おお、すってんころりん」
ひょいと、庭園を覗くのにフロップが寄りかかった柵の向こう、すぐ目の前から頭を出され、フロップは思わずのけ反った。
そのまま尻餅をつく姿を笑われ、フロップは目を瞬かせる。
転んだフロップを笑ったのは、いくらか年上の幼さの残る少年だった。十二、三歳前後だろうか、愛嬌のある顔立ちをした茶髪の人物。
「……笑うなんて、ずいぶんじゃないか」
「おお、すいやせんすいやせん。見事にすってんといったもんで、つい。助け起こしたいとこなんですが、あっしは今動けないとこでして」
「動けないって……ぁ」
尻を払って立ち上がり、フロップは柵を回って少年の前へ。すると、地べたに座り込む少年は、胡坐を掻いた膝の上に丸い塊を乗せていた。
それを見て、フロップは目を丸くしてしまう。
「それはまさか、卵?」
「そうそう、でけえ卵でやしょう? 実はこいつ、飛竜の卵なんですぜ」
「飛竜の卵なんて、どうするんだい?」
「もちろん、孵すんでさぁ」
その一抱えもある大きさの白い卵を、それこそ体全部で抱きしめながら、少年はフロップに破顔してみせた。
――それがフロップとミディアムのオコーネル兄妹と、生涯の義兄弟の誓いを交わすこととなる人物、バルロイ・テメグリフとの出会いだった。
△▼△▼△▼△
――飛竜の脅威について、知識以上の知見を得たと言える。
その爪や牙の脅威を、翼を用いた戦術の幅を、敵を害することを躊躇しない凶暴性を、それぞれ破壊された都市や襲われた人々の姿から十分以上に痛感した。
正直、このような危険な生き物を飼い慣らし、重用しようとするものの考えが理解できない。決して相容れない敵――それこそ、密林で出くわした巨大な蛇のように、ただ危険なだけのものと思えてならなかった。
しかし――、
「――――」
窓の外、眺める景色の中に存在する取り合わせに、レムは静かに目を細める。
豪邸の庭先、そこで翼を休めている一頭の飛竜がおり、傍らにはその飛竜に食事を与えている兵の姿があった。恐ろしく獰猛なはずの飛竜、しかしそれは柔らかい目つきと、まるで甘えるような声を漏らし、兵の手ずから餌を与えられている。
凶暴かつ凶悪と聞かされ、実際にその危険性を目の当たりにしたレムからすれば、ああして人に懐く飛竜の姿は驚きの一言だ。
散々、誇り高い竜は人には懐かないと、やたらと竜に詳しそうな少女に言い聞かせられていたこともある。話が違うと、そう思わされても文句はないだろう。
「物憂げにされておりますな」
不意に、そうして庭を眺めるレムの背後で声がした。
もっとも、相手は足音を立てて近付いてきていたので、誰かがやってきていることに気付いていたレムは驚かない。
ただ、知らない相手の声であり、場所が場所だけにいくらかの緊張は残しつつ、
「物憂げかはわかりませんが、思うところはあります。きたくて連れてこられた場所ではありませんから」
「ふ、なかなかどうしてはっきりと仰る。小気味よい方だ」
「……あなたは」
宛がわれた一室、捕虜に与えられる部屋すら豪奢な建物の中、高級感がありすぎて座り心地の悪い椅子の背を軋ませ、レムは現れた老人の素性を尋ねた。
白い髪に白い髭、そして糸のように細い目をした老齢の男だ。
その装いは戦士のそれと程遠く、何らかの高い位に就いた人物とだけ予測できた。
振る舞いと年齢、それにレムを見張っている兵たちが姿勢を正して頭を下げたことからも、彼が一定以上の立場にあることが窺える。
そのレムの遠慮のない視線に、老人は軽く手を振り、見張りの兵に退室を促す。兵たちは即座にそれに従い、一礼して部屋から離れていった。
そうして、老人は部屋の中でレムと二人きりになると、レムが座っているのと対面の席を手で示して、
「座ってもよろしいですか?」
「……どうぞ」
顎を引くレムの前、老人が緩やかな動きで席に座った。
そのまま正面からレムと向かい合う彼は、自身の顎を指で撫でると、
「私奴のことは、何も聞いておりませんか」
「いいえ、何も。治せと休め、勝手なことをしたら殺す以外は何も」
聞く耳を持たない屋敷の主――マデリンの指示を反芻し、レムは首を横に振る。
見張りを付けられ、逃げないようにと厳命されての軟禁状態。レムだって逃げるつもりはないが、面白くない状況なのは事実だった。
すると、そのレムの答えに「なるほど」と老人は頷いて、
「それはいささか、客人に対する態度に問題がありました。私奴からも、マデリン一将には注意しておくこととしましょう」
「……彼女に注意できるんですか?」
得体の知れない老人の言葉に、レムは思わず目を見張ってしまう。
城郭都市からこの屋敷へ連れてこられるまでの間、長いとも短いとも言えない時間をマデリンと過ごしたレムは、彼女の言葉の通じなさには散々悩まされた。
頑なで強情、多少なり言いくるめられる素直さがあって救われたが。
「彼女は、人から指図されるのが嫌いな人だと思っていました。何か言われれば、すぐに怒って暴力を振るうような……」
と、そこまで自分の所感を告げたところで、レムは自分の手に手を重ねる。
落ち着いて考えると、どんな顔をしてこれを言っているのかと自分が恥ずかしく思えてきた。人の話を聞かず、相手の指をへし折ったこともある身としては。
しかし、そんな自省をするレムの様子に、老人は「ふ」と小さく笑い、
「存外、間違いとは言えません。私奴としても耳の痛い話です。事実、今回も指示に正しく従ってもらえなかった。もっとも――」
「――――」
「今回はマデリン一将の気紛れではなく、別の要因が大きかったようですが」
唇を緩めたまま、しかし声色からは笑みの響きを消した老人。
瞳の見えない細目の向こうから値踏みするような眼光で射られ、レムは微かに息を詰めた。その視線は雄弁に、レムのことを『別の要因』とみなしている。
そしてそれは、目の前の老人にとって望ましくない結果を招いたとも。
「……あなたは、誰なんですか」
「申し遅れました。私奴はこの神聖ヴォラキア帝国にて、皇帝閣下より宰相の役目を与っております、ベルステツ・フォンダルフォンと申すもの」
「宰相の、ベルステツ……」
問いかけに、恭しく腰を折った老人――ベルステツ。
その名前と役職を聞いた途端、レムの頬はより硬さを増し、肩に入る力も強くなる。
名前も役職も、どちらも聞いた覚えがあった。
「では、あなたが……」
「ええ。――私奴が、ヴィンセント・アベルクス閣下の敵です」
「――――」
一切の躊躇なく言い切られ、レムはまたしても言葉を続けられなくなった。
わかっていたことの肯定だったが、こうもはっきりと言われるとは思わなかった。それと同時に、否応なしに巻き込まれた大きな問題、その渦中に一番近い場所に自分が立ち入ってしまったのが、ひどく場違いで皮肉に思えてならない。
本来、この場にいるべきは自分ではなく、アベルやプリシラ、それにスバルだろう。
そこまで考えて、レムはこの場にスバルがいなくてよかったと思った。
「いたらいたで、絶対に一人で無茶をしたでしょうから……」
黒髪の少年の思い切りの良さと、想像の斜め上をゆくところは疑う余地もない。こうした事態においても、レムの想像もよらない突飛な状況を引き起こすだろう。
そうした意味では、飛竜に襲われた都市に彼がいなくて正解だった。あれを彼がどうにかできたとも思えないし、余計な傷が増える一方だったろう。
ただ――、
「――――」
ただ、自分がマデリンに連れ去られたことを知れば、彼はどう思うだろうか。
それがひどく、レムの胸を鋭い刃の痛みを以て想像が苛むのだった。
「――。アベルさんが、本物の皇帝と知っているんですね」
その、胸の奥を切り刻む痛みを無理やり無視し、レムはベルステツに問い質す。その質問にベルステツは「ええ」と淡々と応じ、
「無論です。逃亡を許したのは失態でしたが、その後は計画通りに事を進めております。いえ、おりましたというべきでしょう。事実、グァラルの壊滅は途上で終わった」
「何故、アベルさんを? 謀反、というものを決意するのがどれほどのことか、私には想像もつきませんが……アベルさんの人柄のせいですか?」
「一国の頂、皇帝に人格など求めません。個人の感情や思い入れなど、国家の運営という視点からすれば些細なものです。求めるものがあるとすれば、それは能力と、責任を果たしていただけるという信頼と実績のみ」
ゆるゆると首を横に振り、ベルステツは感情の窺えない声と表情で答える。
揺らぎのない声色、微塵も変わらない表情。それはレムの乏しい人生経験とは別に、ベルステツの優れた交渉技能が原因で全く内心を読み取らせない。
無感情だから嘘なのか、それとも真実なのか、それすらも。
ただ、アベルの人間性が理由で起こされた謀反ではないと、そう言われたことは信じたいと思える意見だった。
城郭都市で大勢の血と、死を目の当たりにしたのだ。その切っ掛けがアベルの性格の悪さだなどと、死者はもちろん、レムだって納得できない。
故に――、
「アベルさんが皇帝失格だから、追放したというんですか?」
「追放、は本意ではありませんでしたよ。そこは結果論です」
「アベルさんの何が足りなかったんですか? 皇帝という立場の担う重責も、必要な能力も私にはわかりませんが、優秀な人……とは思います」
何故、アベルを擁護しなくてはならないのか自分で不思議だが、レムは自分の中にあるささくれを納得させるために言葉を選んだ。
実際、戦闘能力はともかく、その思考力と知識の深さでアベルは抜きん出ている。
ミゼルダやズィクル、そしてスバルまでもが彼の言い分に従おうと考えるのは、そうした意見を他者に納得させる統率力もある証拠だ。
詳しくはわからないが、上に立つものの資質なのだとレムも思う。
それは、国で一番偉い立場のものにも必要なものだろうと。
それを――、
「まだ、お名前を伺っておりませんでしたな、癒者殿」
「……レム、だそうです」
「ふむ」
ベルステツへの反感もあり、伝聞としての教え方をしてしまった。
さすがにレムも、もう自分の名前が『レム』であることは受け入れている。プリシラに強く名乗ったときから――あるいは、スバルにそう呼ぶことを許したときから。
ともあれ、そのレムの名乗りを舌に馴染ませ、ベルステツは小さく吐息すると、
「レム殿、現在、皇帝閣下にはお世継ぎが何人いらっしゃると思われますか?」
「およ、つぎ……ええと、それはお子さんのこと、ですか?」
「ええ」
ベルステツが静かに頷くと、レムはその脳裏にアベルを思い浮かべる。
記憶のないレムだが、それを喪失する前に仕入れた知識の数々が失われたわけではない。人間がどうやって繁殖するのか、それもちゃんと知識として覚えていた。
ただし、アベルがそうした人間関係を他者と真っ当に築けるのかは疑わしい。そもそもアベルと並び立つ女性というのが、レムにはイマイチ思いつかなかった。
「想像がつきません。いらっしゃらないのでは?」
「――。よくおわかりですね。その通り、いらっしゃらないのですよ」
「あ、やっぱりそうでしたか。なんて、アベルさんに失礼かも――」
しれない、と続けようとしたレムは、そこで言葉を中断した。
ベルステツに何か言われたわけでも、黙るように指示されたわけでもない。ただ、押し黙った老人の細めた目がうっすらと開き、その奥の瞳が見える表情、それを真正面にしたレムの喉が、信じ難い鬼気によって黙らされたのだ。
静かに、二人の間にあるテーブルの上に手を置いているベルステツ。その押し黙った彼の全身から溢れ出すのは、想像を絶する強烈な怒りだった。
「いらっしゃらないのですよ、お世継ぎが。――それは、問題なのです」
「――ぁ」
「帝国は精強でなくてはならない。そうでなくては、この国は」
掠れた息をこぼしたレムの前、そこでベルステツは言葉を切り、テーブルの上に置いた拳を開いて息を吐いた。
それから、再び瞼の奥へと瞳を隠し、老人はレムを見る。
「失礼しました。私奴も、謀反者になったのは初めてのことでして、どうにも浮足立っていると言わざるを得ません」
「……どうして、今の話を、私に」
「――――」
「聞かせる必要の、ない話だったはずです」
ベルステツの、感情ではなく、もっと重たく澄んだものが込められた言葉。
それを嘘とは感じなかったが、それだけにレムには疑問がある。何故、そんな話をレムに聞かせたのか。
レムは、自分がそんな重要な立場にあると思っていないし、事実そうだ。
たまたまアベルやプリシラと近しい位置に置かれることもあったが、それは成り行きがそうさせただけで、レムが特別だからではない。
「なのに、どうして」
「……貴方は癒者で、そして鬼族だ。できれば取り込んでおきたい。貴重な存在です」
「――――」
それは嘘ではないが、全部が真実ではないような答えだった。
しかし、その先の答えを求めるレムに、ベルステツはそれ以上の時間を割くことをやめたようだ。ゆっくりと、老人が腰を落ち着けた椅子から立ち上がる。
「もう少し貴方と話していたいのですが、私奴のようなものにもやるべきがある。今しばらく不自由をかけますが、屋敷のものにはできるだけ便宜を図るよう申し渡しておきますので、どうぞごゆるりと」
「……ベルステツさんは、マデリンさんのなんなんですか」
「協力者、というのが一番適当でしょう。無論、彼女からすれば、賢しい人間を使ってやっているという印象でしょうが。この屋敷も、私奴の屋敷なのですよ」
意外とたくましい肩をすくめ、ベルステツの答えにレムは部屋や庭を見る。
我が物顔でマデリンが過ごしているから、てっきり彼女の屋敷と思っていたが、それすらも誤りだったらしい。ただ、建物や内装の上品さには納得がいった。
「でも、ゆるりと過ごせるとも、過ごしたいとも思っていません」
「率直な物言い、実に小気味いい。では改めて、レム殿、ご壮健で」
小さく笑い、ベルステツは改めてその場で腰を折り、退室する。
その背を呼び止めることも考えたが、言うべき言葉も見つからず、おそらくは足を止めることも叶わないと思い、レムは何も言わなかった。
退室したベルステツと入れ替わりに、外へ出された見張りの兵も戻ってくる。
彼らの厳しい視線を向けられながら、レムは今一度、外を眺めた。
ちょうど、餌やりを終えた飛竜が、餌を与えた男をその背に乗せて、ゆっくりと羽ばたいて空へ上がるところだった。
「――――」
獰猛で恐ろしい飛竜だが、その背に乗せられて飛行するのは爽快だった。
もちろん、状況が状況だけにそれを楽しむ余裕はなかったが、グァラルから一日とかからず目的地へ運ばれ、これまでの旅路が何だったのかと思わされるばかり。
負傷したフロップの治療をしながら、マデリンに連れてこられた場所――、
「――帝都、ルプガナ」
アベルが玉座を追われ、そして奪還しなくてはならないと志す都市。
その都市の中心にある水晶宮を遠目にしながら、レムは囚われの身となっている。開かない窓に触れ、指先でガラスの感触を確かめながら、ふと思った。
「……あの人が」
レムがいなくなったと知ったら、その胸に痛みが走るだろうか。
胸の奥に刃を突き込まれたように痛むレムと同じように、その胸に痛みが。
それが、自分のどんな想いから去来する考えなのか、レムにはわからなかった。
△▼△▼△▼△
――ゆっくりとフロップが瞼を開くと、見知らぬ部屋の天井があった。
「――――」
一瞬、思考の整理に時間を使い、すぐに状況把握のために周囲を観察する。
野営が多い行商人としての癖だ。もちろん、警戒は自分よりもよっぽど感覚の鋭い妹が担当してくれているが、それは怠けっ放しの理由にはならない。
自分の反応の悪さが生死を分けることもありえるのだ。だから、寝起きをよくしておくことは生きる術として当然習得した技能だったが――、
「ここは……うぐう!」
注意深く周りを見渡そうとした瞬間、すごい痛みに胸が引きつって悲鳴を上げる。
これが夜中で外だったなら、獣に自分の居場所を教えてしまうとても愚かな行為だ。とはいえ、してしまったことは仕方がない。
挽回するべく、フロップは息を荒げながらも体を起こそうとして、
「な、なんだって……ちっとも体が動かないじゃないか……!」
腕に力が入らないのはもちろん、ふかふかのベッドは体重を吸収してしまう。全身が柔らかく沈む一方で、ベッドではなく檻のような役目を果たしていると言われても信じてしまうような有様だった。
それでも、何とか脱出しようと体をぐねぐねさせて必死にもがくのだが、
「この、この……! これはなかなか手強いな!」
「――。お前、かなりおかしな人間だな」
「な!? 誰かいたのかい!?」
ベッドと格闘する背後、高い声が聞こえてフロップは振り向こうとした。が、努力は空しく、不自由な体は振り向くこともちゃんとやってくれない。
陸に上がった魚のようにもがくフロップ、その様子に深々と嘆息が聞こえて、
「竜だ。お前の傷は治している最中だから、無意味にはしゃぐな」
言いながら、ベッドの脇に歩み寄った相手を見て、フロップは「あ」と息を漏らす。
空色の髪と金色の瞳、その頭部に二本の黒い角を生やした少女――マデリンだ。帝国一将であり、城郭都市を襲った『飛竜将』なる存在。
そして、フロップの最後の記憶では――、
「確か、君の爪に引っかかれて痛い思いをしたような……」
「合ってる。竜の爪がお前の命を抉った。……あの娘が癒したっちゃ」
「あの娘……ああ」
視線を逸らし、バツの悪い顔で呟いたマデリン。彼女の言葉から思い浮かんだ顔があって、フロップは自分の身に起こった出来事に合点がいった。
それと同時に、薄れゆく意識の中で自分が彼女に――レムに、ずいぶんとひどいことをお願いしたことも思い出されて。
「マデリン嬢、でよかったかな。聞きたいんだけど、グァラルはどうなったんだい? とても大きな爆発と、君のお友達の攻撃に晒された街だ」
「――――」
「こうして、僕がかろうじて命を拾っていることから見るに、僕と奥さんは生き延びたんだと思う。ただ、その結果は僕の中だと二番目に悪い結果なんだ。もちろん、一番悪い結果は僕も奥さんも死んでしまうことだけど」
指を立てて、フロップはまくし立てるようにマデリンに問いかける。
その指の動きを横目にしながら、マデリンのバツの悪い顔は継続中だ。それが、彼女にとって不本意な流れを辿った痕跡と思いつつ、フロップは畳みかける。
「どうだろう、マデリン嬢。君のその顔は不満げだったり、拗ねている顔に見えるんだ。僕の妹も、よくそうしてもじもじと拗ねることがあってね。体が大きい分、もじもじしていても全然控えめに見えないところが可愛いんだが、君もその類かな?」
「……だっちゃ」
「うん? なんだい?」
「街は無事だっちゃ! 壊し切れなかったっちゃ! これでいいっちゃか!?」
鋭い牙を見せて、マデリンがフロップの言葉に轟然と怒鳴り返す。猛烈な息吹を全身に浴びる錯覚を味わいながら、フロップは長く安堵の息をついた。
無事、というのはフロップの記憶の中のグァラルの状況を見るに、とても適当な答えとは言えないが、マデリンは壊し切れなかったと言った。
それならば――、
「奥さんは、僕の命をうまく使ってくれたのだね……」
朦朧とする意識と耳鳴りの中、フロップは途切れる直前の自分の所業を顧みる。
血を流し、命をも失いかけたフロップの姿を見て、マデリンが大いに動揺する姿が目の端を捉えた。彼女はフロップに何かを問い質し、それに縋っているようだった。
だから、使えると思った。フロップの命を救い、マデリンが欲しがる答えを与えると約束することで、グァラルの襲われた窮地を脱することが可能だと。
あの、平和主義なレムにそうした非情な決断ができるかわからなかったし、成功したと思われる現状でもものすごく負担をかけてしまったと思うが。
「僕の傷を治してくれた奥さんは、どこに?」
「……一緒に連れ帰ったっちゃ。それが竜の条件で、あの娘はそれを呑んだ。竜は約束を守る。竜との約束も、守ってもらうっちゃ」
「約束……」
「これっちゃ」
レムの無事を聞かされ、安堵するフロップ。そのフロップの眼前に突き出されたのは、赤く塗られた獣の牙の装飾品――否、竜の牙の装飾品だ。
普段、フロップが首から下げ、肌身離さず持ち歩いている大切な一品。
それが、ベッドにうつ伏せになっているフロップの鼻先に突き付けられる。
「ああ、拾ってくれたのかい? それは本当にありがとう。とても、とても大事なモノなんだ。なくしたら、とても平気な顔をして生きていられないぐらい。だから……」
「――カリヨン」
「――――」
手を伸ばし、フロップはその牙を取り返そうとする。が、マデリンはフロップの手をあっさりと躱すと、それを返す代わりにある名前を口にした。
その名前にフロップが息を詰め、さらにマデリンが続ける。
「これは、カリヨンの牙だっちゃ。どうして、お前が持っているっちゃ?」
カリヨンと、聞き間違いではない名前をマデリンは二度も口にした。
聞き間違えるはずがない。だって、その名前は――、
「答えるっちゃ! なんで、お前がカリヨンの牙を……」
「カリヨンが生まれたとき、僕もその場に居合わせた。あの子の名前は、僕も一緒に考えたんだよ。マイルズ兄ぃと、バルロイと一緒にね」
「――ッ」
「あの子の牙が生え変わったとき、その記念にもらったんだ。義兄弟の……家族の証だとね。だから、僕と妹はカリヨンの牙を持っているんだ」
静かに、胸の奥にある大切な宝箱を開くような気持ちで、フロップはそう答えた。
マデリンの手の中で揺れる飛竜の牙、その出所はそれが答えだ。大切な家族――恩人と義兄弟、もうすでにこの世にいない二人の形見。
その答えを聞いたマデリンが絶句し、唇をわななかせて目を見張る。
彼女の反応と、カリヨンの名を知っていたことから、フロップもいくつかの推測を立てながら、「いいかい?」と前置きして、
「君は、どこでカリヨンの名前を? 一目であの子の牙と見抜くくらいだ。浅い関係とは思えない。それに君は……」
「――ぁ」
「君は、バルロイの後釜として『玖』になった子だ。もしかして、君はバルロイやカリヨンを以前から知っていたんじゃないかい?」
マデリンの反応は痛々しく、幼く見える彼女を追い込むようで胸が痛んだ。
しかし、フロップの胸はかつて同じ話題が理由で、傷付くマデリンを見る以上の激痛に苛まれたのだ。泣きじゃくる妹の顔より劇薬になるものはこの世にない。
だから、マデリンを追い詰め、彼女の胸中に抱える思いを聞き出すのに躊躇いはなかった。
――バルロイ・テメグリフ。
ヴォラキア帝国の『九神将』の一人であり、フロップやミディアムの義兄弟であり、皇帝に反旗を翻して命を落とした謀反者であり、愛竜であるカリヨンと自分の恩人でもあるマイルズを心から愛した、あの優しくて愛おしい男。
彼と、マデリンの間にどんな関係があったのか。
そして――、
「君はどうして、『九神将』になったんだい?」
「――復讐、だっちゃ」
一拍、答えを返すまでの逡巡があり、しかし、吐き出された言葉は明瞭だった。
唇を震わせ、目を見開いていたマデリン、その表情がゆっくりと変化し、金色の瞳にもその表情の変化と同じ激情が――赫怒が宿る。
竜を従える少女の激しい怒りが、寝台に横たわるフロップの全身を焼いた。
そう錯覚させるほどに、マデリンの怒りは激しいものだった。
復讐のために、『九神将』の座に就いたと明かしたマデリン。
復讐という単語には、フロップも思うところがある。――それは、フロップにとって人生の目標であるからだ。ただし、フロップの復讐対象は個人ではなく、世界。
誰かが膝を屈することを余儀なくされる世界、そのものへの復讐だ。
しかし、マデリンの瞳に宿った怒りは、それとは全く違う。
彼女の金色の瞳を燃やしている激情は、その矛先を向けるべき相手を知っている。
「誰の、復讐を望むんだい?」
「……バルロイの、竜の伴侶になるはずだった男の、復讐っちゃ」
「――――」
「竜の良人を殺したモノを、竜は絶対に許さんっちゃ。そのために――」
死したバルロイの復讐を果たすと、マデリンがその矮躯に怒りをみなぎらせて答える。
バルロイとマデリン、二人がどうやって出会い、どんな経験を経て、どうした形の絆が結ばれていたのか、フロップにはわからない。
ただ、マデリンが心から彼の死を悔やみ、嘆いていることはわかった。
だから、だから、だから――、
「――誰が、バルロイの仇だと? どうすれば、復讐は果たされるんだい?」
この場にいたのがミディアムだったら、きっとマデリンを正面から抱きしめた。
バルロイとマイルズ、二人の死に滝のような涙を流して、大きな声でわんわんと泣き喚いたミディアムなら、きっとマデリンに泣き方を教えられた。
大切な人を殺されて、その事実にマデリンは怒り狂っている。
悲しみ方がわからないのだ。飛竜を従え、黒い角を生やした途方もない力を秘めている存在、彼女には悲しみ方が、怒ることしか思いつかない。
そしてそれは、泣き方を忘れてしまったフロップと同じだった。
だから――、
「バルロイを、死なせたのは――」
フロップの問いかけに、小さな手を握りしめたマデリンが応える。
良人を奪われ、置き所を失った愛をその小さな体に詰め込んだマデリンは、涙を流す代わりに怒りの炎として燃やし、復讐を果たすと決めたのだ。
「――――」
そして、マデリンの口から名前を聞いたフロップは、目をつむった。
目をつむり、じっと押し黙る。このときばかりは、マデリンの胸に抉られ、治療の途中である傷の痛みも忘れ、ぎゅっと瞼の裏の闇に身を委ねた。
目をつむれば、今でも大切な人たちの顔が思い出せる。
『お前もミディアムも考えが足りねえ。伯のところにいりゃいいものを、面倒見切れねえぜ、まったくよ』
『これは、マイルズ兄ぃなりに心配してんですぜ。ここに残ってりゃ、いつまででも面倒見てやれんのにって。素直じゃねえでやしょ?』
『うるせえぞ、バル坊! 出世した奴がしょっちゅう戻ってくんな!!』
『いやぁ、あっしにゃ向いてやせんって。ここでマイルズ兄ぃとフロップと、ミディたちと一緒に過ごしてんのがよっぽど、あっし向きですって。ねえ?』
旅立ちの日、わざわざ遠方から立ち寄ってくれたバルロイと、夜の遅かったはずのマイルズとのやり取り、そんな懐かしい思い出が蘇る。
大きく手を振り、ミディアムと二人で、長く世話になった地を離れ、そして――。
そして、フロップ・オコーネルは帝都へ辿り着き、青い瞳に光を灯した。
その灯した瞳のままに、唇が言葉を紡ぐ。
それは――、
「――君が、バルロイの仇なんだね。村長くん……いや、皇帝ヴィンセント・ヴォラキア」