アウシュヴィッツ開放70周年を記念し、製作された映画『サウルの息子』が1月23日から日本でも公開される。
主人公はアウシュヴィッツ強制収容所に送り込まれたユダヤ人・サウル。彼はハンガリー系ユダヤ人で、同朋であるユダヤ人をガス室に送り込み、死体を処理する“ゾンダーコマンド”という特殊部隊として働いている。
感情を押し殺して生き延びるサウルはある日、ガス室で息子とおぼしき少年を発見したが、彼の目の前で殺されてしまう。サウルは火葬が禁じられているユダヤ教の教義にのっとって手厚く埋葬してやろうと収容所を奔走する。そんななか、ゾンダーコマンドたちの間では収容所脱走計画が秘密裏に進んでいた――。
監督は38歳、ハンガリー出身の若き新鋭、ネメシュ・ラースロー監督。長編デビュー作にして、「第68回カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞」、「第73回ゴールデン・グローブ賞 外国語映画賞受賞」、さらに「第88回アカデミー賞 外国語映画賞ノミネート」という快挙を成し遂げ、世界中で絶賛の嵐が巻き起こっている。
そんな話題作の日本公開を記念して1月13日、代官山 蔦谷書店にてトークイベントが開催された。ゲストは、ネメシュ監督が作品を作る上でイメージの源になったと語る、アウシュヴィッツで撮影された4枚の写真を解説した解説本『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』(平凡社刊)の翻訳者である橋本一怪さん。そして、大学時代にはドイツ語学科ナチスドイツのプロパガンダ(宣伝)を専門としていたジャーナリスト・キャスターの堀潤さんだ。
アウシュヴィッツの過酷な状況下において、撮影は不可能と言ってもいい。この4枚の写真は、なぜ存在しているのか。どういう目的で撮影されたのか、また映画で戦争を描き伝えることへの議論について語り合った模様をレポートする。
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写真フィルムを歯磨き粉のチューブに隠して外に出した
堀潤さん(以下堀):『サウルの息子』を事前に拝見し、監督にもインタビューをさせていただきました。監督はとにかく淡々と事実を描き切る、戦争を題材した映画にはいわゆるヒロイズムは必要ないと語っていらっしゃいました。
戦後70年、71年目を迎えます。当時の記憶が風化していくなか、まだ明らかになっていない、歴史の扉の奥底にしまわれてしまう事実もあるわけです。僕は、去年、一昨年と戦争証言を聞き、アーカイブを続けていまして、話し手である当事者は、70歳、80歳、90歳になったからようやく語れる、という話もありました。
今回の映画のモチーフには、写真が大きな意味を持っています。アウシュヴィッツの過酷な状況を記録した4枚の貴重な写真を元に物語を展開していきます。橋本さんは、まさにその写真を解説した本『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』を訳し、研究をされています。この4枚のお写真は、どういう写真なのでしょうか?
橋本一怪さん(以下橋本):1944年の8月にアウシュヴィッツで撮影された写真です。アウシュヴィッツで写真を撮るなんて、ほとんど不可能に近いことでした。この写真は、わずかながらの協力者に頼んで、フィルムを歯磨き粉のチューブに隠すなどして、切れ端だけを外に出すことができたというものなんです。
1枚目の写真(A)は、おそらくガス室の扉の陰に隠れて撮っているもので、先には死体らしきものが転がっていて、燃やされているように見えます。
堀:よく撮影しましたよね。強制収容所にいて、最終的にはガス室で殺される。そのなかでどうやってカメラを持ち込めたのか。そして、どうやって撮影ができたのか。
橋本:撮っている人物は、通称 “アレックス”。最近まで誰が撮ったのかすらわかっていませんでしたが、ここ4、5 年ぐらいの研究で、この人じゃないかという特定がなされた。ギリシャ人の誰々だと、ようやく名前までわかったんです。4枚の写真については、歴史の研究が未だに続いている、ということを主張しておきたいです。
これは何を撮ったのかわからないような写真ですね。ファインダーを覗いて撮るわけにはいかず、何が撮れるかわからない状態でシャッターを押しているから、このような写真になったのだと思います。
「写真があれば世界へ事実が広まるはず」
堀:これらの写真はどういう目的で撮られたのでしょうか?
橋本:当時、強制収容所の存在そのものが知られていなかったので、これほど恐ろしいことが繰り広げられているのだと周知したい、そういう目的だったと思います。
これらの写真は、一緒に手紙が添えられていたんです。詳しい内容は本に載っていますが、「これを広めてくれ」ということが強調されていた。写真さえあれば信じてくれるはずだ、写真があれば世界へ広まるはずだから、と。それから、もっとフィルムを送ってくれ、というメッセージが伝えられていました。
堀:大学生の頃、僕はナチスドイツのプロガパンダを専門に勉強しており、アウシュヴィッツへも行きました。現地で資料を読んだり、聞き取りをすると、当時のドイツ国民の皆さんも、貨物列車を運転したり、郵便局員として情報を集めたり、ユダヤ人虐殺に何かしらに関わっている。けれども、自分が行なっている行動の延長戦上に強制収容所でのガス室の存在があるということは、よく知らされていなかった。自分がその過程に加わることで、殺人、ジェノサイド(ある人種を計画的に絶滅させようとすること)に加わっているという意識があまりなかった。ドイツ全土で、大規模に行なわれている虐殺であり、ユダヤ人がこういう状況に陥っているということを知らせたいという思いは、当事者の間では相当高かったようですね。
橋本:世界が知ってくれさえすれば状況は変わるはずだ……という期待が込められているんですが、思うようにはいかなかった。この写真も外には伝わったんですけれども、アウシュヴィッツの存在をなくすことはできなかったですし、期待する効果は得られなかった。その背景には、知らないという事実だけではなく、知ろうとしなかったこともあるんじゃないかと思います。
堀:写真の検証って難しいですよね。4枚の写真を研究していく中で、どういう事実が読み取れましたか?
橋本:例えば4枚の写真のうち、1枚(B)は何も映っていない。こういう写真があるからこそ、撮影が難しいことがわかる。はっきりとした写真が撮れなかったんです。(A、Cの)黒い枠のようなものが何なのか。これだけではガス室とはわからない。風向きがこうだからこうで……と検討しながら資料を読み解くことで改めて事実も浮かびあがってくる。
「裸の女性の人々」という写真(D)は、戦後、アウシュヴィッツの記録として使われることになりました。その使われ方としてはどうだったかというと、見所というと語弊がありますけれども、女性の裸だけを切り取って、拡大して、ひどい場合には、女性の顔の輪郭をはっきりさせて、胸を大きくして女性であるということを強調したりする。それは悪気があるわけではなくて、女性がこんな目に合っているんだということを強調しようとしたんです。
堀:検証された内容や、写真の存在そのものも含め、ヨーロッパではどういった受け止められ方をしているのでしょうか? 監督が今回、作品を製作するモチベーションになったのが、ドラマとしてのアウシュヴィッツが非常に激情的に描かれている映画はあっても、事実をあぶり出す、抑制的な作品がない、とおっしゃっていたんですね。自分はそういうものを作りたいんだと。なぜなら、本当のアウシュヴィッツの悲劇をきちんと知っている人が意識の中に少なくなってきているんじゃないか。数も少なくなってきている。だから、警鐘を鳴らしたい。そういう思いが込められていると思います。
橋本:この写真自体は、有名といえば有名です。アウシュヴィッツに行くと飾ってありますから、見たことがある人は多いと思うんですが、細かい状況まで知っている人は少ない。『イメージ、それでもなお』が詳しいことを人々に知らせる、きっかけになったんじゃないかと思います。
「イメージ」と「証言」はどちらが伝わるか?
本の前提として、知っておかなければいけないのは、論争の書であるということ。前半では4枚の写真を検証しています。その検証に対して、激しい反論が寄せられるんです。反論した人物は、フランスの映画監督、クロード・ランズマン。ホロコーストに関わった人たちのインタビューを記録した『SHOAH』という9時間半にも及ぶドキュメンタリー作品を手がけた監督です。撮影は、証言とるだけで撮影はしないから、なんて嘘をついて行われたようです。
堀:日常生活にすっかり戻って、商店主かなんかをやっているような元ナチス側の人物にも話を聞いて、過去をほじくり返したりするんですよね。その大胆さもおもしろく、見所の多い作品でした。証言や人の言葉だけを使ってアウシュヴィッツを再構築するというやり方で「記録」している。アウシュヴィッツをはじめとする、あの恐ろしい現実は「イメージ」だけでは描ききれない。だから、ただただ証言だけを使うというやり方で作品にした。
そんなランズマンが、『イメージ、それでもなお』を執筆したディディ・ユベルマンに対して、激しく反論するわけです。イメージをいくら掘り返してみたところで、真実には達し得ない。そんなのは、スティーヴン・スティルバーグ監督の作品『シンドラーのリスト』のようなハリウッド映画を観て、一時期だけシンドラーの気持ちになって、自己満足する観客と変わらないじゃないか、と。「想像してみる」なんておこがましいと反論を突きつける。
堀:強烈な歴史の悲劇を伝えるときのジレンマはありますよね。深刻な状況を見せつける映像ではなく、淡々と「事実」を知っておいてもらいたいと思っても、そのテーマについて知ろうとするモチベーションがある人以外には届かない。
橋本さんは、『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』を翻訳されていたとき、まさにこの論争の真っ只中にいた。どういうスタンスで翻訳されていたんですか?
橋本:10年前に訳させていただいたんですけれども、ディディ・ユベルマン派、クロード・ランズマン派、どっちにもつかずにできれば議論全体を紹介したいと思っていました。ランズマン側の弟子のマジマンという人がいまして、彼の理論も読めるようにしておくべきだと、翻訳して平凡社から小冊子にして出しました。ランズマンやマジマンは口が悪いんですよ。誹謗、中傷に近いような形でユベルマンを攻撃してくるんですけれども、よくよく読むと、彼らの言い分にも、真実をつくときもある。
結局、温かい部屋で4枚の写真を見て、アレックスは大変だったのね、なんて言うだけでは、真実を知ったことにはならない。想像というものにも限界がある。アレックスになって想像してみなさい、というディディ・ユベルマンの主張が、ある種のナイーブさを持っているということは確かで、そういう批判も頭ごなしに否定してしまうのではなくて、そちら側の意見も理解しつつ訳そうと思いました。
この映画を観て、実はディディ・ユベルマンが、『サウルの息子』の監督にあて、作品の素晴らしさを称える手紙の形で小さな本を出しているんですね。ディディ・ユベルマンはこの映画を非常に評価している。それは当然のことで、ディディ・ユベルマンとランズマンの論争に対する、ある種の応答がこの作品だと思うんですね。自己満足なんかではなくある種の真実に達するんだ、ということを映像を通して示してくれている。
自分だったらどうするか考えさせられる
橋本:この映画は4枚の写真を出発点としてストーリが展開されます。アレックスがいかに困難な状況で写真を撮ることができたのかを描く選択肢もあったのに、そうしなかった。それはなぜか。
サウルは、そういったヒーローとは全然違う人物なんですね。サウルの行為は、わたしたちが仮にアウシュヴィッツという場所で働かされていたらサウルのようになってしまったかもしれない、ということを痛感させられる。サウルは自分自身だと思えてくる。その感覚は、自己満足とは全く異なるものです。自分がそこにいたら、どうするのか―—実際に経験していない世代、38歳の若い監督が、想像力を超えて向き合ってみたということだと思うんです。
堀:すごく意欲的な作品で、現場はほとんどが収容所の中です。しかも、その多くが主人公を含む回りの人間たちの表情をとらえているので、アップが多い。その分、迫ってくるものがあります。こういう作品でカンヌをとり、欧米の映画界で認められるのは、非常に嬉しいことだなと思います。
この作品から学ぶことは、アウシュビッツは必ずしも歴史の特異な悲劇ではないんだ、ということだと思います。ユダヤ人虐殺ほどの悲劇はなくとも、人々が自分の日常の生活を維持するのが精一杯となり、あらゆる社会問題に対して、当事者意識がなく、無関心であることは、いまも共通したテーマです。
当時、ナチに賛同していたのは農民のみなさんでした。賛同する姿勢を示すことで職が得られ、社会福祉上の補助も受けられる。具体的な日常を支えるためのオプションが用意されていた。自分たちの半径数メートル以内の生活を維持するために、人々は理性を失っていく。無関心を装うことで感情をなくし、こういった虐殺をある種、見殺しにするようなことに加担していく。そういう大衆心理は非常に怖いですよね。「あの家族はおかしい」と密告する例もあったようです。
プロパガンダ、映像、文章、ポスターなどは、われわれが気付かないうちに目に入ってきます。インターネットも発達した現代は、余計に入り込みやすい。警戒心を持ったほうがいいと思います。
橋本:本当に遠いところの話ではないですね。現代の日本の社会のことも考えながら観ていただければと思います。