これまでの3度の探索の成果をまとめると、この本尊岩隧道東口で計画されていた拡幅計画は、右図に示したようなものであったと推測が出来る。
特に今回の新たな成果としては、従来は側設導坑へアクセスするための工事用道路橋と考えられていた橋が、将来的に現道側へ幅員を継ぎ足されて新道用の橋の一部となることが出来るような準備構造(継ぎ手)の存在が発見されたことだ。
当初は工事用道路として利用した橋が、あらかじめ拡幅によって完成道路の一部となるように準備されていたというケースは、これまで各地の道路改良を見てきた私も聞いたことがなく、大変興味深い。
そもそも、こういうふうに工事が途中で中断されたまま終わらなければ、気付かず終わった話だったかも知れないのだ。
左図は、本尊岩隧道の西口の状況だ。
これは西口じゃなくて洞内じゃないかと思われるかも知れないが、実は奥の赤色に着色した部分(全長40.0m)だけが本尊岩隧道(昭和39年開通)で、その手前は全て後補の大型ロックシェッドだ。本尊岩からの落石に備えるべく、廃止時点ではこのように大掛りな構造物になっていた。
これは以前の探索でも紹介済みの内容だが、後補のロックシェッド部分と元来の本尊岩隧道の断面サイズが大きく違うために、これを摺り合わせるべく、蛇腹のような複雑な形状の側壁があった。
本来は、このロックシェッドと同じ断面まで本尊岩隧道を拡幅する計画があったのだろう。
以上のように現地での成果をまとめたうえで、この机上調査編では次の二つの謎について、調べたことを解説したい。
- なぜ本尊岩隧道の拡幅は中止されたのか? (国道49号揚川改良事業の経過)
- なぜ旧道となった区間の国道指定が未だに継続しているのか?
この二つはあまり関わりのなさそうな内容だが、共に現地で私が感じた謎なので、それぞれについて調べてみた。
調査1: なぜ本尊岩隧道の拡幅は中止されたのか? (国道49号揚川改良事業の経過)
『揚川改良だより 創刊号(平成22年4月)』より |
上の2枚の図は、国土交通省北陸地方整備局新潟国道事務所が発行していた、『揚川改良だより』という機関誌からの引用だ。
同誌は事業名「一般国道49号揚川改良事業」の進捗状況を広報する目的で、平成22(2010)年4月の創刊号から開通翌月の平成25(2013)年4月の最終号まで、合計11号が発行された。
このうち事業概要をまとめた左の図によって、揚川改良は昭和53(1978)年度に事業化されていたものの、事業中は「揚川道路」と仮称された全長7.5kmの新道(=現国道)の工事着手は平成12(2000)年度であり、事業開始からそこまで22年の長い年月を経ていたことが分かった。
どうやら、この22年の間に秘密がありそうだ。
揚川改良事業の原点を探るべく、昭和63(1988)年に国交省北陸地方整備局の前身である建設省北陸地方建設局が発行した、『北陸地方建設局三十年史』を紐解いた。
『北陸地方建設局三十年史』より
右図が同書掲載の事業名「一般国道49号揚川局改」の概要図だ。
局改とは局部改良の略で、比較的に小規模の改良事業を指し、道路構造令へ完全準拠した抜本的な改良ではないものを含む。
どうやら昭和53年に事業着手された当初は、揚川改良ではなく揚川局改という事業名だったようである。
その対象の区間も、右図の通り、最終的なものとは大きく異なっていた。
なんと、平成25年の新道開通で旧道となった区間内に、全ての事業区間が含まれていた。全長は6900mで、そこには封鎖された本尊岩隧道も含まれていた。
……やはりそうだったか。 そうだと思ったよ。
当初から対岸に新道を整備するつもりはなかったからこそ、本尊岩隧道の拡幅というプランが、途中まで実行されたのに違いないのだ。
なお同書は、事業の概要を次のように解説していた。
現国道は、東北電力(株)揚川ダム建設に伴う付替道路として整備されたものである。その後、昭和45年頃より、川側擁壁に沿って舗装面の沈下が現われてきたが、昭和52年7月に栃森橋取付部川側の倒壊事故が発生し、数日間にわたって通行不能になった、これを契機に昭和53年度から局部改良が事業化となり、川側の補強のほか、山側に対しても落石、雪崩等への対策を施している。
地形的には揚川ダム調整池とJR磐越西線に挟まれて、施工上制約の多い区間であり(中略)昭和62年度末現在までには、小花地区と谷花地区を合わせて、延長870mが完成している。
このように、当初は(現在の)旧道を対象とした、川側と山側の補強・防災対策がメインの局部改良事業だったことが分かる。
本尊岩の大規模な崩壊の危険性はまだ予見されていなかったようで、川側の補強が警戒の中心があったようだ。貯水池の湖畔は地盤が不安定になりやすく、その対策が急務だったのだろう。
当時既に川の対岸に長大トンネルを想定した磐越自動車道(東北横断自動車道)の計画があり、抜本的改良は高速道路の整備に委ねていたとも考えられそうだ。
こうして、“空白の22年間”と、本尊岩隧道の拡幅計画が結びつく環境は整った。
あとは、その資料的裏付けを見つけたいが……、
平成3(1991)年7月に北陸地方建設局がまとめた技術研究会論文集に、「一般国道49号「本尊岩地区」のフラットスラブの設計と施工について」という論文が掲載されているのを見つけた。
揚川局改区間は(中略)昭和53年度から防災対策のための事業化に着手し拡幅及び線形の改良を行っているものである。
なかでも、平成元年度より工事に着手した「本尊岩地区」は特に地形条件、現場条件が厳しい地区である。
本報告ではこの地区のうち、「フラットスラブ部」の設計・施工方法について報告するものである。
このような書き出しがあり、(現在の)旧道を対象とした局改事業が、平成元年から、いよいよ本尊岩地区で着工したことが分かる。
本論文の主題はフラットスラブというもので、あまり聞き馴染みがないかと思うが、路上においては右写真のように見える構造物の一部だ。
この写真、本尊岩隧道のすぐ西側の旧道路上(封鎖区間内)であるが、川側に橋の高欄が取り付けられている。ずっと先までそうなっているが、これらは桟橋で、最大で道幅の半分程度が、揚川ダム湖上に迫り出す構造になっている。
こうすることでダム湖と鉄道に挟まれて拡幅余地のなかった国道を無理矢理拡幅していたのである。
この連続桟橋を建造する際に一部で用いられた工法が、フラットスラブだった。
路上からは区別が難しい、まさに縁の下の力持ちであった。
「本尊岩地区」は「阿賀野川県立自然公園」のなかで特に景勝地と言われているが、阿賀野川も最狭窄部であり、国道49号のなかでも線形条件が悪い箇所である。
当該区間は昭和59年度より地質調査を行い、その後落石調査等の結果に基づき実施設計を行った。
このようにも書かれていて、本尊岩に対しても地質調査を行ったうえで、旧道を大々的に拡幅・線形の改良を行うことが決定されていた。
まだ、本尊岩の崩壊の危険性が露見していなかったか、見逃されていたか、単純にこの後で不安定となったのか。
本論文自体はフラットトラスに関することが記述の大半を占めているが、「おわりに」として、次のように、将来のトンネルや橋梁の拡幅に言及している部分があった。
『北陸地方建設局管内技術研究会論文集. H3』より
「本尊岩地区」の「フラットスラブ部」の施工は、平成3年3月に完成した。引続き、「ロックシェード」、「トンネル」、「橋梁」の施工を平成3年度以降に計画し、「本尊岩地区」の幅員狭小区間の解消、線形改良を図るものである。
残念ながら、「トンネル」や「橋梁」の拡幅がどのような工法によって計画されていたかに言及した文献は未発見だが、間違いなく、当時の揚川局改の事業には、本尊岩隧道と芦田橋の拡幅が含まれていたことが分かる。
右図も同論文からの引用で、図中の「トンネル」とあるのが本尊岩隧道で、その右側の「橋梁」というのが芦田橋だ。
下に小さく施工年度が書かれていて、「ロックシェッド」と「トンネル」は平成3~5年度に工事を行い、「橋梁」は平成元~2年度に第1期工事を実施済で(これが“謎の橋”の建設か?)、さらに平成5年度に第2期工事を行う計画だったことが分かる。
これはかなり重大な情報である。
←これも今回の探索のなかで撮影した画像で、本尊岩隧道の西口前だ。
ちょうど「フラットスラブ」が施工された辺りであるが、山側の擁壁に、かつて道路利用者へ向けて飾られていた1枚の大きな写真パネルがそのまま残されていた。
この色褪せたパノラマ写真の主眼は、道路上の崖地を対象に廃止直前まで長らく行われていた防災工事だろう。一度目の探索当時も盛んにやっていた覚えがある。
「良き道たどれば良き郷あり」
――まさに至言といった感じがあるが、いったい誰の言葉だろう。検索しても分からなかった。ご存知の方は教えて欲しい。
ただ、ここには少しだけ、闇が垣間見える。
だって、この“良き道”というのは、現実にはここが(地元警察官さえ誹るほどの)“悪き道”だったことがバレてしまった結果、このような写真パネルを設置して利用者に知らしめるべき大規模の防災工事が生じたわけで、しかも最後には新道の開通と引き換えに一欠片の憐憫もなく封鎖されて放置されたのである。それって“良き道”か……?
そんなチャチャはさておき、この写真パネル(廃止される数年前の撮影だろう)に写っている道路構造物と、先ほど見ていただいた平成3年度撮影の施工年度予定の画像を照らし合わせると、どこまで実際の工事が進められ、どこで中止されたかが、だいぶ絞り込める。
例えば、「施工予定」の写真では、「ロックシェッド」の部分はまだ完成していなかった。だが、写真パネルには、これが完成して存在する。
つまり、この部分の工事は予定通り進められた。
「トンネル」と「橋梁」についても、本来は平成5年度までに拡幅を終える計画だったようだが、実際に拡幅は行われず、現地で見た“謎の橋”と“謎の穴”という、拡幅工事の準備工事の跡だけが残されている。
この事実と符合するのが、前回のレポートでも記した、アンパンマン氏の独自調査による以下の提供情報だ。
(芦田橋の隣に)もう1本橋がかかっており気にかけておりました。本日、関係事務所にお尋ねしたところ、「R49の拡幅のために架橋したところ平成2年頃、落石事故があり危険と判断された為、その後の工事が中断されたままになっている」と調査していただき、2時間後程でご丁寧な電話返答いただきました。
『土木学会論文集No.722/III-61,315-330,2002.12
一般国道49号本尊岩地区岩盤斜面の安全性評価と防災対策』より
まず問題となるのが、「平成2(1990)年頃に工事が中止された」という部分の正確性だ。
もしこれが平成2年度であるなら、論文が掲載された時点で、既に工事の中止が検討されていた可能性があり、少々不自然だ。
しかし、あくまでも「平成2年頃」であるから、実は3年か4年だったかもしれない。
だとすると、落石事故が原因で、本来は平成5年度に完成予定だったトンネルと橋梁の拡幅が中止されたというのは矛盾がない。
具体的に、当地の既往災害歴を、平成14(2002)年の土木学会論文『一般国道49号本尊岩地区岩盤斜面の安全性評価と防災対策』から見てみると、平成4年3月と翌5年4月に、本尊岩の西側に連なる花谷岩体で、それぞれ約200㎥と約800㎥の岩石崩落が発生していた。いずれもJR線路の擁壁で大半を阻止できたが、一部がその下の国道路面に飛散した被害があったそうだ。(右図の赤枠部分)
このときは甚大な被害はなかったが、国道の遙か上方にある巨大な岩崖が相次いで崩壊し、落石が国道のすぐ上にあるJR線の擁壁まで届いたことで、この位置の国道を将来も使い続けることへの疑念が関係者に生まれ、善後策を広く検討すべく、ひとまずこの段階では未成だった本尊岩隧道と芦田橋の拡幅を中断したのであろうか。
これは可能性の高い説だと思う。
そして、本尊岩隧道と芦田橋の拡幅を残した従来の揚川局改事業が事実上中止となり、完全な別線による新道整備を骨子とした揚川改良事業へと変化する直接のきっかけは、右図の青枠で囲った平成7年4月に起こった災害だった。
このことは複数の資料によって裏付けが取れている(後述)。
約5000㎥の岩石崩壊により、斜面上のJR防護施設が全壊した。径3mの岩塊がJR脇の擁壁を大破して停止。最大径7.5m×4.0m×3.0mの岩塊がJR防止柵手前で停止、国道へは小岩片が飛散した。
平成4年と5年に続いて7年にも同じ季節に同じ谷花岩体が崩壊し、しかも今回の崩壊量は遙かに多かった。
JR線路の防護施設を破壊し、国道そのものへの被害は今回も軽微だったものの、安全確認が出来るまで通行止になった。
仏の顔も~の諺ではないが、この出来事によって、昭和53年度から多くの費用をかけて整備してきた従来の国道は敢えなくレッドカードを切られることになった。
この大きな計画変更の意思決定については、新潟国道事務所の関係者らがまとめた『揚川改良の整備効果について』という文章に次のように明言されている。
昭和53(1978)年度に揚川改良として事業化し、落石防止のための法面対策や、狭隘な幅員への対応として阿賀野川へせり出す道路拡幅工事などを進めてきた経緯がある。
しかしながら、本尊岩・谷花地区において発生した平成4(1992)年および平成7(1995)年の新潟県北部地震の余震による大規模な岩石崩落や、平成8(1996)年2月に北海道で発生した国道229号の豊浜トンネル岩盤崩落事故を契機として、「国道49号本尊岩地区防災対策検討委員会」を設置し同地区の防災対策工の検討や、日常の点検、監視体制などの検討を行った。
委員会での検討の結果、「本尊岩・谷花地区は岩盤斜面やその亀裂状況、岩盤の劣化等を考慮すると抜本的対策は困難であり、現道の危険性を考慮すると恒久対策としては別線ルートで回避する以外にない」との結論に達したことから、落石監視システムによる24時間体制の監視を行いながら平成12(2000)年度より(中略)別線ルートの整備に着手し……
ここでも“豊浜”の事故が出てくるのだな。
もう山行が最多回数登場の隧道名かもしれないなあそこは。(その場所のレポートは書いていないが…)
もちろんそれだけでなく、平成4年と7年の岩石崩落も重大な要因だったことが述べられている。
そして、よくよく調査した結果、もうだめぽとなって、一から新道を整備することになった。
これが本当に一からなのが凄いところ。従来の事業区間の全てを捨てての再出発だからね…。
以上まとめたような経緯によって、本尊岩隧道と芦田橋は拡幅工事を打ち切られたまま、なおも10年以上、24時間の厳重な落石監視体制のなか、私の2度の訪問を含む多数の人々を行き交わさせたのだった。
なんでもあの旧道は、49号という路線名と災害への脆弱さをかけて、地元住民によって「始終苦労(しじゅうくろう)」なんて呼ばれていたそうじゃないか…。
でも、もう改良の未来はないと死刑宣告を受けたような状況で、最後まで従順に働き続けた国道に、まずは最敬礼である。
同時に、最後まで大きな事故を起こさなかった道路管理者の勤勉と、それを許した本尊岩に宿る天の神の慈愛に、感謝したい。