第3話 毒虫

 へばりついた雨粒が風を浴びて、窓の向こうでぶるぶると踊っていた。

 バスそのものが振動するとそれらは大きく跳ねて外へ振り落とされ、けれど次から次へと雨滴は車窓にくっついてくる。

 女にフラれてもずっとその尻を追いかける男のように未練がましく。


 西三丁目。そんなアナウンスがして、澪桜は停車ボタンを押した。月喰姫の手と触れ合うが、彼女の肌に触れるのは初めてではない。

 性交渉すらまだだが、しかし彼女は愛というものに餓えている澪桜を抱き寄せたり、撫でたりしてくれる。「これがお前の空腹を満たす、一番の食事なのだろう?」と、そう言って。


 こんなに優しい女性が、人を食べる。それこそ一歩間違えれば、澪桜が食われる側だったろう。

「美味しいんだ。食べてみるといい」いつか彼女に言われ、火を通した人肉を差し出された。

 あとからプリオンという危険な病について知ったが、月喰姫と同じになれるのなら本望だった。

 初めて食べた人肉は、ただ鉄の味がしただけだった。


 バスから降りて、澪桜は記憶していたルートを辿っていた。月喰姫は彼の保護者のように付き添う。

 傍目には少女のような外見の未成年と、その姉にしては似ていなさすぎる女性という二人組。

 しかし、男らしさを感じない顔立ちの澪桜のおかげで、悪女が少年をたぶらかしているようには見えないのが救いだ。


「誰にする?」

「女か子供。肉が柔らかい方がいい。シメに、引き締まった男かな」

「選り好みは良くないんじゃない?」

「できる時にしておかないと。食事に困ったときには選べないんだからね。澪桜が選んでくれ。誰がいいかな」


 そう言われても。生で人間を食べられるほど、まだあの味には慣れていない。独特な、生臭さと鉄の味が奇妙に混じり、しょっぱい塩味のする、歯触りで言えば部位にもよるが、筋繊維の部分のササミ肉のような感触。

 澪桜は適当に見かけた、携帯に視線を落として周囲を見ていない女性の会社員を指差した。


「あいつでいいんじゃないかな? 狙いやすい」

「いい目をしてる。弱い獲物から仕留める、狩りの基本だ」


 澪桜はしれっとした顔で路地の近くまで歩いて、周囲を確認。人通りがはけていることを指の動きで知らせる。

 素早く動いた月喰姫が女の喉に腕をかけて一瞬でへし折り、ビクッ、ビクンッ、と飛び跳ねる肉体を抱きかかえて路地へ入る。

 最後に目撃者がいないことを確認し、澪桜も奥へ続いた。


「あはぁ、久々の若い肉……邪魔な皮を剥いで、っと」


 右手を刃状にし、月喰姫は女性のスーツを引き裂いた。それから下着を取っ払うと、手を合わせて「いただきます」と言ってから、ガバッと口を開き、

 はたと何かに気づいたようにして、異様な形に歪んでいる目を前方に向ける。


「誰だ、神聖な食事を邪魔する無粋な奴は」


 底まで落ちたトーンの声。月喰姫は食事を邪魔されるのが大嫌いだ。

 ギチ、と牙を軋ませる、異形の月喰姫。澪桜にしてみたら美しさすら感じる、悪神の本性。

 そんな彼女が睨むのは一人の男だった。

 ラフなジャケットとスキニージーンズ、目はサングラスに覆われている。髪の毛は黒く、口元には煙草を咥えて煙をくゆらせていた。


「俺の狩場だ、ここは」

「失礼。でも、わかっているんだろう? 私たちの世界は奪うことでしか生を獲得できないって」

「古い考えだな……いつの生まれだ? 年増には興味ない」


 バキンッ、と音を立てて男の右前腕から骨が突き出した。ヤマアラシのように、無数の骨が腕から飛び出している。


「俺は近頃の生まれでな。がしゃどくろってやつだ。教えてくれよオバハン。古き良き妖の伝統ってのを」


 それだけ言って、男は地面を踏み込んだ。腕部は既にそれ自体が幾重にも刃を持つ槍であり、月喰姫はその槍腕に対して触手のようにした左腕を絡める。

 力任せ——月喰姫はコンパクトないつもの擬態姿を取りつつ、腕部を武器にしてがしゃどくろを振り回し、ビルの壁に叩きつけた。放射線状にヒビが走り、澪桜は思わず小さく悲鳴をあげた。


「うわっ」

「この……っ喚くなクソガキが! ——あぁムカつく、このクソババアが! 場違いなクソ人間まで連れ込みやがって!」

「——っ、澪桜ッ!」


 がしゃどくろが腕を軽く振って、骨の破片を飛ばした。それは銃弾のような速度で飛翔して、澪桜の右脇腹——腎臓を貫いた。


「あ……が……っ」

「この——若造がァ!」


 月喰姫の右腕が巨大化。さらに、歪だが骨と思しき突起が生えた。ハンマーのようなパンチがビルの壁に吸い込まれ、激震。ズズン、と派手に、人がいない雑居ビルを震わす。

 ばっくりと開いた穴の向こうに男が転がり込んで、死にかけた虫のような呼吸を漏らしているが……今はどうでもいい。澪桜だ。

 出血が酷い。助かるわけがない。衣類にじんわりと広がる、可愛い、大切な命の結晶。


「っ、ごめんね、ごめん……。これしか方法がないかもしれないんだ」


 苦肉の策。うまくいく保証はないし、うまくいっても、きっと澪桜にとっては地獄だろう。

 月喰姫の右手の指が錐のように細く尖り、それが澪桜の脇腹に突き立てられ——食喰餓神の、妖の因子と血が、失われた臓器にあてがわれていった。


 焼け付くような痛みが体の中にじんわりと広がっていく中で、澪桜はグレゴール・ザムザという名前を思い出した。あれは……図書館で読んだ小説で、毒虫になったという青年だっただろうか。カフカの、有名な。


 俺も、目が覚めたら虫になっているんだろうか。


 瞼がどんどん重たくなっていき、そして意識が暗い闇の底へ沈んでいった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

愛喰む食喰餓神 — LUNATIC PREDATOR — 雅彩ラヰカ/絵を描くのが好きな字書き @9V009150Raika

作家にギフトを贈る

ご声援、ご支援していただけましたら嬉しい限りです。
カクヨムサポーターズパスポートに登録すると、作家にギフトを贈れるようになります。

ギフトを贈って最初のサポーターになりませんか?

ギフトを贈ると限定コンテンツを閲覧できます。作家の創作活動を支援しましょう。

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画