第1話 人喰いの姫

 芽黎がれい二十四年の六月十四日、木曜日。

 梅雨前線は八洲皇国裡辺りへん地方にも押し寄せ、各地に激しい雨を降り注がせていた。

 それはこの法泉ほうせん県は燦月さんげつ市の桜花町も当然のように雨に濡れそぼらせ、町外れの、周囲の人々が『人喰い山』といって恐れ近づくのを躊躇う山でも同じである。


 不知澪桜しらずみおは家を出てその人喰い山に立ち入り、今日もまた一昨年の春先から作り始めて一年半がかりで完成させた秘密基地に入り浸ろうと思っていた。

 もしかしたら『同居人』の狩り・・に付き合うことになるかもしれないが、それも一興だ。


 世間一般は学校に忙しく、あるいは会社勤めで汗水垂らしている頃だろう。

 両親はきっと空の上か地の底で相応の暮らしをしており、家の持ち主である叔父はいつ帰ってくるかわからない。


 家にいると孤独感が押し寄せてくる。山に行けば友人がいる。

 それがここにくる理由だ。


「姫。月喰姫つきはみひめ


 澪桜は時代錯誤的なその名前を、文字通りの掘建小屋の中に投げかけた。

 原型ができて骨組みを頑張って作っている頃、飲んだくれた男たちに不法占拠された際に、その男たちを食べた・・・女。大きく口を開け、頭から粉々に噛み砕いて——。


「ああ、澪桜。学校とやらに行かなくて良いのか?」

「学校より、姫といる方が勉強になるよ。……変わったことはない?」

「ないな。ああ、ないとも。恐れ知らずの馬鹿は半年に二人来たら良いくらいで、それでは食事としては足りない。そろそろ狩りに出ねば飢えてしまうよ。それこそ君を食べてしまいそうだ」


 僅かに青みがかった銀髪を背中、尻の辺りまで伸ばし、美しくも妖艶で恐ろしげな真紅の瞳。

 月喰姫——食喰餓神しょくじきがしんという土着信仰の神で、かつて裡辺を恐怖のどん底に陥れた悪神。

 古くより月は精神に異常をきたすという考えがあり、また月の女神は狩猟の神ともされていた。

 月を喰む姫——言い得て妙といえる名前だった。


 澪桜とていつまでもファンタジーを信じる年ではない。しかし、彼女と過ごすようになってからは考えを改めた。

 去年の秋、祠らしきもののお札を近くの茂みで見つけた澪桜が興味本位で手に取った際、そこから現れた二十代後半ほどの女性。

 飲んだくれも、半グレも、サバゲーサークルのやつらもここにきたら捕食している女だ。けれどなぜか澪桜だけは食べない。その理由は封印を解いてもらった礼だという。正確には、この世に実像を結ぶ上で必要な楔だとか——。


「可愛い顔をするな。違う意味で食ってしまうぞ、澪桜」

「俺がそういう年頃だって知ってるだろ。冗談でもやめてくれよ」

「なんだ、女を知らんのか。童貞が許されるのは小学生までとどこかで聞いたが」

「どんな理屈だよ……」


 手にしているのはコンビニの袋で、澪桜はレインコートのフードを下ろして中身を木箱のテーブルに置いた。

 月喰姫が好きな唐揚げマダムという、からっと揚げた衣付きの唐揚げが五つ入った紙箱と、同じく彼女が好きなアップルティーだ。


「いつもすまないな。君には感謝してもしたりないよ」

「ううん。姫が俺のことを何度も助けてくれてるしさ。……叔母さんが失踪したっていうけど、あれ、姫だろ」

「なんだ、察しがいいな。二日前に食った。困っていたんだろう、遺産に寄生して、無心してくると。安心しろ、完全にこの世から消えたからな、失踪として片付けられて終わりだ」

「俺の周りじゃ、不知家の呪いとかって言われて大騒ぎだよ。不知家長男の血筋の恐ろしい呪い。財産に手を出したやつは消える、って。そのうちマスコミが来そうだ」

「そいつらも食ってやる。マスコミといえば負の念の凝集。私の力が増す。いずれ捲土重来した暁には君を夫として迎えてもいい。いいや、君以外を夫にするのは嫌だな」


 なぜこの稀代の悪神が澪桜に懐いたのか、その理由は……やはり、楔だからだろうか。それとも、邪悪な神にも情というものがあるのだろうか。

 月喰姫は唐揚げをさくさく食べながら、手にしていた本を畳んだ。表紙には達筆のタイトル。


「九尾の狐……」

「……の子孫が、かつての祖先のように振る舞おうという話さ。まあ、子孫の方は女ではなく男児なのだがね。行こうか澪桜。人の肉と邪念を食わねば、弱っていく一方だから」


 にぃ、と端正な顔に邪悪な笑みを刻み、月喰姫はうっとりと言った。まるで皿の前に御馳走を盛り付けられた子供のような天真爛漫さで。

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