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法螺貝の会 白山龍鳴会 (はくさん・りゅうめいかい)

法螺貝好きの法螺貝好きによる法螺貝好きのための同好会で全国の法螺貝愛好者が集まって交流し法螺貝を吹いて楽しんでいます。

徳川家康公の祈願寺である大乗院三仭坊の柴燈護摩で法螺貝吹鳴奉仕しました。 

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真言宗醍醐派、修験道当山派の大乗院三仭坊で恒例の厄除け火渡り大祭が行われ、当会の有志等が法螺貝奉仕に出仕しました。

例年、助法に来てくださる同じ宗派・修験の御住職たちが参加しなかった為、我々の法螺貝奉仕団が微力ながら火祭りを盛り上げました。

磐田市にある大乗院三仭坊(みひろぼう)は1550年前の前方後円墳(庚申塚古墳)の後円の上にあります。

平坦な市街地の中に周りを石垣で囲まれた箱庭のような寺院で、とても情緒があります。

御本尊である小笠三仭坊大権現は、当会が毎年奉仕している可睡斎と秋葉寺の秋葉三尺坊大権現と同じようなお姿をされていて、深遠な御縁を感じます。

大乗院三仭坊のご紹介をさせていただきます。

文武天皇の大宝年間に、屯ケ岳(今の磐田市御殿)に祐厳寺として境内を構え、ご本尊様に聖観世音菩薩、大聖不動明王の2尊を安置して創立されたものです。

その後690年経て、小笠家の先祖である藤原政義氏が醍醐寺に髄従して、山伏(修験)となりました。

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藤原政義は大和の国郡山の城主であり上皇の守護職でありましたが、後醍醐天皇の皇子と共に遠江国に至り再挙を計るため山伏となり、屯ケ岳に隠棲しましたが、再挙ならず小笠家の1世となりました。

その後、後奈良天皇の享禄4年9月18日に小笠山から小笠三仭坊大権現を迎え、先祖は藤原より小笠に姓変更し、お寺も小笠山小笠寺となりました。

徳川家康公が磐田中泉に御殿を造営するにあたり、その鬼門除け別当を命ぜられ御殿の東北に境内を構えその任にあたりました。

家康公もしばしば寺を訪れ、永く祈願をしたそうです。

家康公がお手植えされた蘇鉄は、今では磐田市役所の前に先代が寄付をしましたが、そのこぶを市役所から頂き、『里帰りの蘇鉄』として、今も境内に植えられています。

大乗院三仭坊の南側になるJR磐田駅南口のロータリーを越し、大きな道をほんの少し進むと御殿遺跡公園があります。

磐田市中泉の御殿地区は、その名の通り、かつて徳川家康公の御殿が立っていたところでした。

ちなみに、それよりはるか以前の奈良時代には国府があったと言われています(実際に国府の遺跡が出ています)

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中泉の地名は、徳川家康公が「日本の真ん中にある、茶の湯によい、美味しい泉の湧くところだから、中泉としよう」と名付けたと伝わります。

鷹狩りが好きだった家康は、よくこの中泉に鷹狩りに来たとのことです。

当時は大之浦という沼沢が、中泉地区の南側に広がっていましたので、このあたりで鷹狩を楽しんだのでしょう。現在では大池で当時の風景を偲ぶことができます。

中泉御殿と中泉の地は、家康公の関東移封後も、京へ上る家康の宿泊施設として徳川領として残されました。

徳川家康公が、関ケ原に進軍する時、掛川城ではなく、また浜松城でもなく、この中泉御殿に宿泊し、作戦を練ったといわれています。

また、大阪冬の陣、夏の陣に出陣の際にも、中泉御殿に宿泊したと言われています。

徳川家康が遠江に入国にしたさいに、最初に陣を張ったのは、遠州国府、今の見付であったそうです。

大乗院三仭坊は江戸時代、幕府より十万石の格式と院家格を与えられ遠州七坊の髄一と隆盛を極めましたが、廃物稀釈で廃寺となり、3600坪の境内地は鉄道御用地として取り上げとなり40年間、寺としての活動は明治政府より禁止されました。

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大正2年この状態を心から憂慮した慶宏法印が再興し、現在の基礎を作り昭和17年に大乗院と移転合併したことによって2つの本尊様を有しました。

大乗院の本尊様は大青面金剛といい、病を平癒、快癒していただけるご利益があり、また、小笠寺の本尊様の三仭坊大権現は、一生一度の大願は必ず叶えてくれるという神様で、もちろん火伏せの神であり、地を鎮める神様でもあります。

講習会を終えた有志等は財賀寺を出発して、高速道を使い1時間くらいで到着しました。

午後三時から三仭坊本堂で行われる護摩供養のお練りで有志等は法螺貝で先導しました。

奉仕後に寺務所で休憩していると、ご住職の奥様から有志全員に餅と助六寿司、護符やご供物の入った紙袋を頂きました。

この場をお借りして御礼申し上げます。

夕焼け迫るなか、僧侶と有志等は220年前に作られた本堂までの26段の石段を登り始めました。

行道の法螺貝の音色は乙3音、甲3音、別揺り7回、止めの繰り返しで、先達の立螺師の吹く調べに合わせて全員が音を合わせていきました。

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箱庭のような境内に法螺貝の音が荘厳に響き渡り参拝者を護摩壇の斎場に誘いました。

柴燈護摩とは、屋外に壇を組んで行う大規模な護摩修行のことです。

なぜ「柴」という字を使用しているのかというと、昔山中での修行中、身近にある柴(しば)や薪を用いて壇を組み、護摩修行を行ったことから「柴」が付けられたという説があります。

無事に祭典が行われましたが強風の中の柴燈護摩となりました。

副住職によって護摩木が次から次へと投げ込まれ、参拝者の諸願成就を祈念しました。

有志等の読経と真言に清められた護摩壇の火炎は舞い踊り、とても迫力があり三仭坊大権現の、より偉大な力を感じました。

有志等も僧侶に合わせて読経や真言を唱え、法螺貝の音も漆黒の夜空を揺らしていました。

後で確認した写真には護摩の炎に、龍の姿が現れていました。

最後は浄められた護摩の熾火の上を一般参拝者と共に火渡りをして無病息災をお祈りしました。

終了後に御住職に挨拶に伺うと、今回の法螺貝奉仕に大変喜ばれていました。

有志等は徳川家康公に所縁のある寺の柴燈護摩に奉仕出来た感動を胸に帰路につきました。


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