坐禅の奥義書『坐禅儀』を学んでみましょう 全文の訓読読み

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坐禅とは何か、やり方・方法は本来どのようなものなのか。わかっているようで、実は禅僧でもわかっていないことがあります。

私は、曹洞宗元館長(トップ)だった板橋興宗禅師様に認めていただき禅僧にしていただき禅師様の元で僧堂生活をして修行させていただきましたが、探して考えました。

そして、古来からの奥義書の『坐禅儀(さぜんぎ)』に見つけました。昔の言葉ですが全文と言っても3分程度で読める量ですので、あなたもぜひ読んでみてください。

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坐禅儀とは

『坐禅儀』は『禅苑清規(ぜんえんしんぎ)』という書に含まれていて、禅苑は禅寺や禅林と同じこと、清規は禅宗の軌範、きまりごとのことで、『禅苑清規』は現存する最古の禅の決まりごとが書かれた書です。

『禅苑清規』は全十巻で、中国で唐代中期に百丈懐海(ひゃくじょうえかい)が制定したとか、宋の長蘆宗賾(中国の雲門宗という禅宗の人)によって千百年ころに書かれたと言われています。『坐禅儀』は作者不詳と言われています。

なお、道元禅師は『禅苑清規』を著書で繰り返し引用していて、『普勧坐禅儀』は 『坐禅儀』と共通点があります 。

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では、『坐禅儀』全文の原文の訓読読みです。

坐禅儀 全文

まず、坐禅をするときの心構えと、すること。

夫れ学般若の菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘誓願を発し、精く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身の為に独り解脱を求めざるべし。

乃ち諸縁を放捨し、万事を休息し身心一如にして、動静間無く、其の飲食を量って、多からず少なからず、其の睡眠を調えて節せず、恣にせず。

そして、坐禅の擬態的なやり方。これは一般にも良く説明されているのと同じです。

坐禅せんと欲する時、閑静處に於いて厚く坐物を敷き、寛く衣帯を繋け、威儀をして齊整ならしめ、然る後、結跏趺坐せよ。

先ず右の足を以って、左のももの上に安じ、左の足を右のももの上に安ぜよ。或いは、半跏趺坐も亦た可なり。但左の足を以って、右の足を圧すのみ。

次に右の手を以って、左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両手の大拇指の面をもって相拄え、徐徐として身を挙し、前後左右、反覆揺振して、乃ち身を正しうして端坐せよ。

左に傾き右に側ち、前に躬まり後に仰ぐことを得ざれ。腰脊頭頂骨節をして相拄え、状浮屠の如くならしめよ。又た身を聳やかすこと太だ過ぎて、人をして気急不安ならしむることを得ざれ。

耳と肩と対し、鼻と臍と対し、舌は上の顎を拄え、唇歯相著けしむることを要せよ。

目は須らく微し開き、昏睡を致すこと免るべし。若し禅定を得れば其の力最勝なり。古え習定の高僧有り、坐して常に目を開く。向きの法雲円通禅師も亦た、人の目を閉じて坐禅するを訶して、以って黒山の鬼窟と謂えり。蓋し深旨あり、達者焉れを知るべし。

次の部分は坐禅中にどうするか。

黄色のマーカーをひいておきましたが、この部分がなかなか説明されていなくて、教える人によって違ったりします。知らない禅僧も少なくないです。

有名なドイツ人僧のネルケ無方師が住職だった名門・安泰寺の住職を務め名僧であった内山興正師の著書に「覚触(かくそく)」とありましたが、念、思考や感覚が現れても、それに関わらず、集中するように考えています。

身相既に定まり、気息既に調い、然して後臍腹を寛放し、一切の善悪都て思量すること莫れ。念起らば即ち覚せよ。之を覚すれば即ち失す。久々に縁を忘すれば、自ら一片と成る。此れ坐禅の要術なり。

そして、次は坐禅とは何か、どんなものかの説明になります。

窃かに謂うに坐禅は乃ち安楽の法門なり。而るに人多く疾を致すは、蓋し用心を善くせざるが故なり。若し善く此の意を得れば、則ち自然に四大軽安、精神爽利、正念分明にして、法味神を資け、寂然として清楽ならん。

若し已に発明すること有る者は、謂っつ可し龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たりと。若し未だ発明すること有らざる者は、亦た乃ち風に因って火を吹けば、力を用いること多からず。但だ肯心を辨ぜよ。必ず相賺かず。

然るに而うして道高ければ魔盛んにて、逆順万端なり。但だ能く正念現前すれば、一切留礙すること能わず。楞厳経、天台の止観、圭峰の修証儀の如き、具に魔事を明かす。預め不虞に備うる者の、知らずんばある可からず。

そして坐禅の終わり方の注意。

若し定を出でんと欲せば、徐徐として身を動かし、安詳として起ち、而も卒暴なることを得ざれ。出定の後も、一切時中、常に方便を作し、定力を護持すること嬰児を護するが如くせよ。即ち定力成じ易からん。

そして、締めが坐禅の素晴らしさ。この部分は難解です。

夫れ禅定の一門は最も急務たり。若し安禅静慮ならずんば、這裏に到って総に須らく茫然たるべし。所以に珠を探るには、宜しく浪を静むべし。水を動かせば取ること應に難かるべし。定水澄静なれば、心珠自ら現ず。

故に円覚経に云わく、無礙清浄の慧は、皆な禅定に依って生ずと。法華経に云わく、閑處に在って其の心を修摂し、安住不動なること須弥山の如しと。

是に知んぬ、凡を超え聖を越えることは必ず静縁を假り、坐脱立亡は須らく定力に憑るべし。一生取辨するも尚お蹉跎たらんことを恐る。況んや乃ち遷延せば、何を将てか業に敵せん。

故に古人云わく、若し定力無くんば死門に甘伏し、目を掩って空しく帰り、宛然として流浪せんと。

幸いに諸禅友、斯の文を三復せば、自利利他、同じく正覚を成ぜん。

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禅僧として坐禅を修行、ヴィパッサナー瞑想を日本でゴエンカ式を習得、本場ミャンマーでマハーシ式を修行、近年の心理系、ビジネス系のマインドフルネス瞑想も習得した最高の瞑想指導者から、いつでも学べる特別な瞑想の講座。入門編は無料公開中

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