早大監督して6度のリーグ制覇を果たした応武氏
2018年の秋季県大会で崇徳高の指揮を執った応武監督
母校崇徳高の監督に就任し、選手に声を掛ける応武氏㊧
1976年の選抜大会で優勝し、中国スポーツ賞を受賞した崇徳高ナイン
2010年のドラフトで1位指名された、左から福井、大石、斎藤とともに会見に臨んだ応武氏(右端)
早大監督して6度のリーグ制覇を果たした応武氏
2018年の秋季県大会で崇徳高の指揮を執った応武監督
(写真 全5枚)

 広島・崇徳高出身で、新日鉄君津や早大で監督を務めた応武篤良(おうたけ・あつよし)氏が7日、亡くなった。64歳。同高で同じユニホームを着て1976年の選抜大会優勝を果たした元広島カープの山崎隆造さんは、同級生との別れを惜しんだ。

 「『最後に母校に恩返しするために帰ってきた』と言っていたのが忘れられない」。山崎さんはそうおもんばかった。応武氏は20188月に母校、崇徳高の野球部監督に就任。しかし、その後に体調を崩し、今夏の広島県大会ではベンチ入りしていなかった。

 応武氏は76年の選抜大会で捕手として活躍した。「練習をボイコットしたり、学校をさぼって旅行に行ったり、どちらかというとやんちゃな方」と山崎さん。プレーでは肩の強さが印象に残っている。「走者が二塁にいるときにショートだった自分とアイコンタクトして、投手の黒田(真二=元ヤクルト)に返すふりをして二塁に送球してアウトにすることがあった」と懐かしむ。

 同年のドラフト会議で山崎さんは広島から1位指名を受けて入団。応武さんは近鉄から3位指名を受けたが、入団拒否して早大に進んだ。新日鉄広畑では88年のソウル五輪に出場した。現役引退後は新日鉄君津の監督として松中信彦(元ソフトバンク)らを育てた。その後は早大のコーチを経て監督となり、斎藤佑樹(元日本ハム)や福井優也(楽天)らをプロに送り出した。広島で1軍コーチや2軍監督を務めた山崎さんは「選手を育て、チームとしても成績を残した。プロ、アマ関係なく、指導者としては応武の方が1枚も2枚も上」と認める。

 2年前に亡くなった黒田氏に続き、ともに戦った仲間がこの世を去った。山崎さんは「それまで同級生で集まる機会がなかったが、応武が帰ってきてくれたことでみんなで集まるきっかけになった。みんなで母校を応援しようと盛り上がったのもあいつのおかげ。応武に感謝です」と言葉を継いだ。

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