本当にたくさんのご意見をありがとうございました。具体的になにかを生み出すという企画ではないのにも関わらず、時間を割いていただいたことに深く感謝いたします。
最後になにを書いて締めくくったらいいのか、よくわかりません。
みなさんからいただいたメールは、じつにさまざまでした。悲しんでいたり、怒っていたり、思い出していたり、呆然としていたり、まるで気にしていなかったり、あるいはそれらがないまぜになっていたり。僕は読みながら、それに合わせていろんな感情を味わうことができました。当たり前のことですが、正解はないし、無理矢理どこか前向きな地点に着地させて晴れやかにすれば済むという問題ではないのだと思います。
正直、『MOTHER』というゲームがこれほどまでに待たれていたということに僕は驚きました。僕が『MOTHER3』の開発中止を聞いて混乱したのは、あくまでも個人的な混乱であると思っていました。現在のシーンを揺るがせるようなものではないと感じていたのです。しかし、掲載されたメールを読めばわかるとおり、僕のメールボックスには個人的な混乱がたくさん届きました。怒りも悲しみも、根本には混乱がありました。
個人的なゲームだと僕が思っていた『MOTHER』は、僕だけではなく多くの人にとって個人的なゲームだったようです。その確認は具体的ななにかを生みません。しかし、確認できてうれしく思います。
最初の原稿で、僕は「ものはどんどん勝手に創られて出てくるように感じてしまうけれど、そうじゃないんだ」と僕は書きました。それは対談を読んでいちばん強く感じたことでした。そしていま、僕はみなさんからのメールを読んで、強くこう感じています。
「ものはどんどん勝手に消費されて消えていくように感じてしまうけれど、そうじゃないんだ」。
人が創ったものを人が消費するということ。人から人へ渡るものは、(たとえば『MOTHER』という)単独のかたまりかもしれません。しかし、それを創る人や消費する人は、単独のかたまりではないのです。昔、ミュージシャンの甲本ヒロトさんが、コンサート会場で「みんなは大勢集まっているけれど、みんなは集団じゃないぜ」と言ったことがあります。作り手は集団ではないし、消費者も集団ではない。当たり前のことだけれど忘れてしまいがちなことを、僕は確認し直したような気がします。
さて、本日を持ちましてこの企画をいちおう終了させていただきます。いただいたすべてのメールを掲載することはできませんでした。さまざまなご意見、本当にありがとうございました。この企画や企画者である僕へのご指摘も何点かいただきました。軽率、未熟な点など多々あったかと思います。後悔はしていませんが、反省すべき点はしっかり噛みしめております。なにとぞご容赦ください。
ここをクリックしてくれた、ひとりひとりの個人に個人として感謝します。
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