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海の向こう、水の壁に囲まれた隣国の首都から届いた手紙。 きっと軍部で支給されているものなのだろう、うっすらと青みがかった繊細な便箋は微かに湿った匂いがする気がして、美しい水の都と、その景色に引けを取らないほど整ったかんばせをした軍人を思い起こさせた。
港でお待ちしていますよ。 貴方が帰ってきてくれて、嬉しいです。
手続き等に関する事務的な文字列のあと、最後に付け足されたシンプルな二行。 それがどれだけ己の心を震わせるのか、きっと手紙の主には分からないのだろう。分かったうえで揶揄いにくる質ではあるが、こんなに動悸がうるさくなるほど動揺を与えているとは思わないだろうし、思われてたまるかという反抗心もある。 はやる心に急かされるようにして、手紙を持って部屋を後にする。まずは、荷物を準備しなければ。
僅かに開かれた窓から入った風が、潮風を運んでくる。つられるように外を見れば、青々とした若葉の向こうでキラキラと反射する水が絶えず流れ落ちている。 ため息が出るほど綺麗で、平和な海上都市の昼下がり。 ただし、室内に溢れたため息はどことなく疲れた色を含んでいた。
みゅう、みゅ、みゅみゅみゅ。
ため息に被さるようにして、独特な鳴き声がダイニングに響いている。 発する聖獣の名前によく似た発音をしているその声は、誰が聞いてもご機嫌なのだと分かるほど高く弾んでいた。遠くから、近くから、前方から、後方からと落ち着きもなく様々な方向から聞こえ、声の主が部屋の中をあちこち移動していることが察せられる。 楽しそうに耳を羽ばたかせながら飛び回る聖獣に対して、部屋の中央に置かれた椅子に腰掛けている赤毛の青年は先ほどからため息をつく以外の動きがなかった。行儀悪く机に肘をついて頬杖をしている彼は、少々不満げな顔で水色の獣を眺めていた。
「みゅ! ご主人様、お水どうぞですの!」 「……あんがと、ミュウ」
ちゃぷ、と衝撃で多少中身をこぼした小さなコップが青年の前に置かれる。ぶっきらぼうながらもきちんと名前を呼んで礼を返した青年は、すぐに少ない水を飲み干すとまた頬杖をついた。下唇を突き出し、いかにも不満ですといわんばかりのふてくされた表情だったが、目の前で満足そうに背を向けた聖獣、ミュウが気づくそぶりはないのが恨めしい。 「ご主人様、喉乾いてたですの? おかわり持ってくるですの!」 小さなクッキーを二枚抱えて机に戻ってきたミュウは、空になったコップを見て荷物を置いてから再びキッチンに向かおうとした。青年をおもてなししようとするその姿はさながら、この家の主か使用人のようだ。人間とは似ても似つかない見た目であるため、どうしても人形のおままごとのように見えてしまうが。 「お水はたくさん飲んだ方が体にいいって、ジェイドさんも言ってたですの」 みゅ、と空のコップを持ち直しながらミュウがあげた名前に、青年の肩がぴくりと揺れた。 「……じぇいど……」 頬を押し潰す指の隙間から、情けない声が漏れる。 そのジェイドという人物こそ、この家の本来の主のはずだったのだ。
青年は、名をルークといった。 この惑星オールドラントに存在する大国の一つ、キムラスカ・ランバルディア王国のファブレ公爵子息の名前である。ただし現在では、子息としての立場よりも、世界を救った存在として、その名は広く知られていた。
レプリカでありながら、自分の命を捧げてまで人々のために戦い、最期は音素に溶けた、英雄として。
しかし現実問題、ルークは今生きている。ローレライを解放した二年後、記憶だけの存在となり被験者であるアッシュと共に帰ってきたはずだったのだが、その後何の因果かひょっこり肉体もセットで帰ってきてしまったのだ。 勿論、彼の帰還はかつての旅の仲間や両親、使用人たち、そしてアッシュにも心から喜ばれた。ただ、既に盛大に国葬が行われ、慰霊碑まで建てられたルークがアッシュに続いて再び生き返ったなどと広まれば、国内外が混乱することは必至だった。 近しい者たちはそれでも本人の希望に沿おうとしたが、預言が廃止されてから二年、やっと前を向いてまだ見ぬ未来へ進み始めた世界を掻き回したくはないとルークが主張した。結果、肩書きとしてはファブレ家の次男ではあるものの、存在は公表せず、国政にも関わらないことでひとまず落ち着いたのである。 ルーク本人としても、強力な後ろ盾を持ちつつも気ままに動ける立場はありがたいものだった。どことなく気まずくなってしまうキムラスカに留まらなくてはならない理由もなくなり、ジェイド本人から同居の許可を得たことを受けて、これ幸いとかねてから淡い想いを寄せていた彼のもとへ身を寄せることにしたのだ。 しかし、心躍らせてジェイドの待つ港へと到着したルークを待ち受けていたのは『少々遅れるので自宅で待っていてください』という伝言を渡された彼の部下であり、伝言に従い個人宅のドアを叩いたルークを家人の顔をして出迎えたのはミュウだった。 二年前、主を亡くして仲間の住む森へと一度は帰ったらしいチーグルの子どもは、どういうわけかジェイドと共に暮らしている。 マルクト貴族として彼らと同じ地に暮らしているガイとの手紙のやりとりで、ミュウが彼のもとを訪ねた理由が『ご主人様を迎えにいくための研究を手伝いたい』だと知った時には、思わず目頭が熱くなったものだ。 ジェイドが再開したフォミクリーの研究は、今生きているレプリカたちのためのもので、ルークを取り戻すための研究ではないはずだった。それでも、ジェイドがこの騒がしい獣を受け入れているということは、彼がミュウの意志を尊重してくれたのだと考えることもできて、純粋に嬉しい。 嬉しい、のだが。 「……それとこれとは、話が別なんだよ……」 はぁぁ。 「何がですの?」 「うっさいブタザル」 「みみゅう……」 ルークが思わずついた、ため息混じりの言葉。律儀に聞き返してきたミュウは、怒られて大きな耳を垂れさせた。 ちょっと理不尽だったかな、とルークは反省しつつも、このチーグルの子どもに対してわだかまるものを抱えているのは事実であったため、口に出すことはしなかった。 こういうところが子供と言われるのだと分かってはいる。分かってはいるが、自分がいない二年間をジェイドと共に過ごし、今も自分の家のような顔をして彼の家にルークを迎え入れるミュウが、ひどく羨ましかった。 有り体に言えば、ルークはミュウに嫉妬しているのだ。 「はあ……」 「みゅ? ご主人様、具合悪いですの?」 未熟な自分の感情を自覚してしまい、本日何度目かの重いため息が出た。懲りずに反応して検討外れに体調を伺ってくるミュウに、もはや何か言い返す気にもなれない。 こうしてミュウとふたりきり、ジェイドを待っているうちに、考えないようにしていた小さな不安が表に出てきてしまっているのを感じていた。思っていたよりもあっさりと同居の提案が受け入れられてしまったことに、無意識のうちに不信感のようなものを抱いていたのかもしれない。 ──もしかして俺、ジェイドに同情されてるだけだったり、とか。 ジェイドとも書面でのやりとりはしている。彼がレプリカのための研究で日々忙しくしているのも分かっているつもりだ。でも、この世界に帰ってきてからまだ一度も顔を合わせていないのに、と思ってしまうのも仕方のないことではないだろうか。
がたり。
沈み続けていく気持ちをどうにもできないまま、下がる視線で机を睨み続けていると、何か物音がした。 「っ……!」 それが玄関の方から聞こえてきたことに気付いて、思わずがたんと立ち上がる。 「みゅっ、お客さんですのー」 「俺が行くよ」 獣特有の敏感な耳で人の来訪を捉えたのか、玄関に向かおうとするミュウの頭を掴んで押しとどめた。むぎゅ、と手の中から潰れた声がしたが、生憎そちらに構ってやれるほどの余裕はない。 ドンドン。焦れたのか、玄関の向こうの誰かがドアを叩く音がする。もつれそうになる足を動かしてドアまで辿り着くと、ルークはノブを曲げて勢いよく押し出した。 「ジェイド!」 「むぎゅ!」 先ほど手の中から聞こえた声と同じ内容の、しかし幾分しゃがれた悲鳴が聞こえた。ノブを掴んでいた腕は中途半端な位置で止まっていて、ドアの向こうで何かにぶつかったのだと分かる。 再びドアをゆっくり押し出していくと、向こうにいた何者かが体の位置をずらしたらしく、今度は開き切ることができた。 四角い枠の向こう、手でさすられている頭は陽に当たっているからか銀に光って見える。いつの間に切ったのやら、髪は記憶にあるものよりも短くて。 「ちょっと! 酷いじゃないですかジェイド! ……あれ?」 流石にこれ以上の現実逃避はルークにもできなかった。 本当は、鍵を持っていれば叩く必要がないはずのドアの音が聞こえたところで、いや、玄関からダイニングまで届くような大きな物音が聞こえた時点でジェイドでないことは察していたが、それでも信じたかったのだ。 しかしドアの前に立っていたのは、待ち侘びた人物ではなく、彼と同郷の研究者だった。 「ああ、そういえば、貴方が来るのは今日でしたね」 「ディスト……」 「まったく、忌々しい。あの馬鹿面のチーグルだけでなく、一度は消えたはずの貴方までジェイドと一緒に暮らすなんて……!」 羨ましい、羨ましい! あと、今の私はサフィールです! 相変わらず年甲斐もなくキィキィと喚く声に、耳を塞いでしまいたくなる。 かつてはルークたちの敵として立ちはだかった死神ディストは、今は本名であるサフィールの名でジェイドの助手として働いているらしい。 ルークは、ガイからの手紙に目の前の男についての情報も書かれていたことをようやく思い出した。 「で? ジェイドはどこですか」 「しらねーよ」 ぶっきらぼうに返事をする。ジェイドの居場所なんて、自分の方が知りたいと思っていることだ。 「おやぁ、おかしいですね。私よりも随分前に研究所を出ていたはずなのですが」 一方、探している人物がいないと理解したらしいサフィールは、散々動かしていた腕をすっと降ろして表情を消した。 「ふむ。いないのであれば仕方ありません。このまま待っていたいところですが、生憎予定がありますから」 逐一城に呼びつけるんですから、ピオニーの奴め。ジェイドがいなかったら私の音機関で吹き飛ばしているところですよ。 ぶつぶつと呪詛のように不穏な言葉を吐きながら懐を漁っていたサフィールは、ぴらりと何かをルークの眼前に突きつけた。 「これをジェイドに渡してください」 「え? 紙……」 差し出されたのは文字の書かれた紙切れ。 反射的に受け取った、そのとき。
「──それでは、代わりに私がお前を吹き飛ばして差し上げましょう」 切り刻め、タービュランス。
突如ルークの耳に、聞きたいと渇望していた声が飛び込んできた。 そして声と同時に、サフィールが消えた。 「……ジェイド!」 風の刃に刻まれ吹き飛んだ男のことなどすっかり抜け落ちて、ルークの頭は新たに現れた人物でいっぱいになった。持っていた紙切れもポケットに無造作に突っ込まれ、ルークの意識の外になる。 溢れる感情のままに名を呼ぶと、青に包まれた手が伸びてきて、腕をぎゅっと掴まれた。突然の接触にルークがあたふたする間もなくそのまま強い力で引っ張られ、ドアの内側に押し込まれる。 ばたん。 大きな音をたてドアが閉まった直後、ルークの腕を掴んでいるのとは逆の手が素早く回され、鍵がかけられる。次いで、とさりと軽いものが落ちる音が聞こえた。恐らく彼が片腕にかけていた紙袋だろう。 その間、ルークは目の前の亜麻色の髪と眼鏡に隠れた端正な顔をじっと眺めていた。やがて、視線を向けられていることに気づいた相手は、ようやくこちらを見てくれた。 どことなく、ぎこちない笑みがルークを見下ろしている。記憶にある限り、この男がこんな表情をしていたことは数えるほどしかない。 例えば、旅の最期、戻ってきてほしいとルークに告げたときのような。 ためらいながらも開かれる口。そこから紡がれるだろう言葉を言わせたくないと思った瞬間、ルークは眼前の青をまとった体を思い切り抱きしめていた。 胸の辺りに顔を押し付けているせいで表情は見えないが、僅かに相手が息を呑んだ音が聞こえて、してやったりという気持ちが芽生える。 それから、ずっと直接伝えたかった言葉を万感の思いで口にした。 「ただいま、ジェイド!」 「……おかえりなさい、ルーク」 おずおずと、背に回される長い腕に嬉しくなって、ルークは同じように相手の背を抱いている己の腕に込める力を強くした。
この場合、本来ならばおかえりと言われるべきは私の方ですよね。 彼がそう苦笑しながらルークの腕を剥がし、騒ぎに気付いたミュウが玄関にやってきて再び騒がしくなるまで、あと数分。 その間、二人は無言で互いの温もりを感じていた。
「なあ、何で迎えに来られなかったんだ?」 皆でリビングへ移動して、ミュウが運んでくれたクッキーを齧りながら発されたのは、ルークにとって当然の疑問だった。若干非難するような声色に対してジェイドは、焦るそぶりも見せず優雅にカップに口をつけている。 つい数分前までのしおらしい態度などすっかりなりをひそめて、呆れるほどに見慣れた薄っぺらい微笑を浮かべている男に、ルークは思わず半目になった。 「おやおや。先ほどのイベントで都合よく忘れてくださったかと思っていましたが、そうもいきませんか」 形の良い口から紡がれる言葉も、通常運転というべきか、こちらを小馬鹿にするようなものである。 「当たり前だろ! どんだけ待ったと思ってるんだ」 ルークは苛立ちと、それからジェイドを真似て口に含んだ飲料の苦さに、顔をしかめて不満を吐き出した。 湯気を出す二人分のコーヒーは、さすがにミュウではなくジェイドが淹れてくれたものだ。ルークが「苦いのも嫌がらせなのか……?」とぼやきながら常備されているらしい砂糖壺から白い立方体を掴んで二、三個焦げ茶の水面に落とすと、とぽとぽと波紋が広がった。 スプーンでくるくるかき混ぜてから、おそるおそる液体を口にする。青年の子供らしい仕草を眺めて、対面に座っている男からくすりと笑いが溢れた。 熱さと苦さと格闘しているルークはそれに気付くこともなく、味が許容範囲に収まったのを確認するとカップを降ろす。 「港にいないからさぁ。手紙に書いてあった住所見てわざわざ訪ねたってのに、家で待ってても全然来てくれないし……」 「それはそれは。でも、ミュウはいたでしょう?」 「みゅう! ボク、ご主人様をしっかりおもてなししたですの!」 「よくできましたねー」 「だーっ、違うんだよ!」 慣れた様子で戯れる一人と一匹に、再び芽生えそうな嫉妬を押し込むようにしてルークは大きな声を発した。 「だって俺、やっとジェイドに会えるって思って、俺、最期にジェイドには、帰ってくるって言えなかったから……」 感情のままに言葉を溢れさせながら俯いていき、やがて声は聞き取れないほど小さくなって、途切れた。 「……ルーク」 がた、と椅子が床に擦れる音。 カップの持ち手を弄りながら顔を上げようとしないルークの上に、ふと影ができた。続いて、ぽす、と頭に何か柔らかいものが乗せられる。 「港に行けなかったのは、実験が長引いたからです」 すみません。 静かな謝罪と共に、頭に置かれたものがふわふわと髪を撫ぜる。この軍人が自分に対して突然向けてくる優しさに弱いルークは、それでも流されてやるのは悔しい気がして、顔を上げたい気持ちをぐっと抑え込んだ。 「……こんな日にまで研究しなくたっていいじゃん」 「柄にもなく浮かれていたのでしょうね」 「え?」 駄々っ子のような言葉に返されたのは意外な答えで、思わず見上げてしまったルークの視界にクリーム色の毛の塊が飛び込んできた。 「貴方が来てくれる前に結果を出しておきたかったんですよ」 「え、ちょ、むがっ」 ジェイドが何か大事なことを言っている気がするが、ぐりぐりと押さえつけられているもふもふでそれどころではない。もふもふは「みゅ〜〜」と気の抜けた鳴き声まで発している。 「これ、ミュウじゃん!」 「はいですの!」 至近距離からのはきはきとした返事に脱力した。頭を撫でてくれたとルークが思い込んでいたものは、青くて細長い手ではなく聖獣のおしりだったということだ。 「あーあ。そうだよな、そういう奴だったよな、ジェイドはさ……」 「はは、すみません」 真面目に怒るのが阿呆らしくなったルークが大きくついたため息に、今度は随分と軽い謝罪が飛んできた。
ルークが行き場のないもやもやをミュウの頭を机に押しつけることで発散していると、前方からカチャリと陶器の触れ合う音が聞こえた。 「コーヒー、冷めますよ」 そう言うジェイドは、いつの間に飲み終えたのか空のカップを持って再び立ち上がっている。そのままキッチンのある部屋へと消えた彼は、ややあって、紙袋を抱えながら戻ってきた。確か、帰宅した時に持っていたものだ。 その紙袋から取り出された物体が何なのか、頭で理解したとき、ルークの口は勝手に開け放たれていた。 「は、……はな?」 ジェイドに花束。 視界に入った光景が異様すぎて、ルークの目が口と同様に丸くなる。 花束自体は淡いピンクの色合いをしていて、ふわふわした花を中心とした品のある見た目だったが、それを持っているのがあの青い軍服の陰険眼鏡、となると途端に胡散臭くなるのは何故だろう。ただし、何も知らない人が彼を見れば、花を手にした儚げな雰囲気に思わずため息をついてしまうであろうほど様になっているため、それが余計に腹立たしい。 胡乱な目で見られていることには気付いているだろうに、ジェイドはすました顔でルークの側に歩み寄ると、にこりと笑いかけてきた。 「これで機嫌を直してもらえませんか」 「えっ……」 ルークは、不覚にも向けられた綺麗な笑顔にどきりとしてしまった。なんとか顔に出さずに済んだと思いきや、たった今かけられた言葉で再度心臓が早鐘を打ち始める。 ジェイドが言った『これ』とは、この状況では彼が手に持っている花束以外考えにくい。そして花束をルークに渡すことで機嫌を取ろうとしている、と捉えることのできる発言。 ルークの目の前に立つ男は、似合わない花束を買ってまで自分を迎える準備をしていたのだ、と思い込むのはすぐだった。嬉しさと照れ臭さで顔が熱くなるのを感じたが、滅多に見せてくれない貴重な優しさを逃してはいけないと、目を背けたくなるのを必死に堪える。 「ジ、ジェイド、ありが……」 「ああ失礼、そちらではありません」 ひょい。 花束に避けられて、伸ばされたルークの手は空気を掴むことになった。またか、と落胆しそうになったとき、目の前にキラリと光るものが差し出される。 「……鍵」 「合鍵ですよ、この家のね」 意外なプレゼントに思わず目を瞬かせそれの名を溢すと、悪戯を打ち明けるような声色でジェイドが説明を付け加えた。 「鍵屋に作らせていまして。どうせ遅れるなら、と思って先ほど研究所からの帰りに受け取りに行ったんです」 「なんだよそれ……でも、いいのか? こんな大事なものを俺なんかに」 悪びれもせず寄り道をしたことを暴露するジェイドに呆れつつも、ルークはつい自虐的な言い方をしてしまったことを自覚する。 恐らく先程まで頭を占めていた不安が無意識に言葉に出てしまったのだろう。俺なんかが、という言い回しは二年前の旅の道中、口にするたび仲間たちに嗜められてきたというのに。 「ええ、いいんですよ。貴方には、花よりもそちらの方がよほど使い道があるでしょうし?」 「……うん」 対してジェイドは、特にルークの言い回しについて言及することはなかった。何事にも踏み込みすぎないところは、なんとも彼らしいと思う。そして、付け加えられた嫌味こそいつも通りの不遜さだったが、見下ろす眼差しは優しかった。それが嬉しくて、自然と笑顔が溢れてくる。 「ありがとう、ジェイド!」 「どういたしまして」 「ご主人様もジェイドさんも、元気になったですの。よかったですのー!」 「へへ、まあな」 我ながら現金だなと思わなくもないが、復活したらしいミュウの能天気な発言にも笑顔で同意する程度には気分が浮上していた。 しかし返事を返した直後、ミュウの台詞にふと引っかかりを覚える。 「……俺はともかく、ジェイドも元気なかったっけ?」 ルークには、先ほどから拗ねてむくれていた己の様子を元気がないと表現されることは理解できた。一方で、確かに珍しくしおらしい言動はあったものの、概ねいつも通りなジェイドにその表現は当てはめにくいとも思う。 ルークの困惑を察しているのかいないのか、大好きな主に問われたミュウは胸を張って元気に答えてくれた。 「はいですの! ジェイドさん、ご主人様がいなくなってからずっと元気なかったですの。でもご主人様が来てから元気になったですの!」 「へ?」 そんな大きなスパンの話だとは思っていなかったので、ルークは面食らった。思わず間抜けな声が口から漏れる。 「……ミュウ」 机の中央付近に立っているミュウの背後で、不穏な声と共に彼の眼鏡がきらりと怪しく光った気がしたが、口を挟むのもなんだか恐ろしい。しかし、空気など読めないチーグルの子どもは更に説明を続けようとした。 「今朝も、本当にご主人様が帰ってくるのか実感がないって不安そうにみゅぐっ!」 「ミュウ。それ以上余計なことを言うと、潰しますよ」 「…………」 みゅみゅぅ〜。 くぐもったミュウの声が机に押し付けられた青い手の下から漏れ出ている。もう潰してるじゃん、とは言えない雰囲気だった。
「さて、ではこちらの花束についての説明をしましょうか」 不穏な空気にメスを入れるかのように、心なしか大きな声でジェイドが言った。机に置かれた花束を意味深に撫でながら「……聞きたいですよね?」と念を押してくるあたり、明らかに話題を変えようとしているのがルークにも分かる。 気にはなるが、悪戯に詮索してこれ以上彼の機嫌を損ねるのも怖かったので素直に頷くと、ジェイドは浮かべていたわざとらしい笑みを少し薄めてくれた。伝えるつもりもなかっただろうらしくない様を無垢なミュウに暴露されて、珍しく動揺しているのかもしれない。 「これは、ネフリー宛ての祝いの品です」 久しぶりに聞いたような気がする名前が出てきて、ルークは一瞬きょとりとした顔になった。 「ネフリー……さん、って、ジェイドの妹だよな。ケテルブルク知事の」 「ええ」 少し記憶を辿れば、すぐに思い出すことができた。当然といえば当然である。あの長い旅の中で、彼女が知事を勤める北方の雪国には何度も足を運んだのだから。 目の前の男が誰かに贈り物をするなど、花束を持つのと同じくらい似合わない気がするが、その相手が彼の妹であるならば納得ができる。ジェイドの過去の事件もあってか、兄妹の距離としてはやや他人行儀なやりとりを交わすものだと感じていたが、自分がいなかった数年間で兄弟仲にも進展があったということだろうか。 「お祝いってーと、何かおめでたいことがあったんだよな。俺もネフリーさんにはお世話になったし、何か贈りたいな」 「おやあ? それは良いことを聞きましたぁ」 ルークが口にしたのは、心を入れ替えた後の彼であれば当然とも思える何気ない台詞だった。しかしそれを聞いた途端、予想していたかのようににやりと歪められた口元が目に入って、ルークは自分がまた彼の手の平の上で転がされていることを察してしまった。 「な、なんだよ」 「実は貴方をお誘いしようと思っていたのですよ、ケテルブルクに」 「は」 「第一子の出産祝いにね」 「はあ!?」 矢継ぎ早に情報を与えられて、衝撃で口が開け放たれる。そんな反応も予想済みだったのか、前方からくつくつと愉快そうに喉を震わせる音が聞こえてくるがそれどころではない。 「祝いの品だけ送ってもよいのですが、折角貴方が来てくれましたから。よければ、妹に会ってやってくれませんか」 「……はー……」 「なんですか。『は』しか言えなくなってしまったのですか。困りましたねえ、貴方にはまだ人間の言葉でご相談したいことがあったのですが」 「今も人間の言葉だっつーの!」 わざとらしく額を押さえてやれやれと首を振るジェイドにつられて、まんまと身を乗り出して突っ込みを入れてしまった。 自然、近くなった端正な顔に埋め込まれたレンズ越しの瞳。それは思ったより優しい色を湛えていて、しばし眺めていると自分の心も凪いでいくのを感じた。 互いに無言で見つめ合った後、ルークはふいに身をひいて椅子に座り直した。ジェイドのほうも、何事もなかったかのように済ました顔でカチャリと眼鏡を軽く押し上げただけだった。 「俺が会うことがネフリーさんにとってのお祝いになるんなら、もちろん行くよ。……ジェイドの甥か姪ってことだよな。子供にも会いたいし」 「血は繋がっているとはいえ、あのネフリーの子ですからね。私より可愛いことは保証しますよ」 「はは、なんだそれ」
「みゅー!」 柔らかくなった空気を跳ね飛ばすような、甲高い鳴き声が横から聞こえた。 見ると、水色の小動物が大きな耳を振りながら例の花束に顔を突っ込んでいる。ジェイドの手から逃れていたミュウは、机の端に追いやられた鮮やかなそれに興味を引かれていたらしい。 「綺麗でしょう、それ。まあ、花屋に適当に選んでもらったものに金を払っただけですけど」 笑顔を保ったままミュウのおしりを鷲掴んで花から引っ張り出すジェイド。ミュウはといえばこの程度の扱いで今更動揺するはずもなく、うっとりと目を閉じたままぷらんと吊られて空中で逆さまになった。 「きれいですの! それになんだか、不思議なかんじがするですの〜」 「不思議なかんじ?」 青い手からその体を受け取りながらルークが尋ねると、ミュウは手の上で胸を張ってみせた。 「ボクには分かるですの! 透明な布が、お花さんたちを守るみたいに、ふわわーってかかってるんですの」 「はあ?」 「ほう、なかなか良い線いってますよ」 ミュウの精一杯の拙い表現はルークにはさっぱり分からなかったが、ジェイドには心当たりがあるらしい。隠すほどのことでもないのだろう、疑問を浮かべて顔を向けると「ちょっと特殊な技術が施されていましてね」とあっさり説明してくれた。 「特殊な技術? 譜術か?」 「微少の音素を利用してはいますが、厳密には譜術ではありません。簡単にいうと、花を長持ちさせるための加工ですよ」 「すごいですの!」 「へえ、そりゃいいな」 ルークの頭の中に、バチカルの屋敷に飾ってあった瑞々しい花たちの姿が浮かんだ。王族のために捧げられる花々はいつ見ても美しく保たれていたが、今のルークはそれがメイドたちが日々手入れや交換をしていたおかげだと知っている。美しくいられる時間の少ない花の寿命を延ばせるのは、とても良いことだと思った。 しかし、技術に関することではなく、そのために必要な材料について、ふと、気にかかることがあった。 「……今、音素ってどんな感じなのかな」 この世界に溢れている力の源。かつての自分たちの行動によって変化したはずのそれについて、ルークはまだ把握していなかった。 「どんな感じ、とはまた抽象的な質問ですが……そうですね。プラネットストームが停止し、音素の量は予測通り極端に減少しました。その後は緩やかに右肩下がりを続けています」 「譜術も使えなくなるんだよな。あ、でもさっきタービュランスぶっ放してたか」 「元の総量が多いですから。そうすぐ使えなくなりはしませんよ」 そう前置きをしてから、ジェイドは「ただ……」と言葉を続けた。 「音素や譜術に頼らない新たな技術の開発は、今後の世界共通の課題です。これも、そのための第一歩、実証実験と言えるでしょう」 「みゅっ」 これも、のところで彼の手が軽く花束に触れる。その動きにつられて顔を傾けたミュウがバランスを崩し、リングが机に当たって硬質な音を立てた。 「……ジェイドさ、頑張ってるんだな」 「何ですか、急に」 「んーん。誇らしいなって思っただけ」 「まるで私の身内であるかのような発言ですね」 「身内だろ」 「どうでしょうか」 この期に及んでつれない返答だ。話は終わりだと言わんばかりに花束を持って立ち上がった長身を見上げる。 「理解できましたね? さあ、早くケテルブルク行きの準備をしてください」 「ちょ、ちょっと待てよ、いつ行くんだ?」 「今晩です」 「今晩!?」 「ご主人様とのお出かけ、楽しみですのー!」 能天気なミュウの声が、やけに長くルークの脳内に響いた。
ブロマンス気味です。入れてみたかったので表紙絵含め挿絵が4枚(ルークの服はEDを参考にしたそれっぽいもの)、最後にミュウ視点のクリームパフェ話があります。
彼らにやってほしいことをリストにして夢中で書きました。パフェまで到達できてうれしい……。