活動


2022,08,29, Monday 池田とよひと新知事誕生!!


昨日の香川県知事選挙で「池田とよひと」新知事が誕生しました。『池田新知事、おめでとうございます!!』。
私は牟礼町長時代以来、国土交通省には大変お世話になりました。「道の駅”源平の里むれ”」、「房前公園」、「大町~八栗新道東・国道11号線の歩道拡幅」、「大町交差点歩道橋エレベーター設置」などです。
本省の道路局や都市局へもよく陳情に行きました。おかげで100%、要望を聞いてくださいました。今思い出しても大変残念なのは、道の駅や房前公園の設置に心無い反対をする議員がいたので、道の駅・房前公園に繋がる塩屋海岸の海の駅構想が中断してしまった事です。
池田新知事は国土交通省では道路局長をされていましたので、香川県の未来を見通した発展に繋がる県土づくり・インフラ整備に取り組んで戴きたく考えています。人口減少は日本や本県の大きな課題です。この課題は全国共通です。
魅力ある香川県づくりの為に、香川県議会議員として政策提言をし、その実現に向け最善を尽くさせて戴きます。

2022,08,26, Friday 四国最北端の地・庵治半島の景観


庵治半島・竹居海岸は四国最北端の地です。そこからの達磨朝日の写真には、必ずと言っていいほど船が写っています。それくらい瀬戸内海は世界有数の船が行き交う海です。
また、民の力で庵治半島葛原エリアが整備されつつあると共に、庵治半島からのサンポート高松に入港する客船の姿は雄大です。
庵治半島・城岬公園から屋島へ沈んで行く夕日も、屋島を中心とする備讃瀬戸が昭和9年3月16日に日本初の国立公園に指定されたという先入観があるかもしれませんが素晴らしいです。
是非、庵治半島の景観を堪能されて下さい!!

2022,08,22, Monday 『宿題をやらなかった夏休み』齋藤健元農林水産大臣


日露戦争の最終決戦となった奉天の会戦において、日本はナポレオンに勝利したロシア陸軍に対し、世界の誰もが予想しなかった奇跡的な勝利を収めた。ここに明治維新以来必死に積み上げて来た改革の成果を見るわけですが、そこには、実に周到に準備された総合的な戦略構想が確かに見て取れる。
海軍と陸軍の統合的運用、情報重視の戦術発想、機関銃や下瀬火薬や電信に見られるような世界最高水準の武器へのこだわり、ロシア政府を後方からかく乱するための明石元二郎大佐の革命支援活動、開戦当初から終戦を意識してのアメリカ大統領への働きかけ、国際市場での多額の戦費調達、枚挙にいとまがない。
これがつい30数年前までマゲを結っていた民族なのか。往時のことを思うと深い感慨にふけざるをえない。
一方、ソ連と戦ったノモンハン事件。その惨状は涙なくしては語れない。そこにあるのは、同じ相手国に変わり果てた日本陸軍の姿であった。
日本社会は変容していた。だが、奉天の会戦(1905年)からノモンハン事件(1939年)まで、わずか34年でしかない。
平成の30年間が終り、令和の時代が動き始めた。改めて平成を振り返って
みると、災害が多い時代ではあったが、明治、大正、昭和に比べ比較的平穏な時代だったという感想が大方のところではないか。なぜか。それは宿題をやらなかった夏休みではなかったのか。間違いなく我々は、多くの宿題を令和の時代に残した。隣の国はせっせと宿題をこなしていたのに。これらの宿題をどこまでこなすことができるかで、これからの30年は決まる。
それから、早や四年が経とうとしています!!

2022,08,16, Tuesday 平和の尊さ:最近知った悲劇の史実


戦後77年が経ちました。私は最近、二つの女学生や少年が犠牲になった悲惨な史実を知りました。
一つ目は、終戦直前の昭和20年8月2日、海軍予科練生を乗せた木造船「住吉丸」が鳴門海峡で米軍艦載機の機銃掃射に遭い、全国から集まった82名の14歳から19歳の若者が犠牲になりました。米軍の侵攻を想定し、淡路島西南部に砲台を造るため、「宝塚海軍航空隊・甲種飛行予科練生」ら111人が徳島県撫養から淡路島の阿那賀に向かっている最中、111名中82名が犠牲になりました。
二つ目は、昭和20年8月5日、今治市が三度目の空襲に遭い、学徒動員で工場で働いていた松山城北高等女学校の生徒22名と松山高等女学校の生徒2名の合せて24名が米軍にによる機銃掃射で犠牲になりました。
終戦後77年が経った今、改めて戦争の悲惨さをしみじみと感じさせらる悲劇、悲惨な歴史です。
私は10数年前、東京原宿の東郷神社を参拝しての帰路、境内の一角にある石碑に出会いました。「海軍特年兵の碑」で、14歳の少年から志願者を採用した海軍特別年少兵(通称特年兵)は、少年兵より2歳も若かった。その数、昭和17年の一期生3200名、二期生4000名、三・四期生各5000名、終戦までに1万7200名に及びました。横須賀、呉、佐世保、舞鶴の四鎮守府で配属され活躍したものの、幼いが故に犠牲者も多く、5000名余が短い生命を散らしました。
今、ウクライナがロシアに侵攻され、多くの子供、若者、女性を含むウクライナの方々が犠牲になっています。今こそ日本も、真剣に国民の生命と財産、そして日本国の安全を守り抜くために真剣に考えかつ行動に移す時が来ていると思います。
香川県議会議員として頑張らせて戴きます。


2022,08,11, Thursday 尖閣列島の史実‥


尖閣列島は日本固有の領土です。
明治政府は1885年から1895年にかけて尖閣諸島の領有調査を実施し、隣国の清国など、いずれの国にも属していない事を慎重に確認した上で閣議決定し、1895年1月、日本の領土に編入しました。翌年、福岡県出身の古賀辰四郎に無償貸与し、古賀辰四郎はアホウドリの羽毛の採取や鰹節の製造等を行い、最盛期には248人の日本人が暮らしていました。
また、1919〈大正8〉年、中国・福建省の漁船が暴風雨に遭遇、魚釣島に漂着し座礁、31名の乗組員は古賀善次他魚釣島で働いていた日本人に全員救助され、手厚い保護の後。石垣島に送られ台湾経由で故郷の福建省に無事帰還できました。その感謝状が在長崎領事より贈られ、その感謝状には、海難発生場所として、『日本帝国沖縄懸八重山郡尖閣列島』と記されています。
1961年に中国人民解放軍海軍司令部が作成した「太平洋海図集」や1969年に国家測絵総局が作成した地図にも「尖閣群島」「魚釣島」と明記されています。
以上のような史実から、尖閣列島は日本固有の領土だと考えますが、1968年、国連・アジア極東経済委員会が東シナ海で海洋調査を行い、尖閣列島周辺海域には、世界第2位のイラク並の1000億バーレルを超す石油埋蔵量があるとの評価以降、中国は尖閣列島を自国領土と主張しています。
このような事から、日本は今後、正しく誇れる歴史教育の実施と積極的な水素技術の開発と活用に邁進すべきと考えます。