ブタ箱行きまで泣かないで
平日の夕暮れ時。
信号のない小さな交差点の真ん中で、俺はただハンドルを握っていた。
人をはねた。
何秒か放心してようやくその事実に気付いた。
飛び出してきた若い男。けたたましいブレーキ音。車体から伝わってきた衝撃。思い返されるそのおぞましい感覚は、紛れもなく現実のものだった。
取り返しの付かない事をしてしまった。なんて謝罪すればいい? 会社はクビになる。賠償金なんて払えない。周りに人はいないようだ。逃げてしまおうか。いや、すぐにばれて捕まる。罪を重ねても泥沼にはまるだけだ。
俺はトラックから降りてはねてしまった男に近づいた。しゃがみこんでよく見てみたがピクリとも動かない。やはり死んでしまっているのだろうか。脈拍を調べようかと思ったが、触れるのが怖かった。
まずは救急車両を呼ぶべきだ。そう思った俺は携帯電話を取り出した。そのとき、
「この人は私が預かるわ」
突然の声に驚いて首を向けると、俺の隣に一人の女性が立っていた。
先ほどまで誰もいなかったはずなのに、確かにそこにいる。気が動転していて気づかなかったのだろうか。思考が疑問の言葉をつむぐよりも前に、その女性ははねられた男の肩にそっと手を置いた。
「騒ぎにしたくないから、黙っておいてね」
落ち着いた口調でそう言い残した女性は、はねられた男と共にふっと消えてしまった。
携帯電話を握り締めたまま、俺は状況を飲み込もうと必死だった。人が消えた? そんな馬鹿な。疲労で幻覚でも見たのだろうか。いや、それにしてはあの男を轢いた時の衝撃はえらく生々しかったし、今でも感覚が残っている。でも、もし実際には轢いていなかったのならそれは願ってもない話だ。それとも……?
結局なにもわからなかったが、とりあえず、今の精神状態で運転を続けるのは危険なように思えた。
トラックを道路の脇に移動させてから俺は会社に連絡を入れた。自分が見たものはすべて幻想だったという希望を捨て切れなかったので、人をはねたとは言わなかった。代わりに、心労で運転が困難になったこと、休憩したいので帰りが遅くなることを告げた。かなり嫌がられたが、事故を起こすよりましということでなんとか話をつけてもらった。
疲労が溜まっているのは事実だった。連日の長時間労働で睡眠もろくに取れていない。
俺は座席に深く腰をかけて目を閉じた。今の俺には休息が必要だ。
「ちゃんと黙っててくれたのね」
突然の声に再び驚く。あわてて目をやると、助手席に先ほどの女性が座っていた。
いよいよもって超常現象だったが、今度は考えるより先に口が動いた。
「あなたは、いったい……?」
「私は彼を転生させていたのよ」
およそ理解の及ばない返答が返ってきたのだが、俺はこのとき初めて彼女の容姿をしかと見た。長くつややかなブロンドの髪と、きめ細かい絹のような白い肌。顔立ちは巨匠の描く美人画のように完成された造形だったが、蒼い大きな瞳には若干のあどけなさも見て取れた。
その現実離れした美貌に動転しつつ、俺は何から聞けばいいか考えていた。のだが、
「それにしてもあなた、ずいぶん上手にはねたわね」
「は?」
「無駄に苦しまないようにちゃんと即死にしているし、それでいて出血も少ない。パニックになってトラックを周りにぶつけたりもしていないし、初めてでこれだけできるならかなり有望よ」
眩暈のしそうな発言だったが、それでも確認しないわけにはいかなかった。
「えっと、あの男の人はやっぱり、俺がはねて死んでしまったのでしょうか?」
「ええ。でもそんなに気に病まなくても大丈夫よ。彼はもうこの世界にいないことになってるから警察沙汰になることもないし。それになにより、彼は自分から望んで事故にあって、今はもう別の世界で第二の人生を送っているのよ」
その後も彼女と会話を続け、ようやく話がわかってきた。
まず俺が生きているこの世界の外には、それと似たような全く別の世界が存在するらしい。
彼女は、事故で死んでしまった人間をそういった異世界に送り届けて転生させている、神様のような存在だということだ。この時点で眉唾物だが、さっきの男が消える現象はまさにその瞬間だったということらしい。
そして俺がはねたあの男は、現実から逃げ転生したいが故に自分から事故に遭おうとしていて、彼女はそれを手引きしていたようだ。
話の辻褄は合っているようだった。だが、そんな自分勝手な行動のせいで、俺は人を殺すという胸糞悪い経験をしてしまった。俺はそのことを抗議したのだが、彼女には俺の憤りがいまいち理解できないみたいだった。あの男は引きこもりのニートで、死んでも何の問題もないから罪悪感を抱く必要はないということだった。納得いかなかったが、この女性はさらにこんなことを言ってきた。
「私と一緒に、ニートを転生させるバイトをしてみない?」
いつの間にか突飛な発言に慣れ始めている自分に気づく。女性はさらに続けた。
「実は、今月中に異世界に送らなきゃいけない人数が決まってるんだけど、ちょっと達成できなさそうなのよ。トラックが人をはねる死亡事故って意外と少ないし。特に、今回みたいに目撃者がいないっていうのは相当珍しいの。そこで相談なんだけど、あなたのトラックで私が用意した転生志望者を轢いて回ってくれないかしら? もちろんあなたに法的責任がかからないようにするし、相応の謝礼も支払うわ」
淡々と語られたが、それはつまり人殺しの依頼だった。人の命を奪って金が手に入るという異常な提案に、理屈よりもまず不快感を抱いた。つい先ほど男をはねてしまった時のことを思い返して気分が悪くなり、視線を窓の外に逸らした。気付けばあたりが暗くなってきていた。
「まずは今回の分を渡しておくわ」
彼女はいつの間にか手に持っていた黒いアタッシェケースを俺に渡した。
今回の分。その中身を察した俺はあわてて座席を後ろに下げ、膝の上でケースを開けた。
そこには、帯が付いてきれいに端のそろった真新しい札束がいくつも積み立てられていた。身に余る大金を目の前にして、俺は自分がよほど金に飢えていたということを自覚した。
老朽化した小さなアパートで二人暮らし。家計を切り詰めた生活。同棲中の恋人は仕事をやめさせられそうだと時折泣いていて、俺は低賃金労働の現状を脱する手段を持たなかった。
「引き受けてくれるなら、それは頭金として今すぐあなたのものにしていいわ。それでもしあなたが手伝ってくれて、月末までにノルマが果たせたら……」
そして、成功報酬として俺に提示された金額はさらに現実離れしたものだった。俺の生涯収入では、いや、もっと良い職に就いてるやつが一生働いても、この金額には達しないだろう。
これは好機だ。本来なら俺には訪れるはずのない、偶然と神様が与えてくれた好機。
人を殺すという生理的嫌悪さえ飲み込んでしまえば、あらゆる条件が俺を後押ししている。
罪に問われない。轢くのはあくまで自殺志望者。大金が手に入る。
ここまでお膳立てされたのならば、俺は悪魔に、いや、この美しい女神に魂を売ってやろうと思う。
「わかりました。引き受けさせてください」
「ありがとう。それじゃあ明日から早速お願いするわね」
そう言って彼女は俺に微笑んだ。その優雅で儚げな笑顔は、これまでに幾多の人間を欺いてきた魔性の笑みにも見えたが、俺はあえて気が付かなかったことにした。