寛永20年に久貝氏が細谷善兵衛に津田山中の広野を開拓させたが、そこには藤坂村民の隠田23町余が存在することが発覚し、久貝氏はそれを召し上げて、藤坂には榊宇治街道付近から上10町余を与え、細谷善兵衛に従って新開のために集まった10余人には榊宇治街道から下10町余を与えた。(続く
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返信先: さん
後者が福岡村であり、長尾の草分けとされる。その後正保4年には宇治街道より上にある藤坂田の耕作者からも福岡領と同様に貢進させることになったので、福岡村の村高は130石余となった。(続く
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そして慶安元年には藤坂から藤坂田の耕作者が一時に10軒の集団移住を行い、その後も藤坂から移る家が多く、これらの人々は榊の西から八幡道に沿ったところに集落を形成したが、それを藤坂新田と言った。
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このような内容のことが片山長三『長尾史』13~14頁に書かれている。だから「藤坂新田」は長尾村の一集落なのだが、『大阪府全志』は津田新田福岡について「一名藤坂新田とせり」と書いている。したがって「津田の新田」=「藤坂新田」=福岡村(長尾村)の一集落、ということになる。
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