そうなると、貝原好古や「本朝学原浪華鈔」は長尾村、つまり現在の伝王仁墓とは違う場所に王仁の墓があったと主張しているわけで、彼らの説は忘れられてしまったということになる。「津田の新田」が長尾なら、これらの説を「伝王仁墓」の伝承の根拠とすることはできない。
引用ツイート
いいぬま まさゆき
@historian_chop
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「正保郷帳」の写しとされる「河内国一国村高扣帳」や延宝7年頃の状況を示すとされる「河内国中支配所料物高輯籙」には、福岡村あるいは長尾村は記載されていないので、元禄年間になっても長尾村が「津田の新田」と呼ばれていた可能性はある。