クライムは今日は久方ぶりの非番だった。
しかし特にやりたいことはない。
本当なら休みなど返上してラナーの側に仕えるか、剣の稽古に時間を使いたいところだが、それは戦士として不健康だとガガーランに言われた為、今日はあてもなく街を練り歩いている。
気を張らなかったり体に緊張がない日を作ることもまた、強い戦士になるには必要なのだと諭された。心身を休めることもまた、修練の一つなのだと。
(……しかし、もどかしい)
そうしてあてもなく歩いてると、心の中を暗澹とした靄が支配するばかりで、気が休まる気がしない。
クライムは自分が剣才がある人間だとは思っていない。だからこそ、逸る気持ちが奥底で燻ってしまう。こうしている間にも才能のある人間に水をあけられるのではないか、ラナーを守護する戦士として体を休める暇などあるのだろうか、と。
自分の弱さが露見すれば、ラナーの側仕えの任を解かれる可能性だってある。クライムはそのことが気掛かりで、内心に慢性的な焦りを感じていた。
(いや、俺がそんなことを考えたところでどうなる……ガガーラン様が仰ったことこそ信じるべきだろう)
自然と拳が強く握られていた。
クライムはそれに気が付くと、ゆっくりとそれを解いた。
心身を休める日だというのに、こう思い詰めては本末転倒だ。クライムは深く深呼吸を始めたところで──
(……なんだ?)
──遠くで、ただごとではない喧噪の音が聞こえてきた。祭りの時期ではない。何かを囃し立てるような声。これは彼の経験から考えるに……。
(喧嘩か)
クライムは表情をキリと引き締めると、駆けだした。
今日は非番とはいえ、王国に仕える兵士として市民の平穏を妨げる様な行為を見てみぬフリなどできない。クライムの顔は、すっかり兵士らしい精悍な表情へ変わっていた。
駆ける。
角を曲がる。
人だかり。大勢の人間の声。ただならぬ熱量。
クライムはそこへ躊躇なく分け入り、その中心に飛び込もうとして、ハッと足を止めた。
子供が怪我をして倒れている。
それを睨む柄の悪い大勢の男達。
被害者と加害者、そして弱者と強者の関係は、火を見るよりも明らかだった。即座に助けるべきだ。しかしそれらの存在が霞む、圧倒的な存在感を放つ一人の人間がそこにいた。
触れることに畏れを感じてしまう程の見事な漆黒の鎧。穢れ一つ見当たらぬ深紅の外套を揺らして、その戦士は子供を庇う様に男達を睨んでいた。
「なんだてめぇは!」
暴漢の一人が啖呵を切る。
漆黒の戦士はそんな男の胸板に、二本の指をそっと突き立てた。攻撃の意思が認められない自然な仕草に、男は警戒を高めたというよりは、僅かに困惑の色を示している。
クライムにも分からない。
あの戦士が何を考えているのか。
「なんだこの手は。俺に何か文句でもあん──」
次の瞬間。
男は後方に消し飛び、暴漢達のものであろう荷馬車に弾丸の様に突き刺さっていた。遅れて衝撃波の様な空気の揺れが、クライムの鼓膜を叩く。
ワンインチパンチ──発勁と呼ばれる技術に見えて、実はそれをただ真似ただけの馬鹿力なのだが、馬鹿力も度を越せば技となる。クライムには今見たものが、とても高等な技術にさえ見えた。
「失せなさい。私の気が変わらないうちに」
漆黒の兜の下から聞こえた声は、その鎧の厳めしさからは想像もつかぬ程、綺麗なソプラノだった。一瞬、そのギャップの差が激しすぎて、脳のエラーを疑うほどだった。
男達は蜘蛛の子を散らす様に逃げていく。
これだけ力の差を見せつけられて、自分達の危機が分からぬ馬鹿ではなかったということ。情けない悲鳴を上げながら、彼らはどたばたと、脇目も振らずにその場を後にした。
「……お騒がせしました」
やがて静寂を取り戻したその場で戦士がぽつりと、気恥ずかしそうに零すと、周りの群衆は惜しみない拍手を彼女に送った。先程まで緊迫していた空気は弛緩していき、戦士を讃える声で溢れ返った。
「き、君! 大丈夫か!」
演劇の一幕を見ていた様な気さえしていたクライムは慌てて気を取り直すと、怪我をしている少年に駆け寄った。ポケットの中からポーションを取り出し、手早く飲ませてやると、少年の痛みに耐える様な顔がたちまち和らいでいく。
(よかった。大事はなさそうだ……)
見たところ大きな怪我はない。
クライムはホッと胸を撫でおろして、戦士を垣間見た。彼女は大したものだとか、ファンになったとか、いいもん見せてもらったからウチで一杯奢らせれくれだとか、様々な賛辞を送られている。
「いやいや、姉ちゃんあんた大したもんだ! 強ェうえに肝が据わってる!」
「いえ、私は大したことはしていませんよ。『困った人がいたら、助けるのは当たり前』ですからね」
戦士が事もなげにそう言うと、群衆からは「おおー!」と感嘆の声が湧きあがる。クライムも、戦士のその優しさの滲み出た言葉にじんと感銘を受けて──そしてハッとする。
『困った人がいたら、助けるのは当たり前』……これは確か、エ・ランテルで新たに誕生したというアダマンタイト級冒険者・モモンの信条だ。
(ならばこの人こそが……)
胸が熱くなる。
首には何故かアダマンタイトプレートを提げていないのだが、あの見事な鎧とグレートソードを見れば一目瞭然だ。
クライムは群衆を掻き分け、モモンの前に立つと深々と頭を下げた。
「……あなたは?」
きょとんとしているモモンに、クライムはきびきびとした動きで頭を上げる。
「私はクライムと申しまして、この国の兵士をしている者です。本来ならば私が解決しなくてはならないことを治めてくださり、ありがとうございました!」
「……なるほど。いえ、礼には及びませんよ。私はたまたま通りがかったところに運悪く──ゴホン、運良く立ち会えただけですからね」
「ありがとうございます……! それより貴女はかの英雄、『黒姫』のモモン様だとお見受けしますが……」
「ええ。私がモモンです。よくご存じで」
クライムの言葉に、周りからは更にひと際大きな声が跳ね上がる。戦士──モモンに向ける憧れの視線も、一層に強く増したように思えた。モモンといえば王都より遠く離れたエ・ランテルの英雄。王都に来ていたとは、誰にとっても寝耳に水だ。
「モモン様の素晴らしい英雄譚はかねがね聞いておりました。お会いできて光栄です。しかし冒険者プレートを着けていらっしゃらないようですが……」
「え? ああ。これは何というか、休みの日まで社員証をぶらさげているのは少し窮屈に思いまして」
「シ、シャインシヨ……?」
「……あっ、えーと、ゴホン。そうですね……これは自分で決めた休日くらいはアダマンタイト級冒険者であることを忘れたいという、私なりの心の休め方なんです。ほら、あのプレートをさげてたらどこに行ってもそういった目を向けられるでしょう」
「な、なるほど……!」
休みの日は自分の立場をすら片隅に置き、心を休める。
これは奇しくもガガーランがクライムに諭したことと全く以て同じだった。やはりアダマンタイト級に上り詰める人間はそういった精神ケアにも気を配るのは当然なのかと、クライムは改めて尊敬の念を抱く。休日に悶々と兵士としての職務を考えている自分はやはりまだ二流……いや、三流なのだと、彼は羞恥心すら感じた。
「それでは申し訳ないですが、私はもう行かせていただきます。その子のことは任せましたよ。これ以上ここに長居していると、ここらへんの住人の迷惑になりそうですからね」
モモンはそう言って、ちらりと野次馬を見やった。
群衆は今もガヤガヤと騒いでおり、確かにモモンはここに留まるべきではないと、クライムも思う。しかし彼は、背を向けたモモンに縋る様に声を掛けた。
「お、お待ちくださいモモン様!」
「……まだ何か?」
ゆっくりと振り返る彼女に、クライムは小さく唾を飲み込んだ。彼の記憶では、確か明日はロ・レンテ城でラナーと『蒼の薔薇』の最終調整に向けた会談が執り行われるはず。
偶然にもこの英雄と出会えたというのに、みすみすその好機をふいにするのは愚かだ。ラナーだって恐らくそうするだろう。クライムは静かに、モモンに申し出た。
「……もしよろしければ明日、お時間を割いていただくことは可能でしょうか」
モモンは何も言わずにクライムを見ている。
兜の下でどのような顔をしているのかは分からないが、クライムの言葉の続きを待っているのだろうということだけは窺い知れる。彼は間を置かず、本命の願いを口に出した。
「是非、モモン様に会っていただきたい方……いえ、方々がおられるのです」