昭和の男社会を「溢れるしずく」を武器に、その身ひとつで生き抜いたストリッパーの本格評伝『踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代』。普通の生活がしたいと願うも、周囲はそれを許さず、本人もまた酒と嘘と男に溺れていく。
人間が持つ美点と欠点を、すべて曝け出しながら駆け抜けた彼女の生涯を描いた『踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代』より特別掲載。
服役後の一条さゆり
公然わいせつの罪で服役した一条は出所後、大阪市北区内でスナックやクラブを経営し、成功する。しかし、それも長くは続かない。酒癖の悪さから、最初はどっと来る客も次第に足が遠のいた。
そして流れ着いた先が、大阪・西成の釜ケ崎だった。行政やマスコミはここを「あいりん地区(地域)」と呼ぶことが多い。
ここでは、安く労働力を調達しようとする企業、暴力手配師や、労働者を犯罪者予備軍とみる行政、警察といった組織と労働者との衝突が続いてきた。
1961(昭和36)年8月の第1次釜ケ崎暴動以来、2008年までに24回、暴動が発生している。その半数以上の13回は70年暮れから73年6月までの3年半の間に集中している。一条がストリッパーとして頂点にのぼり、逮捕され被告人の立場にあった時代である。
大阪府、大阪市、大阪府警がつくる釜ケ崎対策の「三者連絡協議会」は66年5月、釜ケ崎の統一呼称として「あいりん地域」を使うことを決めた。行政や警察は釜ケ崎のイメージ・アップとともに、民生行政の充実、犯罪取り締まりと防止の徹底などをこの新呼称に託した。
70年の大阪万博開催のために労働者がさらに大量に釜ケ崎へ流れ込んだ。東京の山谷、横浜・寿町など日雇い労働者が集まる街は全国に点在する。しかし、その人口が1万人を超えるほど大きな街はない。釜ケ崎は間違いなく日本最大のドヤ街だ。
一条は87年6月からしばらく、釜ケ崎でスナックや立ち飲み屋を開くが、どれも長続きせず、自分が店を切り盛りするのは無理だと悟る。
88年7月1日に知人が釜ケ崎で居酒屋「時ちゃん」を開くと、一条はこの店で働きはじめた。日給は8000円。店の前には、以前の店名「酔いどれ」の看板がそのままかかっていた。
経営の才がないことを自覚し、雇われる立場に戻った。それなのに出勤時(午後6時)、一条はすでに酒を飲んでおり、店でウイスキーのボトルを空けることも珍しくない。あまりの乱れ方に7月中旬、経営者であるママから「出勤停止3日」を言い渡されている。
一条は釜ケ崎・三角公園近くの日払いアパートを転々とした。とび職の橋本輝男と一緒に、「ウイクリーフライデー松村館」504号室に入ったのは、「時ちゃん」に勤めはじめてすぐだった。部屋は6畳1間で家賃は1日1400円である。保証金の1万円と10日分の家賃1万4000円は橋本が支払った。
日雇い労働者と一口に言っても、生活の仕方はさまざまだ。手に職を持つコンクリートの型枠職人などは日に3万円ほども稼ぎ、多くは妻と一緒にアパートに住んでいる。
一方、何も技能を持たない者は、身体を酷使して土木作業に就いても、日給数千円にしかならない。こういう男たちはドヤでその日その日を過ごすしかない。一条が付き合う男は、なぜかこうした手に職のない男たちばかりだった。
栃木県真岡市出身の橋本は一条の3つ下。坊主頭で、みんなから「たけ」と呼ばれていた。彼と暮らしはじめた一条は3日後、1人で406号室に移り、自分で家賃を先払いした。
「たけ」もまた、酒が入ると自分を見失う。2人がたびたび言い争う声を近所の人が聞き、松村館に苦情が来ていた。「たけ」が一条の部屋の扉をがんがん叩いて大喧嘩となったこともある。「時ちゃん」のママから一条は、「たけちゃんはあんたにほれている。無茶するときがあるから、気を付けなあかんよ」と忠告された。彼女は「もう2人の関係は終わりや」と知人に語っていた。