昭和の男社会を「溢れるしずく」を武器に、その身ひとつで生き抜いたストリッパーの本格評伝『踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代』。普通の生活がしたいと願うも、周囲はそれを許さず、本人もまた酒と嘘と男に溺れていく。
人間が持つ美点と欠点を、すべて曝け出しながら駆け抜けた彼女の生涯を描いた『踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代』より特別掲載。
公然わいせつの罪で起訴
公然わいせつを巡る訴訟では、たびたび作家や映画製作者などが証人になってきた。何をわいせつと考えるか。この基準を権力側が決定するのは、「表現の自由」の侵害に当たると、文化人たちが考えたからだ。
永井荷風作『四畳半襖の下張り』訴訟では、丸谷才一が被告(野坂昭如ら)の特別弁護人になり、証人には五木寛之、井上ひさし、吉行淳之介、開高健、有吉佐和子といった豪華な名前が並んだ。
一条の公判でも、作家の田中小実昌らが証人になっている。しかし、彼女の裁判を特徴付けたのは、女性たちによる支援だった。
その中心にいたのは、学生運動から女性の権利擁護に活動の幅を広げていた深江誠子である。彼女はこの裁判をきっかけに個人的にも一条と交流を深め、72年からの数年間、一条に最も頼りにされた女性だった。
1944年に生まれた深江は大阪府立三国ケ丘高校1年のとき、安保闘争のデモに参加した。高校を卒業後、大手化学系企業に就職し、労働組合青年婦人部で活動する。そこで自分が社会の仕組みを知らないと気付き、立命館大学に入学している。
その後、京都大学大学院に進んだころ、学生たちのなかでウーマンリブ運動が盛り上がっていた。当時の気持ちを深江は、論壇誌『現代の理論』(1985年5月号)で、こう表現している。
〈私はうれしかった。だけどそのリブの思想だけでは、自分の苦しみは解けそうになかった。(中略)性は私にとって強制となり苦痛なものとなっていった。私は、そんな自分の性を、むしろ売春婦の性に重ねて考えるようになり、売春婦に関する本を読み漁り、リブの運動とは別の、独自な運動をつくり始めた。私は女の性をまるごと抱え込んで生きている、水商売に働く女たちにつながることで、自分の性のありようを見きわめたいと思ったのである〉
ウーマンリブ運動は60年代の米国で始まった。ベトナム反戦や黒人たちによる公民権運動の高まりが女性を目覚めさせた。その動きは日本にも広まり、70年10月21日の国際反戦デーには、女性解放街頭デモがあった。
これをきっかけに、日本のウーマンリブ運動は一気に加速していく。女性たちの自由を求める声は急速に大きくなり、翌年の夏には「リブ合宿」が開催され、全国から女性たちが集まった。
そんななか、不幸にも多くの女性が犠牲になる事件が起きる。72年5月に発生した大阪ミナミの千日デパート火災である。犠牲者118人の多くは、デパート7階で営業していたキャバレー「プレイタウン」のホステスだった。
深江が調べてみると、犠牲者には在日韓国・朝鮮人や同和地区出身者が多く、赤ん坊を抱えて働くシングルマザーも少なくなかった。
「キャバレーには、社会に踏んづけられて生きている女性がたくさんいて、踏んづけているほうは、その痛みに気付かない。そんな社会はおかしい。なんとか変えたい」
そう考えた深江はホステスの遺族を支援しているとき、一条の裁判を知った。
「彼女も踏んづけられている女性の1人ではないか」
そう思った深江が電話で会いたいと伝えると、一条はわざわざ京都までやってきた。深江は一緒に活動していた友人と2人で一条に会った。京都駅近くの喫茶店で語り合うと、時間はあっという間に過ぎ、気が付くと2時間も話し込んでいた。深江は一条から、優しく包み込むような温かさを感じた。すぐにファンになって彼女の支援を決める。