昭和の男社会を「溢れるしずく」を武器に、その身ひとつで生き抜いたストリッパーの本格評伝『踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代』。普通の生活がしたいと願うも、周囲はそれを許さず、本人もまた酒と嘘と男に溺れていく。
人間が持つ美点と欠点を、すべて曝け出しながら駆け抜けた彼女の生涯を描いた『踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代』より特別掲載。
『仁義なき戦い』成功の陰に1人のストリッパー
『仁義なき戦い』はヤクザ映画の傑作である。この映画の成功の陰に1人のストリッパーがいた。おそらく本人は生涯、それを知らなかった。
そのストリッパーは一条さゆり(初代)である。1960年代から70年代初めにかけ、ストリップの世界で頂点に立ち、劇場関係者からは、「彼女1人でレスビアンショー5組をしのぐ客集めが計算できる」とさえいわれた。
傑作映画との関係はこうである。
『仁義なき戦い』は飯干晃一が広島を舞台に書いた実話が基になっている。週刊誌でこのノンフィクションの連載が始まったのが1972(昭和47)年5月。一条が引退公演(72年5月1~10日の予定)中に公然わいせつ容疑で逮捕された直後だった。
米マフィア映画『ゴッドファーザー』がその年の7月に日本でヒットした。反社会的組織を扱った映画は当たると考えた東映は『仁義なき戦い』の映画化を決める。
脚本を担当したのは笠原和夫だった。エネルギッシュで生々しく、残酷でいてどこか浮世離れした映画に、彼は仕上げたかった。ヤクザの抗争現場である広島まで足を運び、関係者にインタビューを済ませた。材料はそろった。あとはそれをどう料理するかだった。
そこで笠原は脚本作りに行き詰まる。悩んでいたとき偶然、日活ロマンポルノ『一条さゆり 濡れた欲情』を見て、この手法で映画ができると確信した。「固唾をのむ暇もないほど迫力があった。一条さゆりはわたしを幸運に導いてくれた女神」と笠原は述懐している。
映画は正月映画第2弾として73年1月13日、封切られ、大ヒットする。
スタジオジブリのプロデューサー、鈴木敏夫も笠原同様、『一条さゆり 濡れた欲情』に感動した1人である。
大手出版社、徳間書店に就職した72年秋、鈴木は新橋の映画館でこの映画をみた。公然わいせつ罪で起訴された一条が、裁判中に出演した映画と知り、興味を持っていた。
「ポルノを売りにしていたんですが、ちゃんとした映画でびっくりした。お芝居とドキュメンタリーをドッキングさせた構成で、映像が実に生々しかった印象があります」
この映画が頭にあったのだろう。鈴木は3年後、雑誌の正月特集に一条を登場させ、その後、彼女が大阪に開いた店を訪ねるなど交流している。
一条は1937(昭和12)年、埼玉県川口市の貧しい家庭に生まれた。キャバレーに勤めた後、ストリップ界に入り、陰部を露出する「特出し」と呼ばれる芸で人気を集めた。その絶頂期の引退公演で逮捕、起訴され、最高裁で争った末、実刑判決を受けて服役している。
出所後は大阪でスナックやクラブを経営し、店は一時大繁盛するが、酒、男との不器用な付き合いの末、たどり着いたのが日雇い労働者の街、大阪・西成の「あいりん地区」(通称・釜ケ崎)だった。
そして、釜ケ崎の飲食店に勤めているとき、付き合っていた男に火を付けられて大やけどを負った。1年以上にも及ぶ入院生活の後、働くこともままならず、生活保護を受けながら暮らしていた1997年8月3日、亡くなっている。
今年はこの伝説のストリッパーの引退から50年、逝去から25年の節目に当たる。