昭和の男社会を「溢れるしずく」を武器に、その身ひとつで生き抜いたストリッパーの本格評伝『踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代』。普通の生活がしたいと願うも、周囲はそれを許さず、本人もまた酒と嘘と男に溺れていく。
人間が持つ美点と欠点を、すべて曝け出しながら駆け抜けた彼女の生涯を描いた『踊る菩薩 ストリッパー・一条さゆりとその時代』より特別掲載。
「カウスちゃんはよう知ってるんです」
金融街で知られる大阪・北浜の一角に、スペイン料理の名店エル・ポニエンテはある。土佐堀川の向こうは中之島公園である。
2021年暮れ、私はこの店の窓際テーブル席で中田カウスと向き合っていた。中田ボタンとのコンビで根強い人気を誇る漫才師である。夜になって冷え込みが厳しくなってきた。
カウスはスペイン産ビール「クルスカンポ」を注文すると、店員にグラスをもう1つ頼んだ。運ばれてきた瓶ビールを自分のグラスに注いだ彼は、残りをもう1つのグラスに注ぎ、それを左横の棚に置いた。
「これは一条さんの分です。さあ、今日は一緒にやり(飲み)ましょう」
カウスはこう言って、自分のグラスを顔の辺りまで上げたあと、「一条の」グラスと合わせた。カチンと小さな音が響いた。店内にはフラメンコ音楽が静かに流れている。
「一条さん」とは伝説のストリッパー、一条さゆり(初代)である。
「ちょうどあそこです。一条さんを最後に見たのは」
カウスは窓の向こうを指さした。ライトアップされた大阪市中央公会堂が夜の中洲に浮かんでいる。
「あの公会堂脇の道で、一条さんが汗をかきながらアイスクリームか何かを売っていた。声は掛けられませんでした。もう、亡くなって24年になりますか。今日は供養のつもりで、(取材を)受けたんです」
一条が売っていたのはアイスクリームではない。ストリップの世界で頂点を極めた彼女は引退公演中に公然わいせつの疑いで逮捕され、実刑判決を受けた。その裁判を闘うあいだ、食べていくため自転車でトコロテンを売って歩いていた。
私は晩年の一条と交流を持った。彼女は日雇い労働者の街、大阪・西成の「あいりん地区」(通称・釜ケ崎)で暮らしていた。
踊り子時代の経験について聞いたとき、彼女がこう口にしたことがある。
「中田カウスちゃん、いるでしょう。漫才の。カウスちゃんはよう知ってるんです。若いときから、(漫才が)上手で、工夫する子やったんです」
自分の輝いていたころを懐かしがっているふうだった。売れっ子漫才師を知っていることに誇りを感じているようにも思えた。カウスは当時、漫才で大きな賞を受け、第一人者となっていた。
「カウスちゃんやボタンちゃんとは、舞台が終わってから、ビールを一緒に飲んだり、スキヤキを食べたりもしたんです」
一条は3畳ほどの部屋に暮らしながら、遠い存在となったカウスに複雑な感情も抱いていたのだろう。住む世界がすっかり違ってしまったと自覚していたのか、彼女はそれ以上、カウスについて話さなかった。
私はカウスから、一条について話を聞いてみたいと思った。吉本興業を通して、取材を申し込むと、「たっぷりと時間をとってもらえるなら」と返事があった。スペイン料理店に来る前、吉本興業大阪本社で2時間半、話を聞いていた。
吉本興業本社の会議室のテーブルには、透明のアクリル板が立っていた。新型コロナウイルス感染対策である。カウスはその板の向こうに腰をおろすと、開口一番こう言った。
「(インタビューに応じるのも)ご供養かなと思ってね。時々、ふっと(一条を)思い出すんです」
カウスはこれまでにも、一条についてメディアに語っている。ただ、それはちょっとしたコメントを出す程度だった。彼の一条への思い入れは、私が予想していたよりもはるかに強かった。
「ほんまに世話になりました。極端な話、カウス・ボタンがあるのは一条さんのお陰なんです。それほどの存在です。これまでも何度か、面白おかしく話したことはあるんですが、短い時間では、僕と一条さんの関係は、わかってもらえへんのちゃうかと思ってね。これまでちゃんと説明してこなかったんです」