(社説)共産結党100年 次世代へ党開く変革を
共産党がきのう結党100年を迎えた。戦前から続く唯一の国政政党として、退潮傾向の党勢を立て直し、「次」につなげようというのなら、開かれた党へのさらなる改革が不可欠だ。
ソ連共産党の指導するコミンテルン(共産主義インターナショナル)の日本支部として、1922(大正11)年に創設され、戦前は非合法組織として、厳しい弾圧を受けた。
戦後の民主化によって再出発し、紆余(うよ)曲折を経て、ソ連・中国とは一線を画す自主独立路線を樹立。暴力革命から、国会での多数派形成を通じて政権をめざす平和革命路線に転じた。かつての「本家」ソ連が崩壊し、冷戦が終結した後、欧州では社会民主主義に移行する党もあるなか、共産主義の看板を維持して現在に至る。
60~70年代には、社会党との共闘によって、東京、神奈川、京都などで革新自治体を誕生させた。自民、社会両党が対峙(たいじ)した55年体制の崩壊後も、自民党政権に対する批判票の受け皿として、国政選挙で議席を伸ばす場面もあった。
しかし、異論や少数意見が表に出にくい「民主集中制」という組織原理は閉鎖性を伴う。綱領の改定など、少しずつ現実路線を進めてきたとはいえ、天皇制や自衛隊、日米安保条約など、基本政策の違いから野党間の協力が進まない時期も長かった。党勢の伸長に常に限界をもたらした、この基本構造は今も変わっていない。
安倍政権による安保法制の強行を契機に生まれた、共産党を含む野党共闘は、16、19年の参院選では一定の成果につながったが、昨秋の衆院選で失速。共産党は比例区で11から9議席に後退した。先日の参院選の比例区でも、改選前の5から3議席に減らした。
党員はピークだった90年の50万人から、一昨年は27万人まで減少した。党の地力をつけるには、新しい世代をどう取り込むかがカギになろう。世界を見渡せば、気候危機や格差拡大、ジェンダー問題などに取り組む「ジェネレーション・レフト」といわれる若い世代が台頭している。多様性を重視するこうした層をひきつけるには、誤りを認めない無謬(むびゅう)主義や閉鎖的な体質から脱却する必要がある。
戦後の党の路線を確立した宮本顕治元議長は、97年に一線を退くまで40年近く最高指導者を務めた。現在のトップの志位和夫氏は、不破哲三氏の後を継いで委員長に就任してから20年を超す。他の多くの政党がそうであるように、党の代表は複数の候補者から党員が投票で選ぶ。それができれば、何よりも党を開く改革になるのではないか。