マス類=トラウトはさして美味い魚では
ない。
同族では鮭のほうがはるかに美味だ。
マス族はニジマスにしろ、日本固有の
ヤマメ、アマゴにしろ、イワナにしろ、
全魚種の中で味が高位に属する魚種で
はない。
だが、塩を振っただけの素焼きの鱒が
非常に美味しいことがある。
なぜか。
それは鮮度だろう。
天然魚(国内ではほぼ絶滅)だろうが
養殖魚だろうが、釣りたての鮮度の
マス族はニジマスにしろ、日本固有の
ヤマメ、アマゴにしろ、イワナにしろ、
全魚種の中で味が高位に属する魚種で
はない。
だが、塩を振っただけの素焼きの鱒が
非常に美味しいことがある。
なぜか。
それは鮮度だろう。
天然魚(国内ではほぼ絶滅)だろうが
養殖魚だろうが、釣りたての鮮度の
高い川魚は相当美味い。
血抜きもせずに死体として魚屋で売ら
れている魚などより遙かに美味しい。
それでも、サケマス類の中ではニジマス
などはかなり味が落ちる魚種だ。
しかし、今までいろんな料理方法で
食したニジマスの中で、抜群の物を
20年ほど前に体験した。
それは、釣ったばかりのニジマスの
内臓と血合いを取り、塩をたっぷり
と開いた腹の中と表面に振って、
さらにアルミホイルの塩の山の中
に埋めてホイルで包み、焚き火の
下の土に埋めて何時間もじっくり
と緩やかに焼いただけの鱒だった。
ある番組のために、毎週通っていた
鱒釣り人造湖を持つキャンプ場の
管理人さんが作ったものだ。
撮影キャストやスタッフと共に、私も
食した。
この上ない味だった。
作り方を聞いて珍しい作り方なので
驚いたが、帰宅後調べたらそれが
「隠亡(おんぼう)焼き」という物
だった。
江戸古典落語には、有名な「目黒の
秋刀魚(さんま)」という噺がある。
ある殿様が遠乗りに出かけて空腹を
覚え、立ち寄った村の百姓が焼いた
秋刀魚を所望し、食したら生まれて
初めて食べる絶品の味に驚く、という
噺だ。
大名などは、毒見毒見で冷めて身も
削ぎ落された魚しか口にしたことが
ない。焼きたてのはらわたまである
醤油ぶっかけの秋刀魚の美味さなど
は生涯体験できない。
ところがその殿様は絶品秋刀魚に
カルチャーショックを受ける。
そして、屋敷に戻ってから食方に
秋刀魚を所望する。
銚子沖で獲れたばかりの秋刀魚を
善に出させるが、いつも通り、冷め
て身も削がれて一つも美味くない。
そこで側近に尋ねる。これはどこの
秋刀魚か、と。
すると側近は自慢げに、銚子沖で
獲れたての秋刀魚にござりまする
と言上するが、殿には一蹴される。
「それはいかん。秋刀魚は目黒に
限る」と。
世間知らずの殿様のオハナシとして
の江戸古典落語だ。
その「目黒の秋刀魚」では最近は
放送コードに引っかかるため、原典
とは異なる表現が使われる。
目黒の百姓が焼いていた極上の味の
秋刀魚は、土に丸ごと埋める隠亡焼き
だったのだ。
噺のセリフにもそれは出てくる。
「殿、あれは隠亡焼きと申す下賤が
食す物。殿が御口になさる物では
ござりませぬ」という類の下り。
そもそも、隠亡(おんぼう)という
言葉自体が、を表す言語として
江戸期には使用されていた。
中世以降のもしくは階級を指す
単語は3桁以上ある。医療関係や
出産関係、葬式や埋葬関係、処刑など
はすべてが受け持ってやっており、
その仕事名をそのままその人たちや
階級としての呼称とされていた。
また、時代劇によく出てくる目明し
なども階級だったし、百姓取り
締まりの鎮圧部隊もいわゆる「エタ」
「かわた」たちを組織した部隊を
実行部隊としてあたらせた事実など
は教科書には出てこない。
それどころか、咸臨丸で渡米した
乗組員の水夫であるカコたちは全員
であった事などさえも学校では
教えない。また門付けで祝いをうたう
人たちや歌舞伎役者、芸能人、相撲
興行、祭り縁日の取り仕切り、出版
業者、町火消たちの人々がいわゆる
階級に属する人たちであった事
も教科書では教えない。医者も産婆
も巫女も中世には階級だった。
刀鍛冶もそうだ。
日本の歴史の中で、とされた人
たちが、日本の産業発展と文化形成
にどれほど寄与して来たかを日本の
歴史教育では教えない。
社会的に重要な役割を担ってきた
人々に光をあてて、かつ社会構造の
欠缺を指摘するきちんとした「反
差別」教育をしないのである。
すべて隠蔽してしまう。
そして、すべて権力者のことだけを
なぞって教える。
信長が安土城を作ったのではない。
大工と石工と建築従事者が作った
のだ。
日本の歴史の中で産業から文化まで
屋台骨を支えた階層のこと、現実的
にヒエラルヒー構造と差別の実態が
存在したことは秘匿するのが今の
教育パターンだ。差し障りのない
ように上っ面だけを多少教科書に
記載する程度だ。どれだけ多くの
人々が歴史の中で重要な役目を
果たしてきたかは一切伝えない。
城を作るにしても石垣を成す石を
切るのは誰がやったのか。すべて
階級とされた石工がやった。
武士や殿様や公家が石切をしたの
ではない。ヨイトマケによる地固め
も、土の運搬も建造も、すべて徴用
された農民と専門技術職のいわゆる
たちが担当した。
「隠亡焼き」という言葉は今は放送
コードに引っかかるのだろう。
「八百屋」や「魚屋」も発言しては
いけないとされる時代だ。
隠蔽さえすれば良しとする。
埋葬を担当してくれた人たちの事を
かつては隠亡といった。魚の死体を
土に埋めて焼くから、その調理法は
死者の弔いの方法になぞらえて、
いつしか「隠亡焼き」と呼ばれた。
「隠亡焼き」がダメならば、では何と
呼べばよいのか。「土饅頭焼き」と
しても同じ事だ。土埋め焼き?ピンと
来ない。
差別を助長させるつもりも差別をする
つもりがなくても、言葉だけを消滅させ
れば差別がなくなるとでも?
指弾や糾弾をおそれるあまり、触れるな
触るな見るな言うなの自主規制こそが
差別を真正面から捉えることを放棄
する差別性に基づいた行動なのでは
ないだろうか。差別とは制度であり、
その制度と差別感の伝承に洗脳され
た人が持つ意識性とその意識の物理
的動員による人間排除の行動の事で
あるのに。
そして、決定的である事は、本人の
資質や個性とは一切無縁の本人では
どうにもできない事(生まれの血筋
や出生地や性別や長幼や身体的特徴、
血抜きもせずに死体として魚屋で売ら
れている魚などより遙かに美味しい。
それでも、サケマス類の中ではニジマス
などはかなり味が落ちる魚種だ。
しかし、今までいろんな料理方法で
食したニジマスの中で、抜群の物を
20年ほど前に体験した。
それは、釣ったばかりのニジマスの
内臓と血合いを取り、塩をたっぷり
と開いた腹の中と表面に振って、
さらにアルミホイルの塩の山の中
に埋めてホイルで包み、焚き火の
下の土に埋めて何時間もじっくり
と緩やかに焼いただけの鱒だった。
ある番組のために、毎週通っていた
鱒釣り人造湖を持つキャンプ場の
管理人さんが作ったものだ。
撮影キャストやスタッフと共に、私も
食した。
この上ない味だった。
作り方を聞いて珍しい作り方なので
驚いたが、帰宅後調べたらそれが
「隠亡(おんぼう)焼き」という物
だった。
江戸古典落語には、有名な「目黒の
秋刀魚(さんま)」という噺がある。
ある殿様が遠乗りに出かけて空腹を
覚え、立ち寄った村の百姓が焼いた
秋刀魚を所望し、食したら生まれて
初めて食べる絶品の味に驚く、という
噺だ。
大名などは、毒見毒見で冷めて身も
削ぎ落された魚しか口にしたことが
ない。焼きたてのはらわたまである
醤油ぶっかけの秋刀魚の美味さなど
は生涯体験できない。
ところがその殿様は絶品秋刀魚に
カルチャーショックを受ける。
そして、屋敷に戻ってから食方に
秋刀魚を所望する。
銚子沖で獲れたばかりの秋刀魚を
善に出させるが、いつも通り、冷め
て身も削がれて一つも美味くない。
そこで側近に尋ねる。これはどこの
秋刀魚か、と。
すると側近は自慢げに、銚子沖で
獲れたての秋刀魚にござりまする
と言上するが、殿には一蹴される。
「それはいかん。秋刀魚は目黒に
限る」と。
世間知らずの殿様のオハナシとして
の江戸古典落語だ。
その「目黒の秋刀魚」では最近は
放送コードに引っかかるため、原典
とは異なる表現が使われる。
目黒の百姓が焼いていた極上の味の
秋刀魚は、土に丸ごと埋める隠亡焼き
だったのだ。
噺のセリフにもそれは出てくる。
「殿、あれは隠亡焼きと申す下賤が
食す物。殿が御口になさる物では
ござりませぬ」という類の下り。
そもそも、隠亡(おんぼう)という
言葉自体が、を表す言語として
江戸期には使用されていた。
中世以降のもしくは階級を指す
単語は3桁以上ある。医療関係や
出産関係、葬式や埋葬関係、処刑など
はすべてが受け持ってやっており、
その仕事名をそのままその人たちや
階級としての呼称とされていた。
また、時代劇によく出てくる目明し
なども階級だったし、百姓取り
締まりの鎮圧部隊もいわゆる「エタ」
「かわた」たちを組織した部隊を
実行部隊としてあたらせた事実など
は教科書には出てこない。
それどころか、咸臨丸で渡米した
乗組員の水夫であるカコたちは全員
であった事などさえも学校では
教えない。また門付けで祝いをうたう
人たちや歌舞伎役者、芸能人、相撲
興行、祭り縁日の取り仕切り、出版
業者、町火消たちの人々がいわゆる
階級に属する人たちであった事
も教科書では教えない。医者も産婆
も巫女も中世には階級だった。
刀鍛冶もそうだ。
日本の歴史の中で、とされた人
たちが、日本の産業発展と文化形成
にどれほど寄与して来たかを日本の
歴史教育では教えない。
社会的に重要な役割を担ってきた
人々に光をあてて、かつ社会構造の
欠缺を指摘するきちんとした「反
差別」教育をしないのである。
すべて隠蔽してしまう。
そして、すべて権力者のことだけを
なぞって教える。
信長が安土城を作ったのではない。
大工と石工と建築従事者が作った
のだ。
日本の歴史の中で産業から文化まで
屋台骨を支えた階層のこと、現実的
にヒエラルヒー構造と差別の実態が
存在したことは秘匿するのが今の
教育パターンだ。差し障りのない
ように上っ面だけを多少教科書に
記載する程度だ。どれだけ多くの
人々が歴史の中で重要な役目を
果たしてきたかは一切伝えない。
城を作るにしても石垣を成す石を
切るのは誰がやったのか。すべて
階級とされた石工がやった。
武士や殿様や公家が石切をしたの
ではない。ヨイトマケによる地固め
も、土の運搬も建造も、すべて徴用
された農民と専門技術職のいわゆる
たちが担当した。
「隠亡焼き」という言葉は今は放送
コードに引っかかるのだろう。
「八百屋」や「魚屋」も発言しては
いけないとされる時代だ。
隠蔽さえすれば良しとする。
埋葬を担当してくれた人たちの事を
かつては隠亡といった。魚の死体を
土に埋めて焼くから、その調理法は
死者の弔いの方法になぞらえて、
いつしか「隠亡焼き」と呼ばれた。
「隠亡焼き」がダメならば、では何と
呼べばよいのか。「土饅頭焼き」と
しても同じ事だ。土埋め焼き?ピンと
来ない。
差別を助長させるつもりも差別をする
つもりがなくても、言葉だけを消滅させ
れば差別がなくなるとでも?
指弾や糾弾をおそれるあまり、触れるな
触るな見るな言うなの自主規制こそが
差別を真正面から捉えることを放棄
する差別性に基づいた行動なのでは
ないだろうか。差別とは制度であり、
その制度と差別感の伝承に洗脳され
た人が持つ意識性とその意識の物理
的動員による人間排除の行動の事で
あるのに。
そして、決定的である事は、本人の
資質や個性とは一切無縁の本人では
どうにもできない事(生まれの血筋
や出生地や性別や長幼や身体的特徴、
等々それらの属性)を理由に人を排除
することが差別だ。
現実的に今も血のルーツによる差別は
この日本に存在する。
だが、その血脈差別だけではない多く
の差別構造と人心の差別意識がある。
なぜあるのか。
差別を利用することにより利を得よう
とする人々とそれを補完する構造、
人を差別することがあたかも良い事
であるかのような大きな勘違いが
現代日本と日本人に強く残っている
からだ。
現在、江戸古典落語では「目黒の秋刀魚」
では「隠亡焼き」という単語は使われ
ない。オハコ十八番の助六の名セリフ
「しにん()と呼ばれて差別され」
という脱賤を涙する場面のセリフも
パスされる。
歌舞伎役者は、階級だったが、
江戸期の特例として裁判により脱賤
した。それを祝った十八番目の演目
書きを高級箱に入れて大切にした。
だから十八番は日本では御箱とよばれ
るのだ。野球のエースナンバーが18番
現実的に今も血のルーツによる差別は
この日本に存在する。
だが、その血脈差別だけではない多く
の差別構造と人心の差別意識がある。
なぜあるのか。
差別を利用することにより利を得よう
とする人々とそれを補完する構造、
人を差別することがあたかも良い事
であるかのような大きな勘違いが
現代日本と日本人に強く残っている
からだ。
現在、江戸古典落語では「目黒の秋刀魚」
では「隠亡焼き」という単語は使われ
ない。オハコ十八番の助六の名セリフ
「しにん()と呼ばれて差別され」
という脱賤を涙する場面のセリフも
パスされる。
歌舞伎役者は、階級だったが、
江戸期の特例として裁判により脱賤
した。それを祝った十八番目の演目
書きを高級箱に入れて大切にした。
だから十八番は日本では御箱とよばれ
るのだ。野球のエースナンバーが18番
であるのもそこからだろう。
歌舞伎役者は脱賤はしたが、を
存在させる社会構造を突くところに
はその喜びは向かわなかった。それが
歌舞伎の江戸期当時の社会的限界性
でもあった。それでも大衆演劇として
芝居と共に絶大な人気を得ていた。
こうしたことも学校では教えない。
そして、ニジマスの塩まみれホイル
巻きの土埋め焚き火焼きが史上最高
に美味いニジマス料理であることなど、
学校ではまず教えない。その焼き方の
呼称と共に。
歌舞伎役者は脱賤はしたが、を
存在させる社会構造を突くところに
はその喜びは向かわなかった。それが
歌舞伎の江戸期当時の社会的限界性
でもあった。それでも大衆演劇として
芝居と共に絶大な人気を得ていた。
こうしたことも学校では教えない。
そして、ニジマスの塩まみれホイル
巻きの土埋め焚き火焼きが史上最高
に美味いニジマス料理であることなど、
学校ではまず教えない。その焼き方の
呼称と共に。