斧といえばワタリ。幼稚園の頃
大好きだった。
『カムイ』と並ぶ白土三平の代表
作だ。
この『ワタリ』なのだが、1965年
の映画化にあたっては、脚本を読
んで原作者の白土三平先生は断固
として公開に反対したそうだ。
白土先生自身が「忍者漫画の集大
成」としていた作が『ワタリ』な
のだそうで、実写映画化の際は、
「社会の下層であえぐ人々が自ら
起ち上がり階級社会を打ち砕く」
という白土哲学が完全に無視され
ていたので、絶対に公開反対だっ
たのだという。
白土先生が書かれた『カムイ伝』
(もっともこれは忍者漫画では
ないが)よりも強い思い入れが
ありそうな『ワタリ』なのである。
『ワタリ』について書かれた秀逸
なレポートを紹介する。
白土三平について ワタリ
『ワタリ』については、扱うテーマ
や対象についてよく理解できない方
も多いらしく、ネット上でも「よく
わからない」というブログ上の記述
などもみられる。
ただ、この手の社会派作品という
ものについてのある一定の所見が
私にはある。
それは、「解らない人は一生解ら
ない」ということだ。
それは、「解ろうとしない」からだ。
ノンポリはどこまで行ってもノン
ポリなのである。自ら問題意識を持
とうとはしない。自分が置かれてい
る状況さえ対岸の火事と思い込んで
いるのである。
実は自分も火中にいるのに。
それがそれであると判らなくさせら
れているだけなのに。
まさに『ワタリ』で白土先生が
描いていることは、そうしたテー
マなのである。
解る読者はもとより、解らない読者
さえも、つまり、その解らない読者
の存在そのもの、解らない読者が
存在していけてしまうその背景その
ものを白土先生は作品に描き出し、
読み手に理解・不理解の差別なく、
読む者を作品の中に引きずりこん
でいるのである。
社会派作品の王道を行く「からめ
手」だと思う。
ちなみに、よく「ワタリ」という
単語を作品名にして出版できた
なぁと感じる。
これは世間が無知だからだ。
歴史用語としてはワタリ=エタなの
である。
日本の差別の歴史においては、いわ
ゆる賤民階級の呼称は1000以上あっ
た。
学校で習うのは「エタ」「ヒニン」
しか無い。だが実際には実に多く
の呼称があった。
ワタリとは漂泊の民の事であり、
「渡り~」と呼ばれた特殊技術民
の事で、中世~近世には賤民階級
に置かれていた。人別帳に記載さ
れない渡り歩く浮浪の民なのだ。
鍛冶職はじめ、ほとんどの日本の
技能職業民は古代から賤民階級に
置かれていた。
農業以外で「物を作る」人たちは
賤民にされていたのだ。船大工さえ
賤民階級にされていた。
竹細工、履物職人、刃物鍛冶、鋳掛
鍛冶、医師、助産婦、清掃者、神社
の巫女、禰宜、各種芸能者、墓守の
守戸、古墳等の土木造営者、埋葬担当
者、祝い事口上師、門つけ、植木
職人、植物栽培業、皮革産業従事者
・・・etc。
すべてが古代から浅眠階級に置かれ、
中世から近世にかけて、エタ頭弾左
衛門の支配下に置かれた。
歌舞伎役者のみ江戸期に裁判により
弾左衛門支配下から脱賤し、平民
たる百姓身分(百姓とは農民の事
ではない)になった。いわゆる後世
でいう平民。歌舞伎役者はそれまで
ヒニン階級だった。十八番助六は
その脱賎を祝う演目だ。
探索方や武装技能武芸集団の忍び
の者たちも浅眠階級だった。
江戸期にはエタに木戸番等の街道筋
の門番をさせ、また新開地などの
新規開発農村にエタを家族ごと
派遣駐屯させて農民を監視させた。
下級警察官吏として使役させたの
だった。
武士階級といわゆるエタ・ヒニン
に代表される賤民階級は密接不可分
の関係にあった。
江戸期には捕縛吏や刑吏として働い
ていたのも賤民だ。
広島藩ではエタ呼称はせずに、旧来
の「かわた」(革田とも)呼称を
したが、そのかわた集団を組織化
させて(かわたの親方取締役に権限
を付与する)、脇差を帯びさせ、
領内農村部の治安部隊として藩は
運用していた。
広島藩のかわたたちは独自の伝統
武術を錬磨していた。それは抜刀術
(いあい)、捕縛術、体術等々。
幕末、農村で一揆の兆候ありとの
事で藩命で警察機動隊として出動し、
かわた部隊50名が5000名の武装
農民に包囲されてしまった事が
あった。
それをかわた部隊は脇差を抜刀して
窮地を脱し、全員無傷で生還した
事が記録に残っている。
かわた武術の流派は岩関流。
武士が習う武芸流派との接触はない。
武士の武芸流派習得にはかわたは
参加できなかった。社会体制のシス
テム上。
広島藩だけでなく、各藩ではそう
して賤民階級を警察機動隊や目明し
や刑吏、門番、忍び探索方、横目、
草として使っていた。
こうした事さえも学校の教科書には
出て来ない。
幕末、咸臨丸を操船したクルーは
筆頭以外はカコであり、全員エタ
階級である。彼らの航海技術と功績
なくば、勝海舟たちがアメリカに
渡航することさえもできなかった。
これさえも学校の教科書には載せ
ない。
封建社会で賤民階級という位置に
置かれた人々が日本の歴史に数
多くの功績を残した事には光を
あてず、ただ差別された差別した
等の視点でしか子どもたちに説明
しない。多大にして偉大な足跡
を明らかにはしないのである。
あたかもこの日本は貴族と武士が
すべて作ったかのような事しか
学校では教えないのだ。
オホミタカラの末裔である百姓の
中の農民階級である土百姓の功績
にも光はあてない。
一部の特権階級が日本の歴史を
構成していた、というような教
科書にしている。
それはなぜか。
国定教科書は権力者によって編纂
されたものだからだ。
賤民階級は警察権を付与されて
いた。
賤民階級への差別感は古代から
あったにせよ、中世末期までは
さほど賤視はえげつない差別感
を伴ってはいなかった。
「賤視の確定と強化」を図ったの
は豊臣秀吉だった。
だが、警察権は与えて人民統制の
尖兵として使役させた。
そのため江戸期には農民百姓たち
からは、自分らよりも下の階級の
者たちが警察権を付与されて自分
らを監視取締りするので、非常に
感情的にも差別意識が助長された。
「賤視の強化」が実行されたのが
江戸時代だった。
封建社会は階級差別を根幹として
成立している社会体制であり、
貴族の公家と貴族委託統治者の
武家はその差別の仕組みを利用
して社会を統治していた。
城下の町中での十手持ちなども
武士の最下級である同心以下の
十手持ちはすべてエタである。
銭形平次が実在したとしたらエタ
階級だった。
また、町火消も賤民階級であるし、
文芸出版印刷業者も賤民だ。
祭りの取り仕切り、芝居、相撲
興行もすべて浅眠階級が取り仕
切っていた。
江戸期に裁判があり、ヒニンの
既得権はエタ頭に集中される事
になり、ヒニンはエタよりも
下に置かれた。
ただし、エタは血族的存在だった
が、ヒニンは非賤民であっても、
犯罪等によりヒニンにされる事
が行なわれていた。
そして腕に墨を入れられたら
事実上社会復帰できないような
仕組みになっていた。
豊臣秀吉が非人村の出身の猿回し
(この単語も賤民を表す職業的
蔑称呼称だった)の民であった
事は学校の教科書には記載されて
いない。
また、自分を頼って出身村の
一族(血族含む)を褒美をやる
からと数十名陣中まで秀吉が
呼び寄せ、そして喜んで出て
来た出身地の仲間を皆殺しに
した秀吉の行状についても
日本の学校教科書では記載され
ていない。
秀吉は「過去を消す」事をした
かったのだろう。
そして、自分は太閤まで登り
つめ、豊臣という新たな姓(苗字
ではない)まで天皇から下賜さ
れた(させた)。
日本の仕組みの根幹を変えたの
は秀吉だった。
差別を体制として作ったのが
秀吉だったと言っても過言では
ない。職業選択の自由を踏み
潰したのも秀吉である。