あと2日
今回の参議院選挙は歴史的な転換点になる。
自民党と宗教団体が組んで国益を損ない続けた日本を、
国民主権の国へと取り戻す始まりとなるのだから。
参政党の事務局長、神谷宗幣さんは友だちです。
6年前一緒にイスラエルを旅した仲間です。
イスラエルの旅は、
生涯つき合える友が生まれます。
戦友みたいな気持ちになる。
私が、伊勢修養団の中山靖雄先生と立ち上げた
「神話を体感する会」10年主催させていただいて、
次にバトンを託したのが神谷宗幣さん。
真冬の五十鈴川でぼんぼりを持って
立っていてくれます。
日本が世界の灯明台となるための第一歩。
日本をまともな国に戻すための目覚まし時計となって、全国を駆け巡る参政党を応援します。
今朝、
ふと乃木将軍のことが心に浮かびました。
改めて乃木将軍をお伝えします。
私の今の年齢で、乃木将軍は殉死されました。
日本が続いてきたのは、
自らの命を捧げて、国を守ってくださった
先人たちのおかげです。
感謝しても、しきれません。
知ることは愛の始まり。
無知は罪です。
乃木希典55歳の時、
日露戦争旅順攻略のために東京を発ちます。
妻の静子に「棺桶が三つ揃うまで葬儀は出すな」と言い残し戦地に向かいました。
圧倒的不利な状況の中、
二度の総攻撃でも旅順の要塞は落ちません。
軍内部から非難の声が上がり、
山縣参謀総長は明治天皇に乃木司令官の交代の伺いをたてるのですが、
乃木を見抜き絶対的信頼を寄せている天皇陛下は一言
「乃木を代えたら、乃木は生きておらんぞ」と。
山縣は畏まって引き下がりました。
世論も乃木をバッシングし、戦地の乃木には2400通を超える、辞職、切腹を求める手紙が殺到したといいます。
乃木の自宅に一人の若い軍人が来て、
門前で怒鳴りました。
「乃木のノロマめ!兵隊を片っ端から殺してしまい、真の武士なら腹を切れ。
家族どもも何をグズグズ生きているのか」
静子は心痛み、三等列車に乗り伊勢に向かいます。
伊勢神宮で禊ぎをし、神前で旅順陥落を祈念します。
祈り続け、心静まった静子に声が聞こえました。
「汝の願いは叶える。しかし、愛する息子二人は取り上げる」
静子は、
「二人の息子だけでなく、私ども夫婦の命を差し上げます。どうか旅順だけはとらせてくださいませ」
と、さらに祈ります。
後日、静子は
「心願が神明に通じ、畏くも天照皇大神宮様がご神託を授け給うたものと確信します」
と話しています。
長男の勝典中尉、次男の保典少尉の戦死を告げられた時、乃木さんは
「よく死んでくれました。これで世間に申し訳がたちます」
といわれました。
ロシアは、どんな相手でも旅順要塞を落とすには、3年はかかると豪語しましたが、多大な犠牲を払いながらも乃木第三軍は5ヶ月で攻略したのです。
敵の将軍ステッセルとの水師営での会見。
降伏した側は帯刀しないのが世界の常識ですが、乃木は、帯刀はおろか軍服に勲章をつけた姿での会見を許し、その日写真に残された両雄の姿は世界を感動させました。
乃木の武士道、やまとこころに世界中が感動したのです。
昨日の敵は、今日の友
日露戦争は、やまとこころを世界に知らすことにもなりました。
ステッセルが、旅順陥落の責を負わされロシアで処刑されそうになったとき、乃木大将は、ロシア皇帝に直筆で手紙を書いて、いかにステッセルが勇猛果敢に戦った立派な軍人であったかを訴えたのです。
ステッセルは処刑を免れましたが、シベリアに送られます。
苦境に陥ったステッセルの家族の生活を支えたのは、乃木大将からの仕送りだったそうです。
明治天皇崩御とともに、乃木夫妻は殉死しました。
すると、
一人のロシアの僧侶から多額の見舞金が届いたそうですが、ステッセルからでした。
ステッセルは、生涯
「自分は、乃木という素晴らしい将軍と戦えたことを誇りに思う」
と言い続けました。
エピソードは尽きませんが、
少し乃木大将のこと書いてみました。
私たちは、歴史というと出来事と年を覚えることのように教えられました。
歴史は、人の物語です。
こんな風にやまとこころを生きた人のことを学ぶとき、私たちの心の奥に火が灯る。
そして、そこから学んだことを実践するのです。
知ることは愛の始まり。
そして、
祖国のために命を使うのは誠に尊いことなのです。
私も、やまとこころのキャンドルサービス
全身全霊で語ります、走ります。