池田大作名誉会長と関西

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I 関西広布の夜明け

 1952年(昭和27年)2月1日、白木義一郎氏の大阪赴任から産声をあげた関西創価学会。同年8月14日には、25歳の池田大作(いけだだいさく)青年が関西に第一歩をしるした。

「特急“つばめ”にただ一人乗って、夕暮れちかい大阪駅に着いたのである。京都の東寺の五重塔の印象、淀川の鉄橋付近からの黒色にくすむ、偉容誇る大阪城は、青年の目に焼きつき、いまでもその映像が消えない」(『私の人生随想(池田大作著)』より)


写真:淀川鉄橋
「淀川鉄橋」
I  大阪に着いたその夜、池田大作青年は堺市内の座談会に出席。翌15日には、仏教大講演会のため来阪した戸田城聖第2代会長を迎えた。この8月14日は5年前(昭和22年)の同じ日に、池田青年と戸田会長との初めての出会いがあったこととあわせて、2002年に「関西・師弟原点の日」と制定された。
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写真:大阪・堺2支部連合総会
「大阪・堺2支部連合総会」
”常勝”の原点

 以来、池田青年は何度も関西を訪れ、行く先々で一人ひとりに渾身の激励を行った。そして初訪問より4年後の1956年(昭和31年)には、1月から半年間にわたって、池田青年室長(当時)のもと、関西に布教の大波が起こった。「前進! また前進!」を合言葉にした拡大は、5月の1カ月で11,111世帯が入会するという、創価学会史上、燦然と輝く歴史を築いた。
 その勢いの中、7月には参議院大阪地方区(当時)にも勝利。翌日の一般紙が「まさかが実現」と報道するほどの大逆転勝利であった。
 この「31年の戦い」は、関西創価学会の「常勝の原点」として今も語り継がれている。
I 人間教育の府

 牧口常三郎初代会長、戸田城聖第2代会長は、“人間”を一切の原点、目的とし、“生命の絶対的尊厳”の次元から、人生と社会に価値を創造する“自立した人間”の育成を目指していた。
 その「創価教育」の構想を実現するべく池田名誉会長は、「教育こそわが生涯の最後の事業」との決意で東奔西走した。関西の地にあっても、「創価教育」の学舎をつくることは名誉会長の脳裏から離れることはなかった。1957年(昭和32年)に、大阪・交野の地を訪問した折には、早くも「関西創価学園」の建設を構想していたという。
 それから16星霜。1973年(昭和48年)には、関西創価中学校・高等学校が女子校として開校(1982年には男女共学に移行)。また、1982年(昭和57年)には関西創価小学校が開校した。
 関西の地に、創価一貫教育の学舎ができた——関西創価学園、関西創価小学校を擁することが、全関西同志の喜びと誇りである。

写真:関西創価学園
「関西創価学園」
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写真:第1回関西青年平和文化祭
「第1回関西青年平和文化祭」
“世界のカンサイ”へ

 池田名誉会長は度々関西を訪れ、全力で一人ひとりの会員を励ました。
甲子園での「雨の文化祭」(1966年)など、次代を担う青年と絆を深めた数々の文化祭も開催された。
 また、関西創価学会の歌である「常勝の空」も、名誉会長が自ら作成した。
 その後、発展を続けた関西創価学会は、今では世界192カ国のSGI(創価学会インタナショナル)メンバーに「世界のカンサイ」として広く知られるようになった。

I 「『カンサイ』は、いまや世界の共通 語となり、人生の勝利への合言葉となった」(『大道を歩む(池田大作著)』より)
「今や『常勝』は、関西の永遠不滅の伝統となり、『関西魂』は学会精神の模範として、世界に語り継がれている」(随筆『桜の城
(池田大作著)』より)