消えた「数学C」が復活、奇妙すぎる日本の教育改革 脱「ゆとり」を提唱した数学者から見た教育行政

2022/08/27 6:30
クルクルと入れ替わる数学のカリキュラムに現場は振り回される(写真:ペイレスイメージズ1(モデル) /PIXTA)

2020年の4月から5月頃にかけて、コロナの影響による自粛期間中に「9月入学」の話題が急浮上した。背景には、自粛期間中の学校での学びが一部を除きほぼストップしたことがあったと同時に、「半年後ぐらいには、コロナは収束するだろう」という甘い見通しもあったのだろう。その後の展開を見れば、「9月入学」が進められていたら現場は大混乱必至であったことは明らかである。

実は、それより何年か前の平時に、文部科学省でも「9月入学」の問題はさまざまな見地から検討されたことがあったが、慎重にならざるをえない課題もあったようだ。それを踏まえると、大混乱に至る前に「9月入学」の話題が沈静化したことは良かったと振り返る。

「ゆとり教育」の問題が明るみになってきた90年代の半ばごろから、筆者は数学に関係するさまざまな教育問題を自分自身の問題として考え、積極的に取り組んできた。

そこで得た結論は、上述の「9月入学」の問題ばかりでなく教育行政の改革は小回りがきかないだけに、一旦動き出すとマイナス面を修復するには膨大な時間がかかるということである。筆者が関わった小さくない問題を紹介していこう。記事後半では、学習指導要領の改訂の度に入れ替わるカリキュラムの問題点を指摘する。

「ゆとり教育」で減らされた授業時間

1998年の学習指導要領改訂で「ゆとり教育」の骨組みが定められ、数学を中心に教育内容や授業時間数を3割削減するなどの目標が設けられた。ちなみに、「ゆとり教育」時代の中学校での数学授業時間数は1年、2年、3年とも週3時間で、これは世界でも最低レベルだった。

驚いたのは、その3割削減した内容が、当初は「ゆとり教育」の「上限」であったのである。さらに90年代後半には、数学の授業時間数が今後減ることで、いくつかの県では高校の数学教員がゼロ採用になってしまった。

当時、諸外国は数学教育の充実を図る動きを見せていた。大した資源のない日本が技術立国に発展する姿を見ながら育ってきた者として、授業時間の削減は我慢できるものではなかった。そして、「ゆとり教育」を改めさせるための活動を開始した。

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朝日新聞「論壇」(1996年11月7日号)、週刊ダイヤモンド「論文」(1998年4月11日号)、『分数ができない大学生』(1999年、東洋経済新報社)などで数学の意義を活字にして訴えると同時に、全国の小中高校で数学の面白さを伝える出前授業も始めた。

円周率3.14をめぐる問題

その後、「ゆとり教育」を支持する方々から、「ゆとり教育を御批判される人たちは『円周率約3はケシカラン』とよく言われますが、教科書にはちゃんと3.14と書いてあります」、と散々言われたことを思い出す。

その都度、「確かに、3.14という記述はあります。しかし、それは意味のない3.14なのです。たとえば、半径が11cmの円の面積を求めると、11×11×3.14=121×3.14という計算が現れます。そこで、3桁同士の掛け算が出てきます。ところが「ゆとり教育」の筆算では、2桁同士の掛け算は教えるものの、3桁同士の掛け算は学習指導要領の範囲外となって、そこで『円周率は約3として計算してよい』となったのです。したがって、問題の本質は『3桁同士の掛け算』を学習指導要領範囲外にしたことです」と反論した。

それに対して数学教育の専門家と称する方が、活字にして「2桁同士の掛け算ができれば3桁同士もできるようになります」と批判されたことを懐かしく思い出す。

およそドミノ倒し現象だろうが、ボックスティッシュの紙が続いて出てくる現象だろうが、牌や紙が2つの場合だけでは次々と続く現象の理解は不十分であり、3つの場合の動きが重要である。それと同じで、繰り上がりの仕組みを理解するには、3桁同士の掛け算(筆算)の理解が重要である。以上の考えを広く訴えつつ事態の推移を見守った。

そして2006年7月に、国立教育政策研究所は「特定の課題に関する調査(算数・数学)」(小4から中3の約1万9000人対象)に関して次の報告をした。小4を対象とした調査で「21×32」の正答率が82.0%であったものの、「231×21」のそれが51.1%に急落したこと。さらに小5を対象とした「3.8×2.4」の正答率が84.0%であったものの、「2.43×5.6」のそれが55.9%に急落したこと。

それを機に筆者は文部科学省委嘱事業の「(算数)教科書の改善・充実に関する研究」専門家会議委員に任命され(2006年11月~2008年3月)、掛け算の桁数の問題、四則混合計算の問題、小数・分数の混合計算の問題などについての持論を最終答申に盛り込んでいただき、それらの問題は改善されてきた。

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筆者は2007年に桜美林大学リベラルアーツ学群に移って現在に至るが、その前後は小中高校への出前授業ばかりでなく、全国各地の教員研修会での講演も積極的にお引き受けした。現場の先生方との交流はとても勉強になった。

ところが2009年に、事態が急変する新たな制度が導入された。10年に一度の教員免許更新制である。しばらくの間はこの制度の実態を知ろうと思い、何箇所かの免許更新講習の講師を積極的にお引き受けした。それを通して得た結論は、これは矛盾に満ちたものである、ということだ。実際、2013年に出版した拙著『論理的に考え、書く力』(光文社新書)には次のことを述べた。

毎年、あちこちの会場で免許更新講習が行われているが、教育現場にまったく興味をもたない大学教員が自分の専門のトピックスをばらばらに話しているだけのところが圧倒的に多く、昔からあった各自治体での定期的な教員研修制度のほうが、現場を考えての研修だけにずっと機能していたと断言できる。

そもそも「不適格教員」の問題は、この制度ができる前に対処の方法が確立していたのであり、何のための制度かさっぱり理解できない。せいぜい、教員の身分が不安定になったように印象づける制度かもしれない。それによって失ったもののほうがはるかに大きいと考える。

そして本年度(2022年)になって、教員免許更新制はようやく廃止されたのである。

「大学共通テスト」記述式導入への憤り

上記拙著は、「数学の試験はマークシート式でなく、なるべく記述式がよい」ということを趣旨としている。また、日本数学会は2012年2月21日に「大学生数学基本調査」(前出)に基づく数学教育への「提言」を発表した。中等教育機関に対しては「充実した数学教育を通じ論理性を育む。証明問題を解かせる等の方法により、論理の通った文章を書く訓練を行う」。大学に対しては「数学の入試問題はできるかぎり記述式にする」。

ちなみに本務校の桜美林大学では、2013年2月の一般入試から全問記述式の数学入試を導入した(一部日程ではマークシート形式の数学入試が存続)。

そのような背景があったので、大学入試センター試験を引き継ぐ「大学入学共通テスト」(2021年度から開始)の数学で、部分的に記述式の数学問題の導入が予定されていると知ったときは複雑な気持ちになった。

記述式の数学試験は同志社大学のように、個々の大学が主体的に行うのがベストであり、50万人もの記述式答案を大学入試センターが採点できるのかと疑問に思った。そして2019年の秋になって、その具体案が明るみになった段階で、筆者は以下のような点で憤りを感じた。

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大学入試の作問側と受験産業側が一線を画すからこそ公平な入試が成り立つのであって、試験が実施される前に「正解」を一部企業に教えたりすることは論外である。一時的にアルバイトの大学生を雇って採点させたりすることは、大規模学力調査の統計データ収集ならばともかく、受験生一人ひとりの人生がかかっている試験では論外である。

そして、この問題は一旦動き出してからでは手遅れで、速やかにストップをかける必要性を感じ、共同通信47NEWSで上述の理由などを詳しく述べた次第である。その後、部分的に記述式の数学問題を導入することは見送られ、2021年度から大学入学共通テストは開始された。

暗記だけに偏りすぎている学習スタイル

2020年末に筆者は『AI時代に生きる数学力の鍛え方』(東洋経済新報社)を上梓し、理解軽視の暗記だけの学びに偏りすぎている最近の算数・数学の学習スタイルに対して、憂慮の念をさまざまな角度から述べた。

その傾向は大学数学の入門領域にも波及していることから、来年3月に本務校の定年退職をもって大学(専任)教員人生45年の幕を閉じる記念として、理解と例を重視した『新体系・大学数学入門の教科書(上下)』(講談社ブルーバックス)を今年6月に上梓した。

新体系・大学数学 入門の教科書 上 (ブルーバックス)
『新体系・大学数学 入門の教科書 上 (ブルーバックス)』(講談社)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします

この書の出版によって、『新体系・中学数学の教科書(上下)』(2012年、同上)、『新体系・高校数学の教科書(上下)』(2010年、同上)を経て『今度こそわかるガロア理論』(講談社)に至るまでの大河が完成したことになる。

とくに、円の面積が円周率×(半径の2乗)であることや代数学の基本定理というものの厳密な証明を6月に出版した書に入れることができた点も大きい。

もっとも、ここまで来た経緯を振り返ると、『新体系・高校数学の教科書(上下)』の出版直後に、2010年4月10日号と17日号の週刊東洋経済で、元外交官で作家の佐藤優さんがその書を詳しく紹介していただいたことが大きな励ましになったので、ここで改めて感謝の意を表したい。

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『新体系・高校数学の教科書(上下)』と『新体系・大学数学入門の教科書(上下)』の間にギャップがないことは、同じシリーズであるがゆえに当たり前のことである(たとえば、後者の例で空間における平面や直線の式を用いるが、それらの解説は前者に入れてある)。もちろん、そのような指摘は恥ずかしくて述べることもなかった。

実は『新体系・大学数学入門の教科書(上下)』の出版後に、事前に考えてもいなかった大きな問題を思い出させていただいた。

出版後に他大学の教員や一般読者から、上記の当たり前の点を何回か指摘していただいたので、事情を尋ねてみて気づいたことは、学習指導要領上の高校数学の数学I、数学II、数学III、数学A、数学B、数学Cという体系に関する疑問の声が予想外に多いことである。

年配の方々がかつて高校で学んだ頃は、数学I、数学II(数学IIAまたは数学IIB)、数学IIIという体系であって、『新体系・高校数学の教科書(上下)』の構成と若干似ている面がある。

学習指導要領の改訂の度に入れ替わる科目

1990年代の半ばから始まった数学I、数学II、数学III、数学A、数学B、数学Cという体系においては、建前としては数学I、数学II、数学IIIがコア科目、数学A、数学B、数学Cがオプション科目となっている。問題なのは、これら6科目の中身が約10年に一度の学習指導要領の改訂の度にクルクルと入れ替わることである。主な状況を参考までに示すと、以下のようになる。

2003年度以降:「順列・組合せと確率」が数学Iから数学Aに移動、「数列」が数学Aから数学Bに移動、数学IIにあった「複素数平面」は廃止、「確率分布」は数学Bから数学Cに移動、等々。

2012年度以降:数学Aに「整数の性質」が新設、数学Aに(かつて中学数学に主にあった)「作図」と「空間図形」が加わる、数学Aにあった「二項定理」が数学IIに移動、数学Cにあった「確率分布」と「統計処理」が数学Bに移動、「複素数平面」が数学IIIに復活、数学Cは廃止となり、それに伴って「(主に2行2列の)行列」は廃止、等々。

2022年度以降:数学Cが復活、「複素数平面」が数学IIIから数学Cに移動、「整数の性質」が数学Aから新科目「数学と人間の活動」に移動、「ベクトル」が数学Bから数学Cに移動、等々。

問題は、その6科目全部ではなく、実際は半分ぐらいの科目を履修する高校生が大多数である現在、上記のようにクルクル入れ替わるカリキュラムのおかげで、受験生ばかりでなく予備校や高校の教員が必要以上に神経を尖らせざるを得ない。さらには大学で初年次教育を担当する教員や、大学で入試問題を作成する教員が、その事情を詳しく知っているのかという疑問もある。

そのような事情を真面目に考えている人からすると、筆者のシリーズを眺めると、無駄な神経を使わなくて済む“解放感”のようなものを感じるのではないだろうか。本稿の結論として、「とくに教育行政では、変えないのも改革のうち」と言いたいのである。

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