かつては、東京でしか手に入らないものがいっぱいあった。東京に行くことは、観光ではなく、買い物旅行を意味した。雑誌で知ったショップ情報をたよりに、素敵なものを探しに、足が棒になるまでどこまでも歩いた。欲しい、という気持ちが尋常でなく強かった。人とは違う物をたくさん持っている人が偉い、みたいな価値観があったし、東京はそういう物を必ず与えてくれた。
自分を仮託できる宝物は間違いなくこの街のどこかに埋まっていて、それを見つけられるかどうかの勝負だった。収穫を抱えて街を歩くときの高揚感は、いつも素晴らしかった。1990年代の田舎からやって来た10代の少女にとっての東京は、そういう街だった。2000年代になると、たいていのものはヤフオクで手に入った。ネットの世界だけがどんどん充実していった。
匿名性だけでなく、もう一層深い自由がある
たしかに、思っていたのとはちょっと違う。けど、期待していなかった住み心地のほうは最高だった。日常的な生活は、車にあれこれ詰め込める地方暮らしのほうが圧倒的に便利だけど、それとは別次元の居心地のよさにおいて、東京はぶっちぎりなのだ。
ああ、ここにいていいんだと、街から許容されている感じ。街自体が巨大すぎるゆえ、「あんたのことまで見てられないから、好きにして」と放っておかれている感じが東京にはある。
しかしこの、一種の旅人的な感覚は、上京者だけのものかもしれない。わたしの知る東京生まれ東京育ちの人の多くは、実家ないし縁のある地域に住み、馴染みの沿線から決して離れようとしない。彼らは案外、近所の目を気にしていたりするし、実家が盤石であればなおさらその傾向は強い。
“地元”としての東京を生きている人を前にすると、わたしの心に棲む魔女のキキが「お邪魔させて、いただいてます!」と、ホウキをぎゅっと握りしめ、深々と頭をさげる。なぜそんなにお辞儀の角度が深いのかというと、彼らの土地で、彼らにはないものを、満喫しているからだ。わたしはこの、たくさんの人にまぎれられる匿名性だけでなく、もう一層深い自由のために、高い家賃を払っているのではないかと思う。