アルベドになったモモンガさんの一人旅   作:三上テンセイ

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5.落涙

 

 

 

 

 

 思い返しても、彼女の人生は決してよいものではなかった。

 

 ──ツアレニーニャ・ベイロン。

 

 彼女にはセリーシアという妹がいた。ツアレにとって明るい記憶と言えば、その妹と暮らしていた小さな村での日々くらいだろうか。彼女が人らしい人生を歩めた時間は、今では遠いその思い出の時のみだった。

 

 ある日、タチの悪い領主に村から連れ攫われ、妹と離ればなれになってからのツアレの人生は急転直下だった。妾として彼女を手元に置いた貴族は、その日からツアレのことを散々いい様に弄んだ。凡そ人道的とは言えぬ扱いを受け、毎夜玩具にされる日々。嫌だと言っても組み敷かれ、彼女は傲慢な貴族の性の昂りを収めるだけの装置とされていた。

 

 しかしそれはまだ地獄の浅瀬だったことを思い知る。ツアレの体に飽きた貴族は、彼女の処分も兼ねて『八本指』が経営する娼館に売り飛ばしたのだ。

 

 そこからは本当の地獄だった。

 逃げられぬ様にと足の腱を切られ、来る日も来る日も脂ぎった権力者達の悍ましい性癖に付き合わされた。一晩に傷を負わぬ日などなかった。顔を殴られながら犯され、罵倒される。そこに人らしい営みなど一切有り得ない。

 

 心と体が壊されていく日々。

 

 泣いても誰も助けてはくれない。妹との日々を思っても、それは何の慰めにもなりはしなかった。ただただ、地獄の毎日が続いていくだけ。眠れば即座に次の地獄が待っている。彼女は次第に眠れなくなった。

 

 食事も喉を通らない。

 睡眠も満足に摂れない。

 

 やがて衰弱し、複数の性病に犯されたツアレは、文字通り完全に壊れるまで男のサンドバックとなった。

 

 泣いても、乞うても、彼らは止めてくれない。

 

 拳と言葉で、ツアレはニンゲンではないのだと叩きつけてくる。女という性を持つだけの肉袋なのだと、苛烈に追い詰めてくる。追い込まれるツアレを見て、男は嘲笑っていた。痩せこけたツアレの肉体が、脂の詰まった男の殴打に耐えられるはずもない。

 

 やがて力尽きたツアレは、死体袋に詰められる。自分と同じ境遇の女性がこれに詰められ、どこかに連れていかれるのを彼女は何度か見ていた。

 

 故に察した。

 

 ああ、自分はもう終わりなんだ、と。

 ツアレニーニャ・ベイロンの人生は、こんな結末で幕が下りるのだと。

 

 彼女ははっきり言ってその時、安堵の息を漏らしていた。地獄の日々が、死によってようやく終わりを迎えられる。それはとても素晴らしいことなのだと、疑いもしなかった。

 

 ツアレはこの娼館に連れられて、初めて穏やかな表情を見せていた。運ばれながら、袋の中で母の腹の中の胎児かの様に体を丸めていた。

 

 

「うっ……つ……っ」

 

 

 ツアレは硬い石畳に袋ごと投げ出された。

 

 放り投げられた拍子に、ツアレの体が袋からずるりと飛び出した。

 

 その瞬間、彼女の頬を伝ったのは心地よい夜風の感触だった。眼球をころりと動かして空を見やると、いくつもの星が瞬いている。

 

 久しぶりの外の空気だった。

 

 ここは娼館の真正面なのだと、ぼんやりと理解できた。香の焚かれたあの中より、余程空気が美味い。ツアレは折れている肋骨の痛みに呻きながら、肺いっぱいにその空気を取り込んだ。

 

 

(ああ……)

 

 

 夜を淡く照らす星空は、妹と見たそれには遠く及ばぬが、それでもあの日々を思い出せるだけの光景に、ツアレの濁った瞳には映った。

 

 

(……嫌だ)

 

 

 走馬灯の様に思い起こされる、妹との日々。領主に攫われた日。地獄の幕開け。

 

 ツアレの人生の情報全てが、血潮となって彼女の体を駆け巡る。

 

 その瞬間、ツアレの心にじわりと恐怖が滲み出した。

 

 

(嫌だ、嫌だ……!)

 

 

 それは、生物としては余りにもシンプルな感情。

 

 

(死にたくない……怖いよ……!)

 

 

 生きたいという意志。

 死への恐怖。

 

 これほどボロボロになっても、それでも生ある幸せを掴みたいという根源的な感情。ツアレ自身、そんなことを思える自分に戸惑いの感情を抱いていた。

 

 

(誰か……誰でもいい! 神様……!)

 

 

 何故ならツアレは知っている。

 この世は地獄そのものじゃない。

 脳裏を駆け巡るのは、あの小さな村で過ごした厳しくも穏やかな日々。

 

 

(誰か……誰か、どうか、私を助けてください……!)

 

 

 死んだら一体自分はどうなってしまう? 

 今こうして思考してる自分は何になるというのか。

 

 消える。

 自分という自我が、本当に無くなってしまう。

 

 嫌だ。

 そんなこと、受け入れたくない。

 

 

(私は、まだ……)

 

 

 手を伸ばした指先に、こつりと冷たい感触が触れる。

 

 体が寒い。

 

 ツアレの意識は、そこで途絶えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──目が覚めた。

 

 背には柔らかなベッドの感触。

 体には清潔な毛布が掛けられていた。

 

 

(ここは……)

 

 

 ツアレはゆっくりと、上体を起こした。

 

 きょろ、と目だけで辺りを見渡すと、そこはツアレの知らない部屋だった。清潔感に溢れ、無駄な家具の配置がない。窓に掛けられたカーテンが弱い光を帯びていることから、彼女に理解できるのは今が朝だということくらいだ。

 

 しかし体が軽い。

 あんなにも重たく、ボロボロと砕けてしまいそうだった体が、まるで新品になったかの様だった。

 

 ツアレは体の確認をしようとして──

 

 

「目が覚めたようですね」

 

「え」

 

 

 ──気づかなかった。

 

 ベッドの隣の椅子に、ツアレの知らない女性が腰掛けていたのだ。

 

 美しい声だと思った。

 

 そして、ハッと息を呑む。

 時が凍りついた様だった。

 その女性が、信じがたい程に美しかったから。

 

 長い黒髪を嫋やかに流し、彼女は清廉な白いドレスに身を包んでいた。美女は穏やかで、それでいて美しい微笑みを以てツアレのことを見ている。

 

 美しくて、綺麗で、神聖で……。

 

 

「……ひっ、く……ぅう……く……」

 

 

 たちどころに、ツアレの瞳から涙が零れる。

 シーツを握り込み、彼女は下唇を噛んで嗚咽を漏らしていた。

 

 温かな部屋。

 清潔なベッド。

 天女の様な女性に看られているこの空間。

 

 ……ツアレは、自分は死んだのだと直感した。ここは死後の世界で、自分を看ているこの女性は神に遣わされた天使なのだと。

 

 

「うっ……ふ、くっ……ぅ……っ……」

 

 

 故に涙を流す。

 

 死んだことに安堵して。

 

 死んだことが嬉しくて。

 

 死んだことが悲しくて、悔しくて……。

 

 津波の様な様々な強い感情が綯い交ぜとなった結果、それは涙となって発露した。ボロボロと、ビー玉の様な大粒の涙が次々と瞳から零れていく。

 

 あんな男達に嬲られ、家畜以下の扱いを受け続けた人生は兎にも角にも終わりを告げた。何もできず、何も成せず、何者にもなれず。

 

 ツアレニーニャの人生とは、そんなものだった。

 

 死んだことを嬉しいと思えるくらいには、悲惨な最期だった。それが、堪らなく悔しかった。辛かった。

 

 涙が、止まらなかった。

 

 震えるツアレを、天女はそっと抱きしめる。

 

 

「……っう、く、……うぇ……うえええええええええん!!!」

 

 

 ツアレは堰を切った様に嗚咽し、声を上げて泣いた。彼女を受け止める天女の体が余りにも柔らかく、温かで、慈しみを帯びていたから。

 

 あの男達とは違う、優しい抱擁に、ツアレの心にぴんと張りつめた最後の一本の糸が切れる。

 

 己の激情に流され、泣きつかれ、再び微睡みの世界に入るまで、天女はそっと優しくツアレを抱きしめ続けてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これで良かったのか……?」

 

 

 ツアレを寝かしつけた後、モモンガは別室のソファに深く腰掛けて、小さく呟いた。その表情にはある程度の後悔の色が見て取れる。彼は浅く息を吐いて、蟀谷を抑えた。

 

 

(あの女性に今後入手不可能とも言える『マスターポーション』を使ったのは流石に勿体なかった気がするな……)

 

 

『マスターポーション』

 

 卓上には残されたもう一本の薬瓶が、淡い蛍色に明滅していた。

 

 そう、モモンガはザイトルクワエに苔むしていた薬草から抽出した『どんなバッドステータスも即座に治す』とされる、超希少ポーションの一本をツアレの為に使ってしまった。

 

 病を治すことのできる魔法が込められたスクロールをモモンガは所持してはいるのだが、彼のクラスではそれを使用することができない。神殿へ連れていき、クレリックのクラスを修めている神官にスクロールを使ってもらうという案もあったのだが、それは彼自身が棄却した。

 

 仮にあの晩そのまま神殿へツアレを連れて行ったとして、そのことを『八本指』に知られたとあれば、疑いの目を向けられるのは必至だろう。娼館が潰れた晩にボロボロの娼婦を神殿へ連れて行った人物を疑うなというほうが無理だ。モモンガはそれを避ける為に、なるべく内々で処理したかった。

 

 しかし外傷は手持ちのポーションで癒せたとしても、ツアレが罹っている複数の性病は治療することはできない。モモンガには『マスターポーション』を使用する以外、ツアレを回復させる手段がなかったのだ。

 

 だから泣く泣く『マスターポーション』を使った……使ってしまった。まあ、これには副作用等々がないかという治験の意味もあったのだが、それにしても拾ってきた野良猫一匹に使うには勿体なかっただろう。

 

 故に、モモンガはやるせない気持ちでいっぱいだった。

 

 

(……生き物を拾ってきたのは俺だからなぁ。出来る限り保護はしてやりたいとはいえ、流石に勿体ない気持ちが後引くぞ……。あーあ、慣れない人助けなんかするもんじゃないよな……)

 

 

 ツアレと『マスターポーション』を天秤に掛ければ、間違いなく後者が勝る。しかし自分で拾ってきた動物を治療する手立てがある癖に、それをしないのはおかしな話だ。

 

 悪魔と鈴木悟がごちゃまぜになった倫理観だが、結局はツアレに『マスターポーション』を使用するという結論に至った。ツアレに薬瓶の中身を垂らす時、その手がプルプルと震えていたのは言うまでもない。

 

 ちなみに彼が今座しているこの空間──ひいては屋敷なのだが、取り急ぎ不動産に行って借りたものだ。流石に高級宿に性病を患った娼婦を連れていくわけにもいかず、昨晩のうちに突貫で契約してきたのだ。

 

 一番清掃が行き届いている家をと注文したところ、高級住宅地にあるこの屋敷と言えるほどに広い家に通されてしまった。

 

 無理を言って即日……それも夜遅くに借りたので不動産に文句は言いにくかったが、これも若干痛い出費だ。

 

 モモンガの心境としては、ケチな貧乏人が大枚を叩いて保険の掛かってない野良猫を動物病院に連れて行き、猫砂や餌、猫用のケージを買いに走った後に近いだろう。

 

 額をぴしゃりと抑える。

 ソファに身を沈めながら、モモンガは長い溜息を吐いた。

 

 超希少アイテムを使ってしまったという後悔を、善行の為なんだから仕方ないという蓋で何とか押し込めようとしても、溢れるのは溜息ばかり。

 

 

「どうしたもんかね……」

 

 

 ツアレを今後どうするのかという、これから先の問題もある。突発的な行動で面倒なことになったと、モモンガはやはり心の底から染み出してくる後悔の念に抗えないのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 




◆補足◆

【娼館を襲った上位アンデッド君】

モモンガが創造した上位アンデッドはレベル40を超えているので、留まることはできず、一定の時間が過ぎて消失しました
「殺せ」の命令に対しては、創造主の意図を汲んで娼館の従事者と客だけ虐殺しています(判断が微妙なのであの場にいた男だけ)

なお、惨劇が起きた娼館の第一発見者は八本指の手勢だった為、腱を切られている逃げそびれた多くの女性達の運命は現時点ではあまり変わっていません

コッコドールは様々な隠蔽工作をした後こちらの娼館を撤退し、王都内にある別の建物でまた商売を始めようと企てています。客からの信用はガタ落ちですが




【ツアレの胎児】

マスターポーションくん「なんか腹に寄生虫おるな……これもうバッドステータスだろ。削除しとこか」

赤さん「!?」

ポーションに倫理観とかないですからね。

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