究極のミニマリストは宇喜多秀家だったのではないか?

 今回は現代のミニマリストではなく、戦国時代のミニマリストという視点で考えてみたいと思います。

 戦国時代にミニマリストも何もないだろうというのが一般的な意見かもしれませんが、宇喜多秀家がミニマリストだったのではないかと考えています。

 とくに豊臣政権では出世街道をひた走って五大老の一人に任命されていました。五大老といえば徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家の五大名ですが、年齢的な経験値などの実力で宇喜多秀家は他の大名と比較するとかなり劣っていることは明白です。

 ともあれ、関ヶ原の戦いでは宇喜多秀家は西軍の副大将として出陣し、敗北を喫したことで八丈島に島流しとなりました。

 

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 八丈島での生活は非常に過酷だったようで、生き別れている伴侶、豪姫の生家である前田家の金沢からの仕送りで生活しなければならないほど困窮していたようです。

 こうなるとミニマリストというより、囚人という感じにはなってしまいますが、八丈島での生活はある意味、何もモノを持たないというミニマリストの究極形態を示しているような気もします。

 ただし、八丈島での島流し生活を送っていた数年後に前田家から大名への復帰を打診されていたそうですが、宇喜多秀家はきっぱりと断っています。

 

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 島流しで生きているとはいえ、天下分け目の関ヶ原の戦いで副大将として参戦していたことを考えると切腹や斬首は免れなかったのを生きているという意味では大名として復帰したとしても生き恥を晒すことになると考えたのかもしれません。

 生き恥とは思わなかったとしても、本来であれば死んでいた身なので、今更大名に戻っても仕方ないということもあったのかもしれません。

 ただしこの時代の時代背景を考えると前田家から大名への復帰を促された時期には豊臣家が大阪に居を構えており、数年度に大坂の陣が発生しています。前田家は大坂の陣で先鋒で戦闘している武将もいるので前田家の一大名になっていたら秀家も豊臣家に対して刃を向けることになっていた可能性が高いです。

 そういう諸々を考えると、大名復帰はせずに究極のミニマリストを選んだというのも正しい選択だったのかもしれません。

 

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 宇喜多秀家は84歳まで生きたものの、豪姫とは再会することはなく、豪姫は島流しから約30年後に死去したそうです。豪姫より秀家は長生きしたものの、伴侶の葬儀にも出席することもなく、どのような心境だったのかを聞いてみたいと思いました。

 たぶん、仕送り自体は豪姫死去の後も続いたそうなので、豪姫がこの世にはいないことは伝わっていたとは思います。万が一、伝わっていなかったとしても何となく察していたとは思います。

 宇喜多秀家ミニマリスト説について秀家の生涯について延々と語っていますが、最後にやや卑近な話ですが、現地妻になる女性もいたとは思います。

 ただ、そういう話は意図的に隠されたのかもしれませんが、現存の資料では現地妻の話はなく、生活の糧として釣りをしたり、八丈島の人に勉強を教えたりといった感じの生活をしていたようなのでミニマリストとしての究極系なんだと思います。

 究極のミニマリストは当時としては80歳を超えて長生きできたのは煩悩から解放されていたからなのかもしれません。