「この放送は、民間放送43社の共同制作でお送りしています」
第100回を迎えた全国高校サッカー選手権のテレビ中継を見ていると、こんなアナウンスが流れてくる。43社の中には、フジテレビ系列の沖縄テレビ放送、TBS系列の宮崎放送といった日本テレビの系列ではない局も含まれている。これは、まだテレビ中継がなく、注目もされていなかった高校選手権を一大イベントに引き上げた当時の歴史が大きく関与している。
第45回大会が行なわれた1966年度、インターハイでの競技採用を機に、大阪毎日新聞社が主催を終了。日本蹴球協会(現JFA/日本サッカー協会)が大会を引き継ぐなかで、ある動きが起きていた。
1969年に読売サッカークラブ(東京ヴェルディの前身)を立ち上げた読売グループの日本テレビが、70年夏に独自の「高校サッカー研修大会」を開催。日本テレビの系列局が各地元チームに密着して報道するスタイルの魅力を示して、1970年度の第49回大会からの独占中継契約にこぎ着けた。
日本テレビのディレクター(当時)で独占中継の契約を目ざしていた坂田信久さんは、インターハイと時期が近い研修大会で強豪校を集めるのに苦労したが、前年度に史上初の3冠(インターハイ、国民体育大会、高校選手権)を達成した浦和南高校(埼玉県)に日参。松本暁司監督の協力を得て大会を成功させた。
一方、同時期に大手広告代理店の電通から接触を受けていた全国高校体育連盟(高体連)サッカー部は、日本テレビ系列で網羅されない地方で放送がないことに難色を示した。そこで日本蹴球協会、日本テレビ、電通が協議。電通は、日本テレビ系列外のローカル局や県域UHF局(地上波独立テレビ局)に掛け合って放送網を拡大して課題を解決する。そして、年越し番組の「ゆく年くる年」以来となる他系列共同制作が実現した。
翌年の第50回大会は、全国の民間放送38局で中継事業をスタート。日本テレビ系列のローカル局増設等により、いくつか放送局が変更、増加したが、当初から日本テレビは幹事としての立場を貫き、全国の各局が都道府県大会から全国大会まで、日本テレビと同じ立場でこの放送事業に取り組み続けている。他局との共同制作であるのには、こうした歴史的背景があったのだ。
系列の枠を超え、全国各地のテレビマンが必死に中継やイベントを盛り上げ続けてきたことが、大会のメジャー化に大きく貢献した。
当初、38局のうち3分の2は、サッカー中継の経験がなかった。そこで、全国各局の中継担当者が、当時よみうりランドにあったホテルで3泊4日の研修会を実施。撮影方法、字幕の付け方などを共有し、グラウンドでは実技も行なった。講師は、日本代表の長沼健監督と八重樫茂生コーチが務め、競技未経験のアナウンサーやディレクターに実技をレクチャーしたという。これがサッカー中継のレベルをぐんと引き上げる機会となったのだ。
実技指導の理由は、それまでの実況にあった。坂田さんは当時をこう振り返る。
「ある地方局が放送した県大会で、アナウンサーが『あっ、またミスです』と繰り返していました。プレーの失敗は仕方ないけど、サッカーは面白いですよと視聴者に勧めているのに、言葉でまた価値を下げてしまっていました。
でも、自分で実際にボール(当時のボール表面は柔らかいゴムではなく硬い牛皮)を蹴ってみると、キックの難しさやプレーの狙いが分かるようになり、同じミスでも『あっ、惜しい。何番の選手に合わせようとしましたが、残念。届きませんでした』と、良くなりました。この大会の放送は、サッカー界、高校生にエールを送る趣旨ではじめた事業ですからね」
日本では、サッカーの映像を見る機会そのものが貴重だった時代だ。研修会を通じて、テレビマンたちはサッカーの見方、映し方、報じ方を各局で共有していった。さらに、各局が独自の努力も積み重ねる。各都道府県の決勝戦を中継するだけでなく、代表校が決まると全国大会出場に向けて特集を組むなど一般認知に貢献。「自分の出身県の代表チーム」としての存在感を与えていった。
高校サッカーは、注目イベントへと成長。大会に憧れを持つようになった高校生のひたむきなプレーが、次の熱狂と注目を生み出す循環が生まれた。中継開始後、日本テレビ放送網社長の小林與三次さんの提言により、1983年度の第62回大会から都道府県代表制度(それ以前は全国7ブロック代表制)に変更されたことも、大会が日本全国を巻き込んで盛り上がる大きな転機となった。
高校サッカーの中継は、革新的な手法も生み出した。日本の民間放送局で試合中にCMを挟まないサッカー中継を行なったのは、高校選手権が初めてだ。
のちに1986年トヨタカップ(クラブワールドカップの前身)の第7回大会、ステアウア・ブカレスト(ルーマニア)対リーベル・プレート(アルゼンチン)戦での唯一の得点がCM放送中に決まってしまい、以降はCMを挟まなくなったが、高校選手権ではその数年前からCMなしの中継を行なっていた。
大会のスポンサー契約を獲得した電通の営業担当に直接頼みに行った坂田さんは「もう会社(日本テレビ)に来ないくらい偉くなっていた方だったから、会いに行ったんです。そうしたら『先方は宣伝効果なんか期待していないから、大丈夫だよ』と言われました。本当の一流企業が社会貢献として大会を支えてくれていたんです」と、当時を振り返る。電通は会場内に広告看板を設置してテレビ中継に映すという現在につながる手法を確立し、大会の市場価値を高めた。
放送事業の中心にいた坂田さんは、大会に関心が集まるように、多くの人を巻き込んだ。中継が始まった当時は、まだ国内にサッカーを現地観戦する文化がなく、動員に苦労した。そこで、動員のリーダーをハーフタイムにインタビューして貢献に応えた。大会を盛り上げる人の価値を高め、大応援でチームを後押しするスタイルを促進する意味合いがあったという。
また、各地の熱心なサッカー指導者を解説者に起用。指導者が勤務先で評価を得るきっかけとなり、遠征出張などで指導者が職場の協力を得やすい環境作りにも貢献した。一般人の関心をいかに獲得するか。番組作りでも、中継現場となる試合会場の環境作りでも、工夫を重ねていった。
近年は「最後のロッカールーム」というタイトルで、全国大会敗退チームの試合後の様子を伝える映像が視聴者の感動を呼んでいる。これを最初に行なったのも坂田さんだった。
1978年度、第57回大会の準決勝だ。のちに2012年ロンドン五輪でU-23日本代表監督を務める関塚隆が主将の八千代高校(千葉県)のロッカーにカメラを入れた。青木克己監督が、東京教育大サッカー部の同期生で理解を得られたためだ。
「大会を多くの人に注目されるものにしようとしていることを青木は分かってくれていて、撮らせてくれました。良いものが撮れたので、その日の夜に放送しました。翌朝、電話がかかってきて、今すぐ日本サッカー協会に来いと言われ、『君が熱心なのは分かるが、あそこはカメラが入るところではない』と関係者から言われました。今、どうやってロッカーを撮れるようになったのか、私は知りませんが、なかには良い映像もありますよね」
今も全国大会前にグラウンドや学校へ取材に行くと、各テレビ局の取材陣を見かけることがある。まだ誰もサッカーを見てくれなかった時代から、系列の枠組みを超えて工夫を重ね、人々の関心を集めていったテレビマンたちの努力もまた、この大会が注目の第100回を迎えるに至った歴史の大きな支えだ。
<了>
取材・文●平野貴也
PROFILE
坂田信久/さかた・のぶひさ
1941年2月20日、富山県生まれ。富山中部高時代に全国高校サッカー選手権に2度出場。東京教育大(現・筑波大)でもプレーした。卒業後の1963年に日本テレビ入社。スポーツ局で辣腕を振るい、選手権の首都圏移転やトヨタカップ誘致に関わり、箱根駅伝の完全生中継化にも尽力した。東京ヴェルディ1969元社長。国士舘大学・大学院元教授。
記事提供:サッカーダイジェストWEB