【安倍晋三・沈黙の仮面】(03) 経歴から消された“成蹊大学”と“アメリカ留学”、ホームシックに父は声を荒げた
前回、安倍晋三首相の大学時代の恩師の厳しい言葉を紹介した。「安倍君は保守主義を主張しているが、そんな勉強はしていなかった」。5月20日の党首討論で、安倍氏はポツダム宣言について問われ、「詳らかに承知している訳ではございません」と答えた。過去には「アメリカが原子爆弾を落とした後に叩きつけたもの」と、事実誤認を堂々と述べたこともある(同宣言は原爆投下の前に出された)。自分を大きく見せようとするパフォーマンスに執心する割に、本来なら自信の裏付けとなる知識や教養を磨こうとしないところがある。学歴や留学歴に関する歪んだ意識と記憶がそうさせるのだろうか?
最初の首相就任2ヵ月前の2006年7月、安倍は自伝的政治観を綴った『美しい国へ』(文藝春秋)を上梓した。その中で安倍は、日米安保条約改定を成し遂げた祖父・岸信介の業績について書いている。「祖父は、幼いころからわたしの目には、国の将来をどうすべきか、そればかり考えていた真摯な政治家としか映っていない。それどころか、世間のごうごうた る非難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思うようになっていった」。それから7年経った2013年1月、首相に返り咲いた安倍は旧著に最終章を加筆、『新しい国へ』(『美しい国へ』の完全版)を出した。リニューアル版の最後のページを目にした時に「アレッ」と違和感を覚えたのは、筆者が安倍に特別な思い入れがあったからこそだろう。それは、普通は気付かないような小さな変更だった。『美しい国へ』の略歴にあった次の箇所が、そっくり削られていたのである。「成蹊大学法学部卒業。神戸製鋼所勤務を経て、1982年に父・安倍晋太郎の外務大臣の秘書官に」。当時、この不自然な“校正”に、安倍を知る自民党議員も「学歴コンプレックスの裏返しと受け止められかねないのに」と苦笑していた。なぜ、安倍は最終学歴まで削除する必要があったのか?
前号では、安倍・岸家という“東大法学部進学”を宿命づけられた家系に育った安倍が、エスカレーターで成蹊大学法学部に進み、周囲の期待や祖父・岸の「官僚になれ」という言葉に重圧を感じていたと書いた。そうした重圧に気持ちの整理をつけ、安倍が自分の目指すべき進路を“政治家”と定めるまでには、道を見失い霧の中を彷徨い歩く姿に似た“彷徨の時期”があった。前回詳述したように、学生時代の安倍は赤いアルファロメオで通学して学友を驚かせ、仲間と雀荘に通い、アーチェリー部に所属して青春を謳歌した。当時、成蹊大学アーチェリー部は関東学生リーグの2部だった。「うちの大学の運動部の中では強豪で、練習もきつい。年に100日くらい合宿があって、安倍家の河口湖の別荘も打ち上げによく使った」(同窓生)。部活動仲間の1人が、そう振り返る。「安倍さんは当時は華奢で痩せていて、腕前は補欠と正選手の間くらい。団体戦には交代選手として出場していた。そのくらいのポジションだと途中で練習に身が入らなくなる部員もいるが、彼は真面目にやっていた」。そして、大学4年時には運動部の予算配分を調整する体育会本部の会計局長に選ばれた。「役員は先輩の指名で決まる。『財布の紐はあいつに任せておけば安心』という信頼感があった」とは、別の同窓生の述懐だ。「金銭感覚がしっかりしている」という評価は、安倍の知られざる一面と言っていい。安倍家の養育係だった久保ウメはこう回想している。「『余計な金は持たせるな』とするパパ(晋太郎)の方針で、子供の頃から小遣いが少なかった。だから、晋ちゃんは小さい頃からお釣りの計算も、お小遣い管理もしっかりする子だった」。因みに、中学時代に所属した地理研究部でも安倍は会計を任されている。



サークル活動に打ち込む半面、安倍は政治家への道に進むことを逡巡していたようだ。幼児期から「パパの後をやる」と言い、中学・高校時代に安保条約を巡って教師と激しく論争する一面を見せた安倍の政治志向が、大学時代は影を潜めていた。前号では、大学時代の安倍が岸から「官僚になれ」と勧められて悩み、友人に「俺は官僚には向いていない」と打ち明けていたことを紹介した。別のゼミの友人はこうも語った。「本当に跡を継ぐ気であれば、もっと色々な知識を吸収して、『将来、日本はこうあるべきだ』といったモチベーションがあってもよかった。でも、当時の安倍にはそういうビジョンは感じなかったし、その片鱗を語ることも無かった」。筆者は10人近い学友に聞き取り取材をしたが、約半数は「政治家になる気は無かったのではないか?」という印象を述懐している。大学時代の4年間部活動を共にした友人は、「安倍君から『政治家を継ぐ』とはっきり聞かされたのは、卒業間際だった」と明かす。「体育会本部の打ち上げか何かの時に、酒を飲まない彼が真剣な顔で、『将来は政治の道に進み、弱い人たちに光を当てるような政治家になりたいんだ』という言い方をした。それまで、『こいつは将来、本当は何になりたいのだろうか?』と思わせるほどホワーッとした印象を与えるだけで、将来をはっきり語るのを見たことが無かったから、この時、『やっぱり政治家を継ぐ気なんだ』と初めてわかった」。それでも、政治家を目指す上で何をすればいいのか――明確な“解”を見出すことは難しかったようだ。
大学卒業が迫っても、安倍が就職活動をした形跡は無く、卒業後は「本人の希望」(母・洋子)で渡米している。「特段、『学究心に燃えて』ということでもなかった。『習っていた英会話に多少なりとも磨きをかけられれば……』という程度の気持ちだった」──嘗て安倍が筆者に明かしたアメリカ行きの目的だ。今年のゴールデンウィークに訪米した安倍は、アメリカ議会での演説後にロサンゼルスに立ち寄り、留学先だった南カリフォルニア大学(以後、南加大)のキャンパスを訪ねている。留学時代の学友は、「MBA(経営修士号)を取ろうといったような意気込みではなく、単なる遊学だったのだが、あの頃が晋ちゃんが一番将来に悩んでいた時期ではないか?」と見ている。安倍は、どんな留学生活を過ごしたのだろうか? 1977年に大学卒業した後、そう日を置かず意気揚々と羽田からロスに旅立つ安倍を、ある学友は仲間数人と母・洋子、実弟・信夫に混じって見送ったという。実は“留学”といっても、ロスでの安倍は最初から南加大に通った訳ではない。祖父・岸の代から安倍家と親交があった華僑のM氏の世話でイタリア系の老婦人の家に下宿しながら、英語学校『ヘイワード校』で語学研修し、南加大に行くのは翌1978年1月になってからだ。滞米中、安倍は慣れない外国暮らしもあって“ホームシック”を募らせていく。洋子は、「Mさんは責任感の強い方で、『晋三が寂しがっているようだから』と自宅に呼んでくれたり、遊びに連れて行ったり、世話を頂いたようです」と、その一端を語っている。学友たちの間に「安倍がアメリカでホームシックにかかった」との話が広がるほど、安倍は友人に手紙を頻繁に出していた。「こんな友人ができたとか、便箋5~6枚に日常を書いてくる。何ということはない内容だったが、頻繁に手紙が来れば『寂しいんだろう』と思ってしまう」(学友)
こんなエピソードもある。安倍が矢鱈と東京の実家にコレクトコールをかけてくる為、父・晋太郎が堪忍袋の緒を切った。「毎晩のようにかけてくる国際電話代が10万円にもなる月が続いた。流石に晋太郎さんが、『何を甘えているんだ。それなら日本に戻せ!』と声を荒らげた」(安倍家関係者)。この長電話の一件もあってか、安倍は1年3ヵ月の南加大生活を切り上げ、1979年春に“途中帰国”している。学位の取得も無かった。自民党幹事長時代、この“留学”経歴が国会で問題視されたことがある。安倍はそれまで経歴書に“南カリフォルニア大学政治学科に2年間留学”としていたが、実際の留学期間は1年強で、しかも政治学科に籍を置きながら政治学の単位は取得していなかった(この問題は本誌2004年2月13日号がスクープした)。以後、経歴から“留学”は消され、現在は安倍の公式サイトのプロフィール欄にも記載は無い。

帰国した安倍には、“就職”という人生の岐路が待っていた。当時、農林大臣や官房長官を歴任し、飛ぶ鳥を落とす勢いだった大物政治家・晋太郎の息子とあって、企業からは引く手数多だった。晋太郎は「山口県人が経営する中堅商社で社会経験を……」と考えていたが、最終的には地元・下関に長府製作所を置く神戸製鋼所に入社する。安倍の3年7ヵ月のサラリーマン生活をお膳立てしたのは、岸にも仕えた古参秘書のAだ。これには選挙区事情が絡んでいた。中選挙区制時代、晋太郎の選挙区(定数4)には、他に田中龍夫(元通産相)・林義郎(元蔵相、現在の林芳正農水相の父)という自民党実力者がいた。晋太郎はトップ当選を続けていたものの、大票田の下関は地元のバス会社『サンデン交通』等を経営する林家の地盤で、食い込めずにいた。Aは、「後継者の安倍を地元の大企業に入社させれば、“林王国”切り崩しに繋がり、晋太郎の選挙基盤も盤石になる」と、安倍の就職を晋太郎の選挙戦略と結び付けて動き出す。言わば“政略就職”だった訳だ。Aは、事前に晋太郎や鉄鋼大手5社とパイプがあった岸の了承を取り付け、神戸製鋼側にも根回しして内堀と外堀を埋めた上で、本丸の安倍政略にかかる。「神戸製鋼に入ることを、お爺ちゃん(岸)も喜んでいる」。安倍にとって、“お爺ちゃん”の名前は殺し文句である。安倍が反対する筈もなかった。だが、タイミングが悪かった。安倍が帰国した頃には、入社試験も入社式も終わっていたからだ。国内には配属場所が無かった為、「会社からは、『英語が話せるならニューヨーク事務所に1年ほど行ってほしい』と申し出があった。翌年、日本に戻して他の新入社員同様、溶鉱炉の現場を経験させることになった」(A)。同社の記録では、安倍の入社日は“1979年5月1日”となっている。留学を打ち切って帰国した直後である。
政略就職に無抵抗だった安倍だったが、皮肉にも待っていたのは留学に控折したアメリカへの“Uターン”だった。当時、神戸製鋼所ではアメリカ駐在は妻子同伴が原則だった中で、また1人暮らしを強いられた安倍は、「『新入社員は溶鉱炉に配属されるんじゃないのか』と不満顔だった」(A)という。再度のアメリカ行きに心細さを禁じ得なかったのだろう。ニューヨーク時代の上司が振り返る。「所長から『安倍晋太郎さんの息子を1年預かることになった。色々教えてやってくれ』と言われ、皆『代議士の息子のお守りなんて……』と文句を言ったものだった。ところが、やってきたのは線が細くて腰の低い好青年。『これで将来、代議士になれるだろうか?』と、逆に心配するほどだった」。安倍は総務チームに配属され、出張者のアテンドから車の運転まで熟した。「独身は彼1人だけだったから、寂しがらせないように週末はゴルフに誘って、帰りは『晩飯食っていけよ』と社員が順番に自宅に招いて食事をした。彼は絶対誘いを断わらなかったから、皆に可愛がられていた」(同前)。1年後、安倍は日本に戻って新入社員と一緒に1年遅れの新人研修を受けた後、兵庫県・加古川製鉄所の厚板部門に配属され、6畳1間の独身寮の相部屋で同僚と寝起きすることになる。その部屋を案内してくれたルームメイトが話した。「新入社員の仕事は現場と営業の調整。厚板部門は独特な空気で、現場には叩き上げの個性豊かな人が多い。溶鉱炉の前で仕事をするから気も荒い。彼らに工程の指令書を渡して『お願いします』と頭を下げるのが新入社員の仕事だが、安倍さんは現場気質の人たちに上手く対応していた」

だが、溶鉱炉の現場勤務は長く続かなかった。生来の腸の弱さもあってか、夏になると安倍は体調を崩し、ルームメイトにも知らせず忽然と姿を消す。東京の病院に入院し、療養生活を送る為だった。「現場との交渉でストレスが溜まったのかもしれない。1980年の夏頃だったと記憶するが、我々が現場にいる間に、『お母さんが寮に来て荷物を持って行かれた』と聞いた。安倍さんは秋に一度戻ってきたが、『現場勤めは無理』と判断され、1982年2月頃に東京本社に移った」(同前)。次に鉄鋼輸出部に配属された安倍には、日常業務に加えて奇妙な“仕事”が待っていた。頭を掻きながら元上司が話す。「私は仕事で毎晩お酒を飲む為、医者に『酒を飲みたいなら、夕方に牛乳を飲んでからにしろ』と言われていた。それで、毎日夕方5時になると机のベルを押し、一番若手だった安倍さんに小銭を渡して牛乳を買いに行ってもらった。その内、ベルを鳴らすだけで買いに行ってくれるようになった。将来、晋太郎さんの跡を継ぐ人に悪いことをした」。本社勤務時代、安倍は大きな商談を任されるようになり、仕事が面白くなっていったようだ。実際、筆者に「あの頃は燃えた」と振り返っている。「彼は課長の私が『やめておけ』という案件を、諦めないでこっそり商社と進めていた。『このヤロー』と思っていたら、翌年に大きなビジネスになるケースが結構あった。リスクを取りながら、取り引き相手の事情を汲んで上手くやっていく才能があった」(元上司)。輸出部配属から2年目の1982年、仕事への意欲が加速していく頃、大きな転機が訪れる。同年11月誕生した中曽根康弘内閣で外相に就任した父・晋太郎が突然、「会社を辞めて秘書官になれ」と言ってきたのだ。「こっちも何十億の商売をしているんだ。会社は辞めない!」。安倍は、晋太郎の一方的な言い方に猛然と反発した。父子の確執の板挟みになった神戸製鋼所では、社を挙げての“安倍説得作戦”が展開されることになる。 《敬称略》
野上忠興(のがみ・ただおき) 政治ジャーナリスト。1940年、東京都生まれ。1964年に早稲田大学政治経済学部卒。共同通信社会部・横浜支局を経て、政治部。首相官邸・自民党福田派&安倍派を中心に取材し、自民党キャップ・政治部次長等を歴任。2000年に退社した後は政治ジャーナリストとして活躍。著書に『ドキュメント安倍晋三』(講談社)等。
2015年6月5日号掲載

最初の首相就任2ヵ月前の2006年7月、安倍は自伝的政治観を綴った『美しい国へ』(文藝春秋)を上梓した。その中で安倍は、日米安保条約改定を成し遂げた祖父・岸信介の業績について書いている。「祖父は、幼いころからわたしの目には、国の将来をどうすべきか、そればかり考えていた真摯な政治家としか映っていない。それどころか、世間のごうごうた る非難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思うようになっていった」。それから7年経った2013年1月、首相に返り咲いた安倍は旧著に最終章を加筆、『新しい国へ』(『美しい国へ』の完全版)を出した。リニューアル版の最後のページを目にした時に「アレッ」と違和感を覚えたのは、筆者が安倍に特別な思い入れがあったからこそだろう。それは、普通は気付かないような小さな変更だった。『美しい国へ』の略歴にあった次の箇所が、そっくり削られていたのである。「成蹊大学法学部卒業。神戸製鋼所勤務を経て、1982年に父・安倍晋太郎の外務大臣の秘書官に」。当時、この不自然な“校正”に、安倍を知る自民党議員も「学歴コンプレックスの裏返しと受け止められかねないのに」と苦笑していた。なぜ、安倍は最終学歴まで削除する必要があったのか?
前号では、安倍・岸家という“東大法学部進学”を宿命づけられた家系に育った安倍が、エスカレーターで成蹊大学法学部に進み、周囲の期待や祖父・岸の「官僚になれ」という言葉に重圧を感じていたと書いた。そうした重圧に気持ちの整理をつけ、安倍が自分の目指すべき進路を“政治家”と定めるまでには、道を見失い霧の中を彷徨い歩く姿に似た“彷徨の時期”があった。前回詳述したように、学生時代の安倍は赤いアルファロメオで通学して学友を驚かせ、仲間と雀荘に通い、アーチェリー部に所属して青春を謳歌した。当時、成蹊大学アーチェリー部は関東学生リーグの2部だった。「うちの大学の運動部の中では強豪で、練習もきつい。年に100日くらい合宿があって、安倍家の河口湖の別荘も打ち上げによく使った」(同窓生)。部活動仲間の1人が、そう振り返る。「安倍さんは当時は華奢で痩せていて、腕前は補欠と正選手の間くらい。団体戦には交代選手として出場していた。そのくらいのポジションだと途中で練習に身が入らなくなる部員もいるが、彼は真面目にやっていた」。そして、大学4年時には運動部の予算配分を調整する体育会本部の会計局長に選ばれた。「役員は先輩の指名で決まる。『財布の紐はあいつに任せておけば安心』という信頼感があった」とは、別の同窓生の述懐だ。「金銭感覚がしっかりしている」という評価は、安倍の知られざる一面と言っていい。安倍家の養育係だった久保ウメはこう回想している。「『余計な金は持たせるな』とするパパ(晋太郎)の方針で、子供の頃から小遣いが少なかった。だから、晋ちゃんは小さい頃からお釣りの計算も、お小遣い管理もしっかりする子だった」。因みに、中学時代に所属した地理研究部でも安倍は会計を任されている。
サークル活動に打ち込む半面、安倍は政治家への道に進むことを逡巡していたようだ。幼児期から「パパの後をやる」と言い、中学・高校時代に安保条約を巡って教師と激しく論争する一面を見せた安倍の政治志向が、大学時代は影を潜めていた。前号では、大学時代の安倍が岸から「官僚になれ」と勧められて悩み、友人に「俺は官僚には向いていない」と打ち明けていたことを紹介した。別のゼミの友人はこうも語った。「本当に跡を継ぐ気であれば、もっと色々な知識を吸収して、『将来、日本はこうあるべきだ』といったモチベーションがあってもよかった。でも、当時の安倍にはそういうビジョンは感じなかったし、その片鱗を語ることも無かった」。筆者は10人近い学友に聞き取り取材をしたが、約半数は「政治家になる気は無かったのではないか?」という印象を述懐している。大学時代の4年間部活動を共にした友人は、「安倍君から『政治家を継ぐ』とはっきり聞かされたのは、卒業間際だった」と明かす。「体育会本部の打ち上げか何かの時に、酒を飲まない彼が真剣な顔で、『将来は政治の道に進み、弱い人たちに光を当てるような政治家になりたいんだ』という言い方をした。それまで、『こいつは将来、本当は何になりたいのだろうか?』と思わせるほどホワーッとした印象を与えるだけで、将来をはっきり語るのを見たことが無かったから、この時、『やっぱり政治家を継ぐ気なんだ』と初めてわかった」。それでも、政治家を目指す上で何をすればいいのか――明確な“解”を見出すことは難しかったようだ。
大学卒業が迫っても、安倍が就職活動をした形跡は無く、卒業後は「本人の希望」(母・洋子)で渡米している。「特段、『学究心に燃えて』ということでもなかった。『習っていた英会話に多少なりとも磨きをかけられれば……』という程度の気持ちだった」──嘗て安倍が筆者に明かしたアメリカ行きの目的だ。今年のゴールデンウィークに訪米した安倍は、アメリカ議会での演説後にロサンゼルスに立ち寄り、留学先だった南カリフォルニア大学(以後、南加大)のキャンパスを訪ねている。留学時代の学友は、「MBA(経営修士号)を取ろうといったような意気込みではなく、単なる遊学だったのだが、あの頃が晋ちゃんが一番将来に悩んでいた時期ではないか?」と見ている。安倍は、どんな留学生活を過ごしたのだろうか? 1977年に大学卒業した後、そう日を置かず意気揚々と羽田からロスに旅立つ安倍を、ある学友は仲間数人と母・洋子、実弟・信夫に混じって見送ったという。実は“留学”といっても、ロスでの安倍は最初から南加大に通った訳ではない。祖父・岸の代から安倍家と親交があった華僑のM氏の世話でイタリア系の老婦人の家に下宿しながら、英語学校『ヘイワード校』で語学研修し、南加大に行くのは翌1978年1月になってからだ。滞米中、安倍は慣れない外国暮らしもあって“ホームシック”を募らせていく。洋子は、「Mさんは責任感の強い方で、『晋三が寂しがっているようだから』と自宅に呼んでくれたり、遊びに連れて行ったり、世話を頂いたようです」と、その一端を語っている。学友たちの間に「安倍がアメリカでホームシックにかかった」との話が広がるほど、安倍は友人に手紙を頻繁に出していた。「こんな友人ができたとか、便箋5~6枚に日常を書いてくる。何ということはない内容だったが、頻繁に手紙が来れば『寂しいんだろう』と思ってしまう」(学友)
こんなエピソードもある。安倍が矢鱈と東京の実家にコレクトコールをかけてくる為、父・晋太郎が堪忍袋の緒を切った。「毎晩のようにかけてくる国際電話代が10万円にもなる月が続いた。流石に晋太郎さんが、『何を甘えているんだ。それなら日本に戻せ!』と声を荒らげた」(安倍家関係者)。この長電話の一件もあってか、安倍は1年3ヵ月の南加大生活を切り上げ、1979年春に“途中帰国”している。学位の取得も無かった。自民党幹事長時代、この“留学”経歴が国会で問題視されたことがある。安倍はそれまで経歴書に“南カリフォルニア大学政治学科に2年間留学”としていたが、実際の留学期間は1年強で、しかも政治学科に籍を置きながら政治学の単位は取得していなかった(この問題は本誌2004年2月13日号がスクープした)。以後、経歴から“留学”は消され、現在は安倍の公式サイトのプロフィール欄にも記載は無い。
帰国した安倍には、“就職”という人生の岐路が待っていた。当時、農林大臣や官房長官を歴任し、飛ぶ鳥を落とす勢いだった大物政治家・晋太郎の息子とあって、企業からは引く手数多だった。晋太郎は「山口県人が経営する中堅商社で社会経験を……」と考えていたが、最終的には地元・下関に長府製作所を置く神戸製鋼所に入社する。安倍の3年7ヵ月のサラリーマン生活をお膳立てしたのは、岸にも仕えた古参秘書のAだ。これには選挙区事情が絡んでいた。中選挙区制時代、晋太郎の選挙区(定数4)には、他に田中龍夫(元通産相)・林義郎(元蔵相、現在の林芳正農水相の父)という自民党実力者がいた。晋太郎はトップ当選を続けていたものの、大票田の下関は地元のバス会社『サンデン交通』等を経営する林家の地盤で、食い込めずにいた。Aは、「後継者の安倍を地元の大企業に入社させれば、“林王国”切り崩しに繋がり、晋太郎の選挙基盤も盤石になる」と、安倍の就職を晋太郎の選挙戦略と結び付けて動き出す。言わば“政略就職”だった訳だ。Aは、事前に晋太郎や鉄鋼大手5社とパイプがあった岸の了承を取り付け、神戸製鋼側にも根回しして内堀と外堀を埋めた上で、本丸の安倍政略にかかる。「神戸製鋼に入ることを、お爺ちゃん(岸)も喜んでいる」。安倍にとって、“お爺ちゃん”の名前は殺し文句である。安倍が反対する筈もなかった。だが、タイミングが悪かった。安倍が帰国した頃には、入社試験も入社式も終わっていたからだ。国内には配属場所が無かった為、「会社からは、『英語が話せるならニューヨーク事務所に1年ほど行ってほしい』と申し出があった。翌年、日本に戻して他の新入社員同様、溶鉱炉の現場を経験させることになった」(A)。同社の記録では、安倍の入社日は“1979年5月1日”となっている。留学を打ち切って帰国した直後である。
政略就職に無抵抗だった安倍だったが、皮肉にも待っていたのは留学に控折したアメリカへの“Uターン”だった。当時、神戸製鋼所ではアメリカ駐在は妻子同伴が原則だった中で、また1人暮らしを強いられた安倍は、「『新入社員は溶鉱炉に配属されるんじゃないのか』と不満顔だった」(A)という。再度のアメリカ行きに心細さを禁じ得なかったのだろう。ニューヨーク時代の上司が振り返る。「所長から『安倍晋太郎さんの息子を1年預かることになった。色々教えてやってくれ』と言われ、皆『代議士の息子のお守りなんて……』と文句を言ったものだった。ところが、やってきたのは線が細くて腰の低い好青年。『これで将来、代議士になれるだろうか?』と、逆に心配するほどだった」。安倍は総務チームに配属され、出張者のアテンドから車の運転まで熟した。「独身は彼1人だけだったから、寂しがらせないように週末はゴルフに誘って、帰りは『晩飯食っていけよ』と社員が順番に自宅に招いて食事をした。彼は絶対誘いを断わらなかったから、皆に可愛がられていた」(同前)。1年後、安倍は日本に戻って新入社員と一緒に1年遅れの新人研修を受けた後、兵庫県・加古川製鉄所の厚板部門に配属され、6畳1間の独身寮の相部屋で同僚と寝起きすることになる。その部屋を案内してくれたルームメイトが話した。「新入社員の仕事は現場と営業の調整。厚板部門は独特な空気で、現場には叩き上げの個性豊かな人が多い。溶鉱炉の前で仕事をするから気も荒い。彼らに工程の指令書を渡して『お願いします』と頭を下げるのが新入社員の仕事だが、安倍さんは現場気質の人たちに上手く対応していた」
だが、溶鉱炉の現場勤務は長く続かなかった。生来の腸の弱さもあってか、夏になると安倍は体調を崩し、ルームメイトにも知らせず忽然と姿を消す。東京の病院に入院し、療養生活を送る為だった。「現場との交渉でストレスが溜まったのかもしれない。1980年の夏頃だったと記憶するが、我々が現場にいる間に、『お母さんが寮に来て荷物を持って行かれた』と聞いた。安倍さんは秋に一度戻ってきたが、『現場勤めは無理』と判断され、1982年2月頃に東京本社に移った」(同前)。次に鉄鋼輸出部に配属された安倍には、日常業務に加えて奇妙な“仕事”が待っていた。頭を掻きながら元上司が話す。「私は仕事で毎晩お酒を飲む為、医者に『酒を飲みたいなら、夕方に牛乳を飲んでからにしろ』と言われていた。それで、毎日夕方5時になると机のベルを押し、一番若手だった安倍さんに小銭を渡して牛乳を買いに行ってもらった。その内、ベルを鳴らすだけで買いに行ってくれるようになった。将来、晋太郎さんの跡を継ぐ人に悪いことをした」。本社勤務時代、安倍は大きな商談を任されるようになり、仕事が面白くなっていったようだ。実際、筆者に「あの頃は燃えた」と振り返っている。「彼は課長の私が『やめておけ』という案件を、諦めないでこっそり商社と進めていた。『このヤロー』と思っていたら、翌年に大きなビジネスになるケースが結構あった。リスクを取りながら、取り引き相手の事情を汲んで上手くやっていく才能があった」(元上司)。輸出部配属から2年目の1982年、仕事への意欲が加速していく頃、大きな転機が訪れる。同年11月誕生した中曽根康弘内閣で外相に就任した父・晋太郎が突然、「会社を辞めて秘書官になれ」と言ってきたのだ。「こっちも何十億の商売をしているんだ。会社は辞めない!」。安倍は、晋太郎の一方的な言い方に猛然と反発した。父子の確執の板挟みになった神戸製鋼所では、社を挙げての“安倍説得作戦”が展開されることになる。 《敬称略》
野上忠興(のがみ・ただおき) 政治ジャーナリスト。1940年、東京都生まれ。1964年に早稲田大学政治経済学部卒。共同通信社会部・横浜支局を経て、政治部。首相官邸・自民党福田派&安倍派を中心に取材し、自民党キャップ・政治部次長等を歴任。2000年に退社した後は政治ジャーナリストとして活躍。著書に『ドキュメント安倍晋三』(講談社)等。
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