演説に臨む自民党の安倍晋三元首相(手前)。右奥は逮捕された山上徹也容疑者=8日、奈良市(目撃者提供)

 例年にない猛暑の参院選最終盤。安倍晋三元首相の演説を聞こうと集まった人たちの熱気は、ごう音に吹き飛ばされた。「ドーン」「ドーン」。間隔を空け、花火を打ち上げたような大きな銃声が2回にわたり響き渡った。何が起きたんだ-。現場にいた記者が事態を察知したのは、多くの聴衆の視線を受け、表情にわずかな笑みを残したままの元首相が、静かにその場に崩れ落ちた時だった。

 事件は8日午前11時半ごろ発生。その1時間半ほど前、奈良市の近鉄大和西大寺駅前の現場に着いた。暑さをしのぐため商業施設に入ると、黒いスーツ姿の警備関係者がせわしなく行き交い、物々しい雰囲気。取材先の選挙関係者も「やっぱり安倍さんは人が入るんやね。すごいわ」と驚くほどだった。

 午前11時10分ごろになると、聴衆が数百人集まり、街頭演説が始まった。地元首長や国会議員、県議がそれぞれ候補者への支援を訴える中、安倍氏が到着した。現場は一気に沸き、その姿を一目見ようとさらに大きな人だかりになった。

 自民党公認候補が追い上げられていると伝えられ、安倍氏の奈良入りが決まったのは前日。急な応援にもかかわらず、安倍氏はマイクを握ると軽妙な語り口で候補者の人柄をたたえ、すぐさま聴衆の心をつかんだように見えた。

 それから数分後のことだった。どこからともなく、安倍氏の背後約5メートルの車道上に一人の男が現れた。灰色のポロシャツに茶系のズボン、白いマスクを着けた男は、ためらうそぶりもなく、黒い物体を体の前に掲げた。今思えばあれが銃だったのか。ごう音が響いたのはその直後だった。

 「きゃー」。一斉に悲鳴が上がった。2回の銃声の間には、1~2秒ほどの間隔があった。立ち込める白煙と火薬のような臭い。記者が見つめる約10メートル先で安倍氏は力なく崩れ落ちた。その表情は、苦痛に顔をゆがめるでもなく、多くの聴衆を目に捉えた穏やかな様子のままだった。

 警護の男性ら4~5人が一斉に男に飛びかかった。男は激しく抵抗することもなく、すぐ近くで押さえつけられた。「医療関係者はいませんか!」。倒れている安倍氏の元に慌てて駆け寄ると、陣営スタッフが何度も大声を張り上げていた。安倍氏は白いワイシャツの胸の辺りを真っ赤に染め、目をつむっていた。スタッフがすぐさま服をはぎ、自動体外式除細動器(AED)を取り付け、心肺蘇生措置が取られた。

 10分ほどで救急車が到着した。身動き一つしない安倍氏。「総理頑張れ。総理頑張れ」。多くの人の祈るような声に見送られ、病院へと運ばれていった。

 一方、男は近くのバスターミナルの辺りで体を地面に押し付けられ、あおむけで捜査員らしき男性と淡々とやりとりを交わしていた。奈良県警によると、山上徹也容疑者(41)。空を見つめる表情からは、怒りや興奮といった内面をうかがうことはできなかった。(共同通信・酒井由人)

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