Myojo

10000字ロングインタビュー

「腹をくくった」デビュー発表。
歓喜の表情のウラに複雑な想いを抱えていた。
今の笑顔のウラには絶対的な“自信”しかない。
「この7人やから」こそ。

10000字ロングインタビュー

『僕がJr.だったころ』

ジャニーズWEST編

第1回

桐山照史

きりやま・あきと
1989年8月31日生まれ。大阪府出身。A型。身長173cm。
2002年7月13日、ジャニーズ事務所入所。
2014年4月23日、ジャニーズWESTとしてCDデビュー。

※このインタビューは、MYOJO2014年10月号に掲載されたものに、加筆・訂正したものです。

関西Jr.からは10年ぶりとなるデビューグループの誕生。
年越しのタイミングでの発表は、ビッグサプライズになったと同時に、
メンバー編成をめぐる葛藤を生むことになった。
波瀾万丈のJr.時代を走り抜け、
スタートラインに立ったばかりのジャニーズWESTが、
今だから語れる強い想い…。

4人でやっていこうって一度は腹をくくりました

──大晦日のカウントダウンコンサートで、一度は中間(淳太)くん、重岡(大毅)くん、小瀧(望)くん、桐山(照史)くんの4人でデビュー発表。複雑な心境だったんじゃない?
「もちろん、7人がいいってずっと思ってました。……でも、この言葉を、どう受け取ってもらえるかわからないですけど、僕は一度は“4人でやっていこう”って腹をくくりました」
──そうだったんだ。
「濵ちゃん(濵田崇裕)、神ちゃん(神山智洋)、(藤井)流星……。3人がいたほうがいいに決まってる。でも、俺らが“入れたい”って言うのはおかしいんじゃないかって。“デビューって、そんなに簡単に決められるものなの?”って。そんなん言い出したら、関西Jr.には、ほかのメンバーもおる。がんばらなかったヤツなんて、ひとりもおらん。みんな思いますよね。“じゃあ、俺も入れてよ”って」
──たしかにそうだね。
「めっちゃ悩みました。でも、この世界のいろんなノウハウを持ってる事務所が、ベストな形はこの4人だと決めたなら、なんの知識も経験もない僕らが、感情だけで人数に関して口を出すことは甘いんじゃないかって。デビューって、そんなに軽いものじゃない。4人でやるって決まった以上、“もし7人だったら”なんて逃げ道を作ったら、絶対うまくいかない。だから、カウントダウンのとき、僕は“この4人でデビューなんだ”って、腹をくくったんです」

“絶対に芸能界に入る”って決めてました

──じゃあ、デビューに至るまでを、さかのぼって聞いていくよ。誕生日、8月31日だよね。
「そうなんですよ。夏休みの最後の日。うれしいやら悲しいやら。なんで、そんな日なんって。おかん、もう1日、ガマンしてくれって話ですよ(笑)」
──“照史”って漢字、珍しいよね。
「“てるし”とか“てるふみ”ってよく呼ばれてました。でも、人とちがう読み方ってのが気に入ってます。最近、うれしかったのが、“きりやまあきと”ってケータイに入れると、一発で変換されるんです。デビューしたんだって実感しますね」
──小さいころ、どんなコだったの?
「ヤンチャでしたね。お兄ちゃんが4つ上なんですけど、ようケンカして。あと、ずる賢かった(笑)。カップラーメンが好きだったんですけど、ふだんはおかんがごはん作ってくれるんで、土曜の昼しか食べられなくて。でも、食べたいじゃないですか。フツーに“食べたい”って言ってもダメなんで、先にフタを開けて、“開けちゃったんやけど、食べていい?”って聞きに行くっていう(笑)。それと、ちっちゃいときから、人前でしゃべったり、歌ったり、踊ったりしてたんですよ。近所のガレージをステージにして」
──かなり早いタイミングでダンスを習い始めたんだよね?
「保育園を卒園する前くらいに、おかんに“ダンスやミュージカルを教える教室があるけど?”って聞かれて、“やる!”って即答したんです」
──ダンスに興味があったんだ?
「ないない。“ダンス!? それ美味しい?”くらいな感じ(笑)。でも、“人とちがうことができる!”って思ったんですよね」
──人とちがうことがしたかったんだ。
「変わってたっていうか、人が少ないほう、少ないほうに行きたかったっていうか。単に目立ちたいだけっていうか(笑)。サッカーもやってたことがあるんですけど、流行りで人数が多かったんです。もう、どうやってサボるかってことしか考えてなかったですね」
──ダンスはサボらなかったの?
「1回も休んだことないです。楽しかったから。最初は全然踊れなくて。でも、今もそうなんですけど、“できひん”って思ったら楽しくなるんですよ。落ち込んじゃうんじゃなくて、“絶対、できるようになってやる!!”って。自分ができないことが、意味がわからないっていうか、許せないっていうか」
──そのころ、夢ってあった?
「3年生くらいには、“絶対に芸能界に入る”って決めてました。火がついた瞬間があるんですけど、担任の先生に“SMAPに入りたい”って言ったんです。そしたら、“照史じゃムリだよ〜”って、冗談っぽくはぐらかされて。僕は真剣だったからカチーンときて。“絶対なったる!”って。だから、芸能界に入りたいとか、入れたらとかじゃなくて“入る!”って、その瞬間に決めたんです。今、その先生に本当に感謝してて。導火線に火をつけてくれたから」
──そうだね。
「当時好きやったんがSMAPさんとKinKi Kidsさんで。頭おかしいんですけど、KinKi Kidsの3人目になって踊ってる夢とか、よう見てました。なぜかコンサートしてるのは、近所のガレージなんですけどね(笑)」
──ちなみに、夢の中で桐山くんのポジションは?
「俺、真ん中です(笑)」

YOUはブサイクだけど、心がキレイ

──事務所には、自分で履歴書を送ったの?
「小学校6年生の夏に送りましたね。でも、1年くらい音沙汰なくて。中学になって、僕、いくつかダンス教室に通ってて。その中のひとつの社長に、“授業料いらんから、タレントを目指すコースに入らないか”って言われたことがあったんです」
──期待されてたんだね。
「で、生まれて初めて、“話があるから聞いて”って、親と家族会議みたいなことして。でも、“ダメ”って言われて。授業料はタダにしてもらっても、教材費とかはそれなりの金額で。僕ん家、そんな裕福じゃなかったんで。“バイトできるようになったら働いて返すから”って言ったんですけどね。“やりたい”って想いだけじゃ、どうにもならないこともあんのかなって思ったら、次の日にジャニーズ事務所からオーディションの通知が来て」
──すごいタイミングだね。オーディションはどうだった?
「僕、モヒカンで行ったんです」
──えぇ? ヤンキーだったの?
「ケンカ三昧だったとか、そういうんじゃないですよ。小学校のときから大人に混ざってダンスやってたんで、まわりの大人を見て、“その髪型、カッコいいな”ってマネするようになって。あ、一度、親父に“パーマかけてみろ”って言われて連れてかれて、パンチパーマみたいになっちゃったこととかもあります(笑)。まあでも、モヒカンは中学に上がって、なめられたらあかんって思ってやったんですけどね」
──それでよくジャニーズに入れたね。
「ですよね(笑)。しかも、クソビッグマウスで。『THE夜もヒッパレ』って番組があったんですけど、大野(智)くんとか、何人かのJr.でできたMAってユニットが出てて。オーディションの面接で、“MAさん、余裕で越しますわ!”ってのたまいましたからね」
──ハハハハハ。
「で、なんか面接中、入り口の壁にもたれかかって、僕をずっと見てるおじいちゃんがいたんですよ。ずっと見てるんで、“なんやねん、こいつ”って、にらみ合いになって(笑)」
──それって、もしかして……。
「そう(笑)。でも、当時は知らなくて。で、オーディションは“後ほど電話連絡します”って言われて終わって」
──受かったと思った?
「えらそうなことも言ったし、受からないなって。でも、その夜、電話が鳴って、“次、どこどこに来てください”って。“いけたやん!”って」
──面接でにらみ合ったのが、社長だってわかったのは、いつ?
「僕、うどんが食べ物の中で、いちばん好きなんですけど、なんか関ジャニ∞さんの舞台とかに呼ばれると、例のおじいちゃんが、うどんをいっつも食べさせてくれて。僕のモヒカンの先っぽをやたら触ってきて、“YOU、顔だけじゃなくて、髪の毛もいかついねえ”って。だから僕の中では、うどんを食べさせてくれるおじいちゃんって認識だったんですけど、ついに、“あんた誰なん?”って聞いたら、“僕はジャニー喜多川だよ”って言われて(笑)」
──ハハハハハ。社長に「ブサイク」って言われたこともあるらしいね。
「あ〜、それは入って2、3年たってからかな。“YOUはブサイクだけど、心がキレイ”って、全力でフォローをされたことがあります(笑)」

ドラムのさらに後ろ。もう電飾よりも後ろ

──Jr.の活動は順調だった?
「全然。濵ちゃんが同期なんですけど、濵ちゃんはBOYSってグループをソッコーで組んだんです。マイクを持って歌ってて、うらやましかったですね。僕はステージに立つとき、いちばん後ろ。もうドラムのさらに後ろ。もう電飾よりも後ろで。“なんでここやねん!”って、悔しかったです」
──デビューについてどう思ってた?
「したかったですよ。でも、それより、目の前の人に楽しんでもらいたいってことと、“目立ちたい! 有名になりたい!”ってことばっか考えてました。目立ったもん勝ちでしょって」
──ただ当時は、「関西ではアイドルは育たない」って言われてたよね?
「地域柄、お笑いが強いですからね。東京のJr.と比較しても、出られるテレビ番組も限られるし、雑誌の露出だって少ない。そもそも、先輩のバックに立てる数が全然ちがう」
──そんな逆境で、よく心が折れなかったね。
「たしかに東京のJr.はうらやましかったですよ。うーん、でも、だからって、そこ言い出したって何も始まらない。生まれた場所のせいにしたってしょうがないでしょ!? どうにもならないことを悩み続けるより、目の前にあることに一生懸命になったほうがいい。それに、なんか変な自信もあったんですよ。今あるお仕事を、全力でやってれば、誰かが見ていてくれるって」
──なるほど。
「ま、“東京と比べると……”なんて考えるほど頭がよくなかったんで、そこまで不利だと思ってなかったんですけどね(笑)。とにかく誰よりも目立ってやろうってことだけ考えてました。関ジャニ∞さんのライブに出たときも、いちばん目立とうと思ってましたから。“腹黒い!”って言われること、多々ありましたけど」
──すごくポジティブだけど、辞めようと思ったことってなかったの?
「よく先輩がテレビや雑誌で、“辞めようと思ってました”とか言うときがあるじゃないですか。僕、“だったら辞めろや!”って口には出さないですけど、ずっと思ってたんです。“こっちは、がんばってやっとんや。辞めたかったら黙って辞めたらええやんけ!”って。そんなこと言っときながら、振り返れば、俺も辞めようと思う時期はあったんですけどね(笑)」
──それって、いつ?
「3回あって。高校生から大学に上がるときと、ハタチのとき。最後が去年の5月ですね。特にラストのときは、本気で辞めようと思ってました」

10年後も、いっしょに笑ってるんやろな

──2004年には、中間くんとB.A.D.のメンバーになったよね。
「最初は3人で、ふたりが年上。お兄さんといっしょってイメージでしたね」
──中間くんとは、性格が真逆だよね。
「そうですね」
──最初から仲よかったの?
「隠してもしょうがないんで言っちゃうと、仲悪かったです。めっちゃ仲悪かった(笑)。言うことも、やることも真逆でしょ。少なくとも僕は合わないなって思いましたね」
──どうやって仲よくなったの?
「少しずつかな。 “俺とはちがう、そういう考えもあるんや”って思えるようになっていったのかな。僕にないものを持ってるんで。大きかったのは、関西Jr.だけでコンサートをやるってなったときで。淳太がステージで笑ってるのを見て、“10年後も、いっしょに笑ってるんやろな”って思えた瞬間があって」
──出会って、もう10年以上の月日がたったね。
「出会えてよかったなって。僕、ひとりでいるのがイヤなんですね。ごはんも、ひとりじゃあんまり行かないんです。最近、ひとりでごはん屋さんに行ったとき、メンバーにグループメールで、“今、これ食べてんで!”って送ったら、みんな“美味しそうやな”って返してくれたんですけど、淳太は店に来てくれたんです。“おなか、すいてたから”としか言わなかったんですけど。“ひとりなのイヤやろ”とか、言葉にはしないですけど、寄り添ってくれる。いっしょにおってよかったなって思います。ありがとうなって」

ずっと関西Jr.のメンバーに、ごめんなって思ってました

──2007年にHey! Say! JUMPがデビューしたときは、どう思った?
「年下のコたちもいたけど、薮(宏太)くんたちがおったから、まだ次世代のグループって感じもしなくて……。でも、JUMPが結成されたとき、いっしょにライブしてたんですよね。だから正直、悔しかったかな」
──その後、高校卒業。さっき言ってた、1度目の辞めようと思ったタイミングだよね。
「そうですね。僕、こんな見た目のくせに、じつは心配性で(笑)。ほかのコが、ゲストとかに呼ばれて、自分が呼ばれなかったりすると、“なんでなん”ってむっちゃ考えるコだったんですね。ドンッて重くなるんですよ。あせるというか。何があかんかったんやろって。で、同級生は大学に行ったり、就職したりする時期で。漠然とですけど、“自分はもうやってけないのかな”って」
──はた目には、順調にキャリアを重ねてた印象があるけどね。
「けっこう先を見るタイプなんです。一歩先を見ちゃうっていうか。だから、見切りをつけるのも早かったんです」
──ただ、辞めなかったよね。
「“このライブに出たら、もう辞めよう”って思ってたライブに出たんです。そしたら、ちょうど『ごくせん』のプロデューサーさんが見に来てくれてて。直後に『ごくせん』が決まって」
──すごい、タイミングだね。ハタチのときは?
「そのときも、ぼんやり“そろそろ限界かな”って思ってた時期で。リビングに座ってメシ食ってたのかな。そしたら突然、オカンに“あんたのやりたいようにやりや”って言われて。相談もしてないし、何も言ってないんですよ。でも、そう言われたことで、またやる気が出たというか。そしたら、すぐに『流れ星』が決まって。僕、辞めようと思うと、何かが決まるんです。最後に辞めようと思った後には、デビューが決まったし。運がいいんです」
──それだけじゃないと思うよ。
「もちろん、何か仕事が決まるということは、その前に努力してきたことが評価されたのかなって。ただ、みんな同じだと思うんですけど、暗闇の中を走ってるようなもんじゃないですか」
──どういうこと?
「全力で走り続けても、いつ努力が報われる瞬間が訪れるかなんてわかんない。でも、走って、走って、もうダメだって立ち止まってしまったら、じつはその10m先、もっと言えば、あと一歩先に、夢がかなう瞬間があったかもしれない。ありきたりですけど、あきらめたら、立ち止まってしまったら、そこで終わりなんです。難しいですけどね。でも、限界だと思ったとこから、絶対にもう一歩だけでも走り続けたほうがいい」
──なるほど。覚えてるけど、『ごくせん』、がんばってたよね。
「あのときも、とにかく目立ちたいってのが強かったです(笑)。とりあえず爪痕、残さないとって」
──かなり残したと思うよ。
「うーん。でも……。これは、初めて言うんですけど、ずっと申しわけないなって思ってました」
──誰に対して?
「関西Jr.のメンバーに。関西Jr.を代表して僕が出て行ってるのに、『ごくせん』に出たことで、関西Jr.が盛り上がったのかっていったら、そうでもない。KAT-TUNみたいに“ドーーン!”っていくんやろなって思ったら、そうじゃなかった。その後も、いろんなチャンスを僕はいただいたのに、“ウワッ!”て人気が出ないことに、ずっと関西Jr.のメンバーに対して、ごめんなって思ってました。ずーっと、ごめん、ごめんなって」

桐山照史という人間は、笑ってなきゃいけない

──『ごくせん』の撮影が終わったころ入院してるよね?
「……はい」
──原因って?
「発作が起きて。過労とかが原因らしいんですけど、気管支炎で。ちっちゃいときは出なかったんですけどね。今は季節の変わり目に、たまに出るくらいですけど」
──じゃあ、右耳の難聴は、いつから?
「それは、関西Jr.でツアーを始めたころかな」
──そうだったんだ。
「プレッシャーとか精神的なものが原因らしいんですけどね。僕、昔からどんなステージに立っても、まったく緊張しないんです。“ザ・ワイルド!”みたいな感じに見えるでしょ? でも、見た目と心はワイルドでも、体はビビリなんです(笑)。関西Jr.のリーダー的存在だねって言われることもあったけど、何の貢献もできてないプレッシャーが、メッチャおっきかったんです。逃げ出したかったし、平気なふりしても、体はおびえてたんでしょうね」
──そうだったんだ。
「今は治ってるんで、全然大丈夫なんですけど。耳元でヘリコプターが飛んでるような音が聞こえたり、体中の血が流れてる音が聞こえたりしたんです。その音をかき消したくて、ひとりのときは、“ああすればよかった”とか、“あれは絶対失敗しちゃいけない”とか、頭の中で延々考えるんですね。無音がうるさすぎるんですよ、僕にとっては。だから、人としゃべってたほうが休まるんで、あんまりひとりは好きじゃないんです」
──だから、ひとりでごはん食べるのも好きじゃなかったんだ。
「はい。あのころは、特に不安定で。関西Jr.を盛り上げられず申しわけないって思いが強くて、だけど自分じゃない誰かが、呼ばれる仕事があったりすると、“やっぱ俺じゃダメなんだ”って、自分を追い込んじゃう。でも、桐山照史という人間は、笑ってなきゃいけないって思い込んで、人前では笑い続けて。そんなこと思ってること、誰にも言えなかったですけどね」
──支えてくれる人、いた?
「どうしたらいいのかわからなくなって一度、安田(章大)くんに相談したことがあって。そしたら言われたんです。“他人の幸せをよろこんであげられる人間になりなさい”って。その言葉に救われましたね。いろんなことがフラッシュバックしたんですよ。俺は、誰かの仕事が決まると不安になったり不満だったりもした。でも、関西Jr.のメンバーは、僕がドラマに出たりすると応援し続けてくれた。“がんばってな! がんばってな!”って」
──支えられてたことに気づいたんだ。
「僕は、関西Jr.を引っ張ってたんじゃない。ずっと支えられてた。ひとりでガツガツいってるように見えたかもしれない。でも、それができるのは、関西Jr.のメンバーがいてくれたから。バーッて走って勝手にコケても、後ろで支えてくれるメンバーがいたから。さっき、関西は東京に比べて不利みたいなこと言いましたけど、デメリットって見方を変えればメリットで。先輩のバックにつけないぶん、関西Jr.は、それだけいっしょにいる時間も長い。マネージャーさんも、頻繁にこれるわけじゃないから、後輩が遅刻したりしたら、先輩がちゃんと怒ったりもする。つながりがより深いというか。みんなで支え合う。もう関西Jr.で、ひとつの家族みたいなもんなんです」
──じゃあ、関西Jr.だった(中山)優馬くんについては、どう思ってた?
「もうね、入って来てすぐ優馬は見えてました。デビューが。自分の子どもながらに(笑)。“こいつは行くな”って。だから、悔しいって感情が芽生えるはずなのに、そうじゃなかったんですよね。それに、簡単にデビューしたって見えたかもしれないけど、まわりから見えるより、優馬は優馬で大変やったと思います」

その答えを聞いて、心は決まった

──2011年には、Sexy Zoneと、A.B.C-Zのデビューが決まったよね。
「そこ、いちばん“やばいな”って思いましたね。次にデビューするグループって、見えるって言われてるんですよ。“キスマイの次は、関西Jr.ちゃうか?”って、すっごい言われてて。でも、俺らじゃなかった。また、まわりの期待に応えられなかったって」
──やめようと思った3度目が、2013年の5月って言ってたよね。
「はい。淳太くんと濵ちゃんと3人でジャニーさんに“デビューしたいです”って伝えにいこうって話し合ったんです。“ここで言ってムリなら、もうデビューはないで”って。気持ちを伝えてもムリやったら、やめようって考えてたんで。こんだけやってムリやったんなら、ムリなんやろうなって」
──社長に何て言われたの?
「“大変だよ”って、素っ気なかったですね」
──覚悟を持って直談判したけど、想いは届かなかったんだ。
「でも、翌日、レコード会社に連絡を取ってくれたんです。デビューに向けて、動き出してくれた。その後も、何度も話し合って。俺はグループ名にジャニーズってついたグループって、じつはないんで、“ジャニーズってつけるのはどうですか?”って言ったら、“いいね”って言われたり。ジャニーさんが、“グループ名、7WESTってどう?”って言うんで、“いや、それもうあるで”とか(笑)。そんな会話があったんで、僕は7人でデビューできると思い込んじゃって。年末に“4人で”ってことを伝えられて……」
──それで、一度は腹をくくったんだ。
「はい」
──きついこと言うけど、その決断は残酷だったんじゃない?
「そうですね。残酷だと思います。4人で何度も話し合ったけど、とくに、しげ(重岡)は最後まで7人ってことにこだわってましたし」
──そうだったんだ。
「僕、初めて4人って言われたとき、泣きそうになってタッキー(滝沢秀明)に電話したんです。“7って思ってたんですけど……”って。そしたら、“おまえはどうしたい?”って聞かれて。“7でやりたいです”って答えてたら、“これからのおまえのひと言ひと言で、グループは大きく変わる。3人の人生も大きく変わる”って言われて。その通りだなって、余計に悩んじゃって。もしも3人が追加されて7人になっても、それは3人にとっていいことなのか、わかんない」
──そうかな?
「だって、追加されて4+3みたいな形になったら……。それに、次にチャンスが巡ってくるかもしれないのに、無理矢理くっつけて、3人の人生を弄ぶようなことになるかもしれない……。めっちゃ悩んで……。それでもやっぱ7人がよくて。ジャニーさんに電話したんです。留守電だったんで“7人でがんばってみたいです”ってメッセージを残して。でも、次に呼ばれたときも、4人ってなってて。想いを伝えても7じゃなかった。これは、腹くくらなあかんのかなって。選ばれた4人も、動揺してたんで、もう迷っちゃダメだって自分に言い聞かせて、“後ろ振り返らんとこ”って言ったんです。それは、切り捨てたんじゃなくて、このままずっと人数に関して引っかかってしまうんであれば、この4人にも未来はないから。7人がいいのは当たり前。でも、ここまできたら、それは酷やけど、今、やれることを全力でやろって。引きずらずにやろって。留守電のことは伝えてないんで、ほかの3人からしたら、“なんで、もう腹くくってんの?”“冷たすぎない?”って思ったかもしれないですけど。それで、カウントダウンを迎えて」
──選ばれなかった3人とは、何か話した?
「1月4日にコンサートがあって、顔を合わせたんですけど、めっちゃきつかったです。でも俺らより、3人のほうがぜったいきつい。7人だけじゃない。ほかの関西Jr.もきつい。俺らが、“ごめん”って言うのはちがうし、フツーに接するのがいちばんだと思ったんですけど、フツーにはできなかったですね」
──それから7人になった経緯って?
「コンサートでいっしょにステージに立つと、家族みたいなものやし、しっくりくるんです。3人には、俺らにないもんいっぱいあるし。絶対7人だったら成功するって思えて。コンサート後、メンバー全員に連絡して。“そうはしたくない、でももし、3人が追加されたとして、俺らのバックみたいに見えてしまうことがあるかもしれない。4と3みたいに見えてしまうかもしれない。それでもいいの?”って」
──みんな、なんて答えたの?
「全員、“それでもいい”って。僕は人数のことに関して、めっちゃ悩んだし、どう自分が動けばいいのかわからず無力さも感じた。1コまちがえると、いろんな人を悲しませてしまうから。でも、その答えを聞いて、心は決まって。ジャニーさんに、もっかい電話して、初めて自分の口から“7人でいきたい”って直接伝えたんです。そしたら、“自分たちで決めたんだから、責任を持って、ちゃんとやるんだよ”って言われたんです」

この7人やから、晴れたんやろうな

──今、振り返って、デビュー前の一連のできごとをどう思う?
「俺ら4人の力で、7人になったとは思ってないというか。ジャニーさんは、デビューって発表してからも、“4がいい? 7がいい?”って聞いてくれてたんです。ずっと決めかねてたんだと思うんですよね」
──7人での活動、不安はない?
「芸能界のイロハとかノウハウからしたら、4人がよかったのかもしれないんやろうけど……。でも、そんなことどうでもいいやって。そういうことじゃないやんって。4人が正解だとしてもモヤモヤが残るなら、成功するか、失敗するかわからん、それでも、この7人で失敗するなら、それで本望やと。もちろん、この7人だったら、絶対に失敗しない自信がありますけどね。ただ、俺が一度、腹をくくったのは事実で。3人があきらめないでいてくれたから、7人になれたんだと思ってます」
──なるほど。
「それと、7人でスタートを切ったからには、4+3じゃない。7人、横並び。ここからは目立ったもん勝ちです」
──ファンをこんなに不安にさせたグループも珍しいよね。
「ですね(笑)。だからこそ、売れたいです。この7人で。こっから俺らが、どんだけできるかが、恩返しにつながるはずだから。まだ全国区になれたとも思ってないし、ここからですけどね。“よーい、ドン!”ってピストルが鳴って、まだ右足を上げただけ。まだまだまだまだ。これからです」
──最後に、この7人でよかったって、いちばん強く思った瞬間って、いつ?
「いちばんは、今年の3月にハワイに行ったときですね。3000mを超える山の頂上で、夕陽をバックに7人で撮影することになったんですけど、すっげー土砂降りで(笑)。もう絶対、ムリみたいな。でも、夕陽がいちばんキレイな瞬間、一瞬だけ雨雲が切れて。夕陽が顔を出して、空がキレイにピンクに染まったんです。あの夕陽を7人で見たとき思いました。この7人やから晴れたんやろうな。この7人で、よかったなって」

取材・文/水野光博